25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

縛り

2019年10月09日 | 日記
2010年にこんなことを書いていた。

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縛るもの・2010年06月29日(火)
 時計の電池を入れ替えてもらった。「これはブランド品ですから、壊したらいけませんので時計店でやってもらってください」というのを「壊れてもかまわんからやってください」と言ったら、やってくれた。壊れることはなかった。
 これでひとつ片付いたと思ってすっきりした。鎌倉時代の時宗を起こした一遍上人は「家も持つな、何も持つな、おのれを縛るだけである」という風なことを言ったが、そうだよな、でもできないな、と思う。
 店はカードを持たせて縛ろうとする。カード会社に入れば縛られる。落したり盗まれたら面倒だ。病院は診察券。車は免許証。七月一日が更新のための講習日だ。携帯やカメラをもてば、バッテリーだ、なんだとなる。車は車検がある。
 愛犬をもてば餌がいるし、管理がいる。なんでもかんでも「縛る、縛る、縛る」である。
 できるだけ物は持たない生活。いわば死が近づいてきたら身奇麗にして、思い出の写真一枚ぐらいもっていればいいな、と思う。

 体が病気を起こすと体そのものに縛れられることになるしなあ。う~ん。
 お金は使ってしまえばいいので、縛らないなあ。預けたら縛られる。やはりお金は魔力ではある。
 異性は互いを縛ることになる。

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 どうも9年前は「それでどうするの?」ということを書いてない。今やキャッシュレス、キャッシュレスとカードでの取り込みをしようとカード会社は大きな資金をかけて勧誘している。それやあそうだ。消費者が消費すれば、店から1.5%とか3%とかなにもせずにお金が入ってくるのだ。
 ぼくはこういう商売は「あこぎな商売」だと思っている。もうひとつ関係者には悪いけど、金融マンも「あこぎな商売」だと思っている。これが資本主義の特徴でもある。

 愛犬は死んだけど、今度は金魚とメダカを飼ってそれに縛られている。
 94歳の母親を見ていると縛っているものが使えなくなってきて、最後の体そのものに縛られている状態だ。別に昔のアルバムを取り出すのでもない。昔作った短歌を読むのでもない。
テレビの音がざわざわしているのが落ち着くらしく、静かな孤独は嫌みたいだ。よく薬を飲んでいた。薬からもだんだんと解放されてきている。便秘の薬も飲まなくなったし、睡眠剤も飲まなくなった。そういうのを見ているとだんだんと捨てるものは捨て、使っていたものを使わなくなり、ぼくも流れに任せてそうしていくのだろう。