血液型性格判断について、僕は一応慎重な対応を取る。
具体的には“言わない・訊かない・楽しまない”。うまい具合に三拍子になった。
この件で性質が悪いと思うのは、あえて関心を持って資料に当たらないと“きちんと否定している”情報に出会えないことだ。そういう状態で、占いと疑似科学の境界線が曖昧なまま話題に上げることは気が引ける。僕は余計な偏見を持ちたくないし持たれたくもない。
そもそも人間をテンプレートで分けるのは統計で見るようなマクロな話であって、日常僕たちが会う人たちほど個別に、ミクロに判断すべきものだ。一期一会の他人を大勢処理しなければならない時は明示しやすいデータで効率的に処理する(たとえば服のサイズの様に)のが効率的だけれど、私的な人付き合いをテンプレートで済ますのは僕は不誠実だと思う。“らしくない”人への冷遇、というのは結局マイノリティという不運な人を不運たらしめる構造に加担する態度だ。
本来“明確な根拠がないものを肯定しない”という立場で十分なはずなのだけど、現状では明確な根拠に触れる機会が与えられないまま結論らしきものだけが既成事実として蔓延しているのが厄介で、最近ではマイナスイオン商品フィーヴァーも併せて考えると教訓的だなあなどとも思う。
つか真剣に考えるならきちんと一々否定し啓蒙みたいなことをしなきゃいけないんだけど、この辺で妥協する情けなさが僕のスタンスである。
具体的には“言わない・訊かない・楽しまない”。うまい具合に三拍子になった。
この件で性質が悪いと思うのは、あえて関心を持って資料に当たらないと“きちんと否定している”情報に出会えないことだ。そういう状態で、占いと疑似科学の境界線が曖昧なまま話題に上げることは気が引ける。僕は余計な偏見を持ちたくないし持たれたくもない。
そもそも人間をテンプレートで分けるのは統計で見るようなマクロな話であって、日常僕たちが会う人たちほど個別に、ミクロに判断すべきものだ。一期一会の他人を大勢処理しなければならない時は明示しやすいデータで効率的に処理する(たとえば服のサイズの様に)のが効率的だけれど、私的な人付き合いをテンプレートで済ますのは僕は不誠実だと思う。“らしくない”人への冷遇、というのは結局マイノリティという不運な人を不運たらしめる構造に加担する態度だ。
本来“明確な根拠がないものを肯定しない”という立場で十分なはずなのだけど、現状では明確な根拠に触れる機会が与えられないまま結論らしきものだけが既成事実として蔓延しているのが厄介で、最近ではマイナスイオン商品フィーヴァーも併せて考えると教訓的だなあなどとも思う。
つか真剣に考えるならきちんと一々否定し啓蒙みたいなことをしなきゃいけないんだけど、この辺で妥協する情けなさが僕のスタンスである。