em-Pits : 千葉研究所

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第1回 吉浦康裕映画祭

2014年05月19日 | アニメ
 新文芸坐オールナイト『第1回 吉浦康裕映画祭』に行ってきた。
 目当ては『サカサマのパテマ』で、僕は『棺姫のチャイカ』に挟まってるヴィデオのCMで知った。知ったところに上映会がタイムリーに入ったので、これは見ておこうと思ったのだった。

 感想はTwitterにも少し書いたのだけど、確かに作風は吉浦監督本人の語る通り(これは先入観になってしまっているけど)舞台演劇色が強いと思った。ちょっと突飛なシチュエイションを淡々と演じる、という背景は演劇寄りの印象がある。逆にシチュエイション自体に納得のいく説明を求めようとするのはSFファンの困った癖なのかもしれない。

 あと、トークショーでは観客からの質問も受け付けていたのだけれど、質問への答え方はやはり専門に創作を学んだ人って感じがあった。自分の作品作りの姿勢を言葉にしてきちんとプレゼンテーションできるタイプというか。ホストの小黒さんの進行もいつかに比べるとかなり上手くなっていたけど、監督自身かなり聡明で話の上手な人だなと思った。

 余談だけど、『アニメミライ』で『アルモニ』を見た関係者から“この作品は監督が裸踊りをしている!”と“庵野秀明的な表現”で評されたらしいのだけど、これが太田出版『スキゾ・エヴァンゲリオン』にあった『第参章《創作とはオナニーショウである》』の引用ならかなりマイルドに婉曲化したものだな、と思ったw
“どんなに粗末でも客は監督のチンチンを見に来てるんでしょう”みたいな比喩が使われてるからなぁ。

 閑話休題。『サカサマのパテマ』はとてもいい映画だった。なんというか、この映画については僕の得意な評論めいた感想はあまりなくて、“面白かったから見るといいよ”と思っている。

 短編はちょっと飛ばして、『アルモニ』。切ない。このアニメにおける“教室”という空間の表現は一見の価値あり。教室という空間のあの距離感をここまで描いた作品は他にないんじゃないだろうか? と、僕は別にアニメをたくさん知ってるわけじゃないけど、それぐらい印象的だった。

 それから『劇場版イヴの時間』。色々と好きなんだけど、主人公たちを抑圧するシチュエイションだけがなんか引っかかってしまった。その辺は僕の、寓意性の高い物語が得意じゃない点が障害になったのだと思う。

 作品もすごく良かったのだけど、それに増して監督自身が解説してくれて映画館の音響と大画面で引き込まれるように映像に入り込める、鑑賞するのにお膳立ての整った最高に贅沢な環境だったと思う。
 そういう機会と作品に恵まれて、今振り返ってとてもいい“ライヴ”だったな、という印象を持ってる。

 作品の感想がちょっと舌足らずだけど、今回は変に語るより“見てくれ、きっと面白いから”と思うんだよね。

ヱヴァQのネルフロゴについて

2013年03月10日 | アニメ
 考え出すとハマってしまったので、ヱヴァQのネルフロゴ考察(というか気づいたこと)についてノート。

・新ネルフロゴは初号機(あるいは13号機)の顔に似せてあると思われる。

引用元:http://evaq.web.fc2.com/sosiki.html

雑ながら、角と後頭部のラインを拾うとイチジクの葉っぽいラインが得られるのね。これ自体は意図してのデザインではなかったと思うのだけれど、こうして対応させると新ネルフロゴには眼や顎に相当する線がある(口をあけているエヴァ、とも取れる)。少なくともこのロゴのデザイナーはこのことを意識していると思われる。

『それをなすもの』が手近にないため検証できないのだけど、エヴァ初号機のバストアップのシルエットをあしらったネルフロゴ案があったような気がするんだよね。番組タイトルロゴだったかも知れないけど。様々な理由から割愛された没案の復活も多いので、これもその類かなーと考えた結果。

 誰か指摘してないかなーと思ったんだけど、それらしいワードでググっても出てこないので記事化しておく也。

追記。
 このロゴの右2つのヴァリエーションの段階で初号機頭部のシルエットを意識していた節はある。

引用元:http://wiki.livedoor.jp/shingekijouban/d/%A5%DE%A1%BC%A5%AF%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6%A4%CE%B9%CD%BB%A1

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

2013年02月24日 | アニメ
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を見てきたので感想でも。

 なんだかアスカの扱いが不憫だと思った。メタ的にいって。

 全体に殺伐としていて、思い返すほどに『THE END OF~』と重なるのだけれど、終焉へのカウントダウンに入っているという意味では似てくるのも頷ける話ではあるなーと自答。
 でも、キーになる存在でありながら失意の中で大人たちの思惑に振り回される一方のシンジ、結果ゲンドウの思惑通りにことが進むってのはまんま『THE END OF~』での構図なんだよね。
 そんなシンジを気遣う余裕のある登場人物が実質カヲルと冬月の二人だけ、ってのが、まあ、この物語の異常さを端的に表してはいるんだが。
 その辺は、前作までで追い風が吹き始めていたシンジ達の交流の粉砕へのダメ押しだった。全体に『序』『破』はご破算にして『THE END OF~』の風が再び吹き荒れていたと思う。“そんなところまでリメイクするのか”というのが僕の一言にまとめた感想といえる。

 そして、冒頭のアスカの件。これは他の登場人物も含めてなのだけれど、ハッキリ言って14年分の成長が窺えないのだな。
 余談ながら、14年という時間経過は“当時”を知るファンを意識しての設定なんだろうなぁ。『THE END OF~』で観客席の実写映像を出したのと似ているけどはるかに洗練されている…上に『THE END OF~』からも既に14年という“現実”はさらに重いし、その『ヱヴァ』がもはやメインカルチャーの座にある現代は皮肉ですらある。
 と。そう考えると、“現実のお前らも大して成長してないでしょ?”という皮肉にも思えてしまうのは最早エヴァオタの業の域なのだけれど、…ともあれ一番表立って他人に不満と怒りをぶつけるアスカが繰り返しシンジをガキ呼ばわりするのは痛々しくさえあった。
 そういう危うさはミサトにも感じられたし、実際シンジをあっさり奪われて始末もできなかった訳だが、『THE END OF~』での戦略自衛隊員を「悪く思わないで」と『羅生門』よろしく捨て台詞を投げかけ射殺、アルピーヌ・ルノーで死体を踏み越えながらケージに向かったミサトの迫力に比べると悪く言えば甘いし良く言えば救いがある。

 他にも『THE END OF~』では「撃たなきゃ死ぬぞ!」と叱咤されていたマヤが「最近の若い男は」と吐き捨てている辺りも面白いのだけれど、結局のところ僕の感覚では旧世紀版のエゴ剥き出しの大人たちと大して変わらなく思えるのだった。緒方恵美はインタヴューに「女子がみんなたくましい」と語っているけれど、単に男性原理に則った所で男性を押しのけているだけで結局は弱さの面でも男性と同じものを抱えてしまっているように僕は見る。
 そこではアスカすらマイペースでいなしているマリの存在こそが救いたり得る気がするんだけどねぇ。
 いずれにせよ、ものすごい不安定な印象で次回作へ接続する作品だったな。


 さておき、未だにアスカの声に馴染めない。アスカといえば『THE END OF~』の惣流アスカの叫びのイメージがずっと抜けなくて、幼さの目立つ式波アスカの声は迫力に欠けるように感じられるんだよね…。レイは割りとすぐに慣れたんだけど。

雑感『魔法少女まどか☆マギカ』

2012年11月04日 | アニメ
「暁美…ポメラです」
というわけでポメラをしばらく振りで出したのだけれどそれはVAIO Xが小さくて軽いからであった。というかどっちにしても通勤電車は混みすぎててラップトップでテキストを打つどころではないのであった。

 本日のテーマは満を持しての『魔法少女まどか☆マギカ』としたいと思います。ストーリー自体は劇場版とTVシリーズで変わるところがないので、特に劇場版には限定しません。語れば語るだけ陳腐になるのは判っていながら書くしかない。

・5人それぞれのケース
 Wikipediaを見るとTVシリーズを3話ずつで人物別にまとめているのだけれど、なるほどこの物語は5人の“魔法少女”のストーリーのオムニバスとしてみるときれいに整理される。
 基本的に“救い”をテーマとして、それは物語の最後まで叶わない。5人ともそれぞれ他人を救おうとして挫折し、最後にまどかが改めて他人を救うことに成功するという形になる。
 マミの場合、魔法少女の力を得て不特定多数の一般市民を助けようとして戦死したし、さやかは恭介を助けたが他人を呪う最期を迎えるし、杏子はそのさやかを助けることができずにやはり戦死する。ほむらとまどかの関係は少し複雑になるけども、互いを助けようとした結果として救いを遠ざけている。

 これ以外にも、『まどか』は反復性の強い構成だと思う。それはバネに弾性エネルギーを蓄積するように、ラストの救いに向けてひたすら失敗を重ねるように設計されているからだ。終盤に明かされるほむらの過去にしても、ズバリ“繰り返し”そのものである。

・さやかと杏子
 そんな中僕が好きなのは、すれ違い続けたさやかと杏子の物語だ。後に展開する(明らかになる)まどかとほむらの物語への土台にもなるのだけれど、それ故この二人は最後まで打ち解けることができないままだった。
 この後ほむらの物語では、まどかによる「やっと名前で呼んでくれたね」という言葉があるのだけど、これをさやかと杏子の二人に当てはめると杏子がさやかを名前で呼ぶようになるのはさやかが魔女化してからだ。
 ちなみにこのとき二人が最後に交わした会話は、さやかが自分挫折を通じて杏子の言葉に理解を示すものだった。この時点で杏子の方は、あくまで自分の信念を貫こうとするさやかにかなり影響されている。この後さやかを救おうと奔走する姿や、ラストで再登場したときの“決めたのなら突っ走るしかない”という台詞は明らかにさやかの影響下にある。
 ソウルジェムのシステムがなければ、ここで晴れて二人が仲間になれる瞬間だったと思う。
 後に別の世界で杏子が「やっと友達になれたと思ったのに」と言っていたのは、この時の心情が形を変えて語られたものだと僕は理解する。

 ということで一番書きたかったことは書いたのでじゃあ二番目に書きたいことを書こう。ほむらとまどかの関係について。

・ほむらとまどか
 ほむらはそもそも、ワルプルギスの夜との戦いで死んでしまうまどかの運命を変えたくて魔法少女になっている。ここでも他人を救いたいという願望がキーになる。このときまどかが死ぬに至って初めてほむらは魔法少女になれる。逆に言うと、最後までほむらは魔法少女として戦うまどかのことをひとりの友達として見守るしかできなかった。
 これはそれまでの話で描かれたまどかの姿と対になっている。
 そして実際、後の世界でほむらの手で魔法少女になることを阻止されてきたまどかは、単身ワルプルギスの夜と戦うほむらを助けるために魔法少女になる(し、一度はそのまま魔女になり果てる)。
 これまでの魔法少女の物語では第三者に向けられてきた“救い”だが、まどかとほむらの関係ではお互いに向けられる。でも、それがこの物語の結末への光明にもなっている。

・余談
 前述の通り、結末に向けてバネを圧縮していくように、途中までの脚本は登場人物に容赦がない。中でもまどかとほむらの二人だけで戦わざるを得なくなった時は悲惨なのだけれど、
1.杏子をマミが殺す
2.マミをまどかが殺す
の後に
3.ほむらがまどかを殺す
というみんなで仲間殺しの業を背負う展開になっておりすごくイヤな反復がここにあるのだった(ここの物語もすごく好きなのだが冗長な気がするので割愛)。
 さらに考えるとその前に
0.ほむらがオクタヴィア(元さやか)を殺す
があり、まあなんつうか結果的に唯一さやかのみが物語の中で仲間を殺す業からは逃れているのだった。余談だったなあ。

『魔法少女まどか☆マギカ』

2011年06月29日 | アニメ
てめえは政府より信用できるってんだなコノヤロウ。

今日はどこぞの週刊誌への愚痴からスタートしました。
最近は思いついたことをTwitterで小出しにしているのでめっきりヱブログの更新意欲が閾値を超えない。
かといって「このところ思っていることはTwitterに書いている通りで」とかいうとハッシュタグもなくその時々思いついたことを書き散らかしているので愚痴と風刺と地口と愛の言葉が交互に出てくるのでとてもまとめて読めたものでない。

というわけで久々の更新と相成った。


とりあえず『魔法少女まどか☆マギカ』雑感。
個人的にはものすごく剣崎一真エンドだった。
つっても“人間でなくなる苦悩”はそれだけで仮面ライダーの中核コンセプトと重なってしまうのだけれど。
『仮面ライダー剣』と重なるのは“人間であることを捨てて運命(定め)に挑む最強の主人公とその友情なのだが、一方で『まどか』がSFなのは最終話でほむらがキュゥべえと共闘している点。これは言い換えたほうがポイントがはっきりして、
>ほむらが共闘しているキュゥべえは敵対してきたキュゥべえと本質的に変わっていない点
ということになる。

『剣』では、一部アンデッドが人間と共闘できたのはひとえに“感情”による。
ジョーカー・相川始も、感情を持ち人間に歩み寄ることで、人類に吸収される形で共存に至っている。
『まどか』ではキュゥべえに感情を与えないまま、ほむらにしてみればかつての仇敵(一応別人ではあるが)キュゥべえ側の歩み寄りがまったくないままで共闘を実現している。
これはほむらが各ループでことごとく他キャラとすれ違ってきたこと、特に物語メインの時間軸では強硬な姿勢に出た結果として他の魔法少女を全て失っていることに対する彼女なりの答えと取れる。

はっきりいってどの魔法少女も幼さゆえに取り返しのつかないことになっているので、“成長”を(終盤の)主人公ほむらを通じて描いた形になるだろう。

※このテキストは慣れない新下駄配列で入力されました。そのため入力に精一杯であまり推敲されていませんにょん

機動警察 THE MOVIE

2010年11月14日 | アニメ
機動警察パトレイバー劇場作品をオールナイトで鑑賞してきた。
・機動警察パトレイバー THE MOVIE
・機動警察パトレイバー2 the Movie
・ミニパト1~3
・WⅩⅢ 機動警察パトレイバー
以上。

強く思うのは、作中で描かれる風俗の変遷について。
第1作は1989年、第2作は1994年、第3作は2001年。第3作の段階では、ついに作中の年代を追い越してしまっている。描くべき時代が「未来」から「現代(if)」に変わっていくのは連続で見ていて面白かった。
パトレイバーは作品世界の近さを演出するために、共感を得やすいディテールにこだわり、その既視感をもってリアリティとしている作品だと思う。

それに対して帰りの列車、窓から見える建設中の東京スカイツリーの未視感に、僕はひどくフィクショナルな印象を抱いてしまった。
以前書いた'80年代的なものに依存したリアリティの基準を持っている限り、現代東京はたびたびフィクショナルな印象をもたらす街だと思う。
「未来的なものに部分的に侵食されている現代」というのは近未来SFの背景の常套手段だけど、それは地方格差としても存在して、地方出身の僕には「未来的なものに部分的に侵食されている現代」というのはまさしく東京近郊のことになる。わかりやすい例が自動改札。
地方の感覚としては、自動改札ってまだまだ導入されない「未来の技術」なのだ。

時代の変遷を感じる部分としては、2ちゃんねる(風の画面)すら出てくる第3作の時点では、たとえばレイバーOSの起動画面はWindowsやMacOSを見てきた僕らにとってリアリティを欠くものになってしまっている。
CGだって「ここはコンピュータですよ」という演出だったものが、現実にはアニメーションのグレードを上げるための裏方の技術として浸透している(あまりアニメを見てこなかった僕には、改めてみた第1作・第2作の動画の手書き感はちょっと新鮮だった)。
プルタブは無くなったし、ポケベル(第3作に登場しているが)も自動車電話も携帯電話に取って代わられてしまった。そういえば現実の1999年は中学生や高校生が携帯電話を持った時代だったな。
PCは1家に1台、常時接続はもう少し待たねばならない。ADSL前夜といった時代だったように思う。

そんなわけで、特車2課を脇役に据えてアナザー日本のSFドラマとした第3作の切り口はなかなか面白いものだった。
設定に盛り込んだ、'80~'90年代の共感を得るための仕掛けはすべてノスタルジーをもって受け入れられる、そんな時代にうまく合わせたスタイルだったと思う。

他に連続で見て思うことといえば、第3作に向けてどんどんProduction I.G.色が強くなっていったこと。

僕はパトレイバーは漫画版から入ったクチなので登場人物のキャラクターの違いをどうしても意識した。ゆうきまさみは全体に人物を押さえ気味に描いていたのに対し、アニメ版は声優のキャラクターを生かした造形になっていると思う。

まーずらずら書いたけど、そんな。

『ストライクウィッチーズ2』

2010年08月22日 | アニメ
今朝3ヶ月ぶりに『仮面ライダーW』を見たらフィリップがいなくなってしまった。
「人を愛することが、罪だとでも…言うトピア!」


さて『ストライクウィッチーズ2』。ニコニコチャンネルで見られるからという理由で2年ぶりぐらいに見てる新作アニメ。
なんとなく見たらキャラクター(=リーネとペリーヌの眉毛)が気に入ったので惰性で見てたはずが、すでにチェックして当たり前になっている今日この頃。

このアニメ、気恥ずかしいぐらいに展開が王道。それは第1話を見終わった時点で明白ではあるんだけど、ひねたマンガマニアとして一筋縄ではいかないストーリーのマンガばかり読んできた身には「あ、それでいいんだ?」と思わず拍子抜けを覚えてしまうほど。
とはいえ、結局は“かわいいキャラクターが脚を強調して活躍するアニメ”が確信犯であれば“展開は王道を行く”ってのも確信犯だということなんだと理解することにした。

この、マニアックなはずの層に誰もが期待してしまうストーリーをあえて提示するスタイルには既視感があるなーと思って考えてみたら、『仮面ライダーSPIRITS』だということに気づいた。“ライダーはこうでなくちゃ!”という安心感、様式美の世界とは言い過ぎだろうか。


考えてみるとかわいいキャラクターとメデタシメデタシなストーリー展開って、娯楽としては完璧だと思った。などと書くとちょっとアレだけど、僕はこのアニメが気に入ったという話で。
上山道郎がいつかプリキュアについて書いてた‘画面を注視しなくても付いていける’というようなやつで、実際僕はこのアニメを流すときに画面を注視していなかったりする。

要するに製作者にまんまと乗せられたということなんだろうなぁなどと思った(もっとはっきり褒めてるように書けよ俺)。