em-Pits : 千葉研究所

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「クウガ」と「仮面ライダー」

2010年07月31日 | 
平成仮面ライダー、例えば『仮面ライダークウガ』の主人公は劇中で「仮面ライダー」と呼ばれないことは有名だ。

確かに、それまでの仮面ライダーシリーズでは原則、主人公のヒーローとしての呼称がそのままタイトルだった。
変化があるのは劇場作品『真・仮面ライダー序章』や『仮面ライダーZO』で、『真序章』では主人公がなぜ「仮面ライダー」なのかついに明かされることがなかったし、『ZO』では「ライダー」「仮面ライダー」という台詞こそあるものの「仮面ライダーZO」という言葉は一度も出てこない。
『ZO』はあくまで、『仮面ライダー(新)』の「(新)」にあたる作品識別用の記号と考えることが出来る。

さて、『クウガ』の話に戻る。
実はタイトルの「仮面ライダークウガ」は、それまでと異なる構成だと考えることですんなりと理解できるのだ。

『仮面ライダー』は、前述の通り主人公・あるいは作品の中核をなす存在の固有名詞をそのままタイトルにするパターンである。
このパターンのタイトルには他に『のらくろ』『ドラえもん』『ゴジラ』『ストライクウィッチーズ』などが挙げられる。

対して、『仮面ライダークウガ』。これは、『鉄腕アトム』に類するタイトルといえる
つまり、固有名詞の前にその特徴を示したキャッチコピー、二つ名が付いたものである。
他に『機動戦士ガンダム』『戦国魔神ゴーショーグン』『天空の城ラピュタ』などが挙げられる。

このパターンの場合、それぞれアトムという固有名詞の持ち主は鉄腕であり、ガンダムという固有名詞の持ち主は機動戦士なのだ。
すなわち、『仮面ライダークウガ』であれば“クウガは仮面ライダー”なのである。


ここでさらに解りやすくするため、『仮面ライダーBLACK』と比較してみよう。
たとえば、仮面ライダーBLACKとクウガを並べて「仮面ライダー!」と声を掛けたとする。すると、呼びかけに応えるのはBLACKだけである。クウガは自分が仮面ライダーであることを知らないからだ。
今度は「クウガ!」と声を掛けてみる。クウガが応えてくれるだろう。「クウガ」こそが自分の固有名詞であると認識している以上、自然である。
クウガにとっての「仮面ライダー」は勝手につけられたアダ名みたいなもので、かつてのビリーハリントンにとっての「森の妖精」と似たようなものだ。
では「BLACK!」と声を掛けるとどうなるだろうか?少々戸惑いながらBLACKが応えてくれるだろう。BLACKは、あくまで自分を「仮面ライダーBLACK」というフルネームの、唯一の「仮面ライダー」だと考えているからだ。反対に「BLACK」が他にもいる可能性は認識しているだろう。チャージマン研みたいなものである…例えが解りにくいな。
他の例えで言うと、天皇や各大臣のような人を呼ぶ場合には名前より肩書きが圧倒的に合理的なことと似ている。

BLACKにクウガ方式でタイトルをつけると、仮面ライダーBLACKは仮面ライダーだから『仮面ライダー仮面ライダーBLACK』になり、逆にクウガにBLACK方式でタイトルをつけると仮面ライダーを外して『クウガ』になる。


ということで、解りやすくするつもりが余計わかりにくくなったところで今日の記事を終わりたい。


ちなみに「5人揃ってゴレンジャー」の『秘密戦隊ゴレンジャー』は『鉄腕アトム』式だが、後のスーパー戦隊シリーズは『のらくろ』式になっており、仮面ライダーと逆の変化を遂げているといえなくもない。
といってその境界は曖昧だし、タイトル命名パターンの一般論は大変そうなのでここでは扱わない。

反戦の理念と現実?

2010年07月29日 | 日記
そもそも単に、反核と反戦って別の問題だよなという疑問から始まる。報道で反核の活動を「平和への思い」と(個人的には)飛躍を感じるまとめ方をしていたので。

というわけで「戦争体験を語る」ことと「戦争をなくす」こととの間にある大きなギャップへの疑問について。
ひとつの根拠は古い本だけど手元のゴマブックス『心理トリック(人をいのままに操る心理法則)』多湖輝著に「逆効果の法則」として出てくる実験結果。
BIGLOBEなんでも相談室の心理学用語についてに解説(というか摘要)されているので、ここに引用させてもらう。

 2つめは「恐怖感に訴えた説得はどれだけの効果があるか?」というものです。アメリカの心理学者ジャニスとフェシュバックの実験が紹介されてます。
 ある高校生の新入生を3つのグループに分け、虫歯予防のスライドを使って講義しました。
 Aグループ・・歯の不衛生による疾病を強調し、不安を起こさせ感情に訴えた。
 Bグループ・・穏やかな調子で事実をあげ、疾病の危険を話した。
 Cグループ・・歯の衛生上の忠告にとどめ、疾病については大げさに述べなかった。
 講義後、不安度を調査すると、Aが42%、Bが26%、Cが24%であった。これから、恐怖の程度が高いほど自分の虫歯を心配する傾向が現れました。ところが、歯医者に行くなどの対策を講じたのが、Cが36%、
Bが32%、Aが8%でした。
 このようなことを、「逆効果の法則」というそうです。人間には、ある行為の結果を恐れれば恐れるほど、ますますその行為を継続するという逆の心理があるそうです。


という。

体験談を語ることは戦争という概念にリアリティを与える意味では有用だと思うけども、結局は受け手の想像力や考える力に大きく依存する。
少なくとも当事者が期待してるほどの効果は得られていないのでは、と僕は考えてしまう。

ついでに言うなら、いわゆる「戦争体験」は戦争という大きな出来事の一面を個人体験という切り口で捉えたものでしかない。たとえば“戦後”の混乱を含めて今へ繋がるように語ることだって可能だ。むしろ、国のスケールで行われる戦争の影響は間接的なものの方が大きいのではないか。それもひとつのリアリティだ。

個人的にはわかりやすい答えが用意されていることも白々しくて苦手だ。たとえば戦争なり被爆で傷を負った人が涙ながらに語る、というお膳立てそれ自体が「戦争は悲惨ですね、やってはいけませんね」という感想を述べることへの誘導である。それが果たして“伝わった”ことになるのか、という点は教育関係者は特に考えてみるべきだと思う。


結局のところ僕がいつも漠然と覚える不安は、平和を願う人々―特に高齢となった戦争経験者たちの強い思いが空回りしている可能性なのだ。
それは「大義名分」にまつわる物事への批判的意見自体がタブー視される空気への違和感に由来している。

そういう違和感も含め、どうすれば“戦争体験”を生かせるのか僕なりに言えることが無いのもあってこの時期のニュースは気分が晴れない。

嫌な思い出話を

2010年07月27日 | 日記
職業について書くのは苦手である。働いてないから。でも書いちゃう。
面白くないよ。

自分が真面目だという気はないが、無闇にプレッシャーを感じやすい性格ではある。基本的に他人の“隠している”悪意に対する恐怖感が異常だから。
そういう訳で、自分のヘマが叱られず、「あー、いいいい」とあっさり許されてしまった時のほうが不安感が大きい。これには別にきっかけとして思い当たる出来事はないので、徐々にそうなったんだろう。
しかしその性格が、2008年暮れの自律神経失調症の大きな要因となったことは間違いない。

正直言って不文律というものがまるで判らない。“常識”“普通”と“非常識”“異常”の境界線が良く判らない。僕は余計なことをする場合が多いようなので、とりあえず非常識かもしれないことと異常かもしれないことは出来るだけしないようにしてきたつもりだ。
とはいえこれは、李下に冠を正さずとはいうけど冠を正すこと自体をやめるようなものであってどこかで無理が出るのは明白だったわけで。


ここで思い出話になる。2008年の夏、僕はネットワーク機器開発の現場に派遣された。初歩のディジタル回路や電子回路やCがわかる(ハード系としては)新人エンジニアとして。
形式的なVHDLの学習を経て、Cのファームウェアのプログラミングとシミュレーションによる回路の検証を担当することになる。
はっきり言って、ミスマッチもいいところだった。

遡れば学生時代の就職活動の段階で含んでいた問題なのだが、前述したような人間の僕は周囲に期待されるような“受け答え”をしてしまう傾向がある。しかも、発言の時点では不本意だと思わないところが性質の悪いところだ。
要するに、僕は平気で嘘を吐く、という事に他ならない。
結果的にはやる気に能力が付いていかない、という言い方が出来ないことも無いがそれで解決することでもないので不毛だ。
もう少し弁解してみる。
僕は当時の自分のことを、人並みのサラリーマンだと思っていた。人並みである以上、人並みの期待には一通り応えられる気でいた。なので人並みの受け答えをしてみた。つもりだった。

まー、こっちが一方的に悪かったと言うほど人が好くはないけど、今回は自分の反省なので向こうの落ち度は考えない。が、口の悪いことは書くと思う。
当時の職場は朝礼もなく、歓(送)迎会も行われなかった。これは単に人付き合いに消極的な人の集まりだったといえる。まあ、自分も慣れるだろうと思った。とはいえ、ほとんどスキルの持ち合わせが無い僕には向かない環境だったのは間違いない。事前面接(違法、良し悪しは別にして)では実戦経験のある先輩もいたのに、なぜ僕にチャンスが回ってきたのか、どういう働き振りを期待したのかは謎だ(求めていた人物像はわからんでもないけど、違いすぎる)。今は失礼な話、上司に人を見る目がなかったろう事は想像できるけど。
そんなわけで、各自独りで黙々と自分の席を離れずに作業を行うのがその職場の基本スタイルだった。
最初の1年弱を過ごしたQAは割とノリの軽い、社交的な人の多い職場だったのでギャップは大きかった。今思えば僕は注意力が散漫で労働が嫌いで根気もなく眠気に弱くウケ狙いに走りがちな人間なので、そういうカタい職場はとんでもなく場違いとしか。いや中にはいつも楽しそうにしてる人もいたけど。すごく尊敬するな。

前述の僕のスキルはほとんどが自分を採用した会社での待機研修の独学によるもので、効率的なプログラミングの作法を無視した担当プログラムは見るに耐えないものだったと思う。ものづくりに携わっておいて何だけど、あの仕事は1バイトたりとも残っていて欲しくないというのが本音だ。
シミュレーションではQA時代のテストデータ作りのスキルは多少生きたけども。

時折会議はあったがほとんど理解できなかった。のだと思う。内容が記憶に残ってないから。
集団の仕事と自分個人の仕事の関係も良く解っていなかったと思う。とりあえず指示に従っていれば、というかそれぐらいしか出来なかったしやろうとも思わなかった。

などと思っていたら、プロジェクトの遅れが致命的になっていた。まったく仕事熱心でない僕には非常に耐え難い日々が始まるのだった。残業休日出勤当たり前のアレで。
些細なことで涙が出やすくなったのはこの頃からのような気がする。独り暮らしもあって、潜在的ストレスはかなりのものだったのかもしれない。
ロングスリーパーである僕には慢性的な睡眠不足が何より辛かった。いや注意力散漫な僕には無口な職場で一日の大半を過ごすことも相当辛かった。仕事をしていて楽しいと思うことが皆無、というのも達成感がまるで無い。とりあえず作業や課題が山積していることは明確なのだが、集団に対してである。消化する時間を全員が最大限とることになるのだが、当然全てを消化するまではそれが続く。加えて修正した終了予定が延びること1度や2度でなく。
そんな中、周りは坦々と仕事をしていたのが更なるプレッシャーであった。僕だけスキルも足りなければ普通の働きも出来ないダメな子状態。
少なくない残業にも大丈夫だと面接で口走ってしまったことをこの時ばかりは本気で後悔した。

こうして余裕がなくなると、仕事に見通しや計画性がまるでなくなってくる。能率はあってないようなもので、週40時間労働の方が生産性が圧倒的に高いたのではと思ったし今でも疑っている。それでいて給料は時間で支払われるのだが、それでは給料に見合った働きをしていないことになる。そこで給料が不当に多く支払われるため、残業時間を正確に報告することはためらわれた。しかしそれを上回るストレスと不自由に、それまでの給料を返上しても休みたいと思ったわけで、士気は落ちるところまで落ちていた。
隣の先輩の無断欠勤もまあたぶん些細だがストレスにはなった。体調不良を責める気はないし別に嫌っているわけでもないが無断欠勤は悪いしその時は頭に来たことは記しておきたい。
自分が真面目だったからとは思わないが、なぜか出勤はしていた。

とりあえずさすがに不安感が出てきて仕事をまともに続ける自信がなくなったので精神科を受診して自律神経失調の診断と薬を出される。
しかし残業を控えたい旨をプレッシャーに負けて遠慮がちに自己申告し、はっきり言って救いようがない。
「良くなったようなら次回の受診は必要ないかも」と言われていたこともあり、面倒になったのもあって電話を入れて2度目の受診は断ったがそれもプレッシャーに負けてのことであり、実際のところ悪化してこそいないものの別に好転していたようなことも特になかった。

ちなみにこの頃、週末の仕事帰りに横浜市を3時間以上散歩とかしたことがあるが、この行動はどちらかというと個人的趣味に由来するものである。
職場の閉塞感から来るものも少なくはなかったが。夕食は地下のローソンをシカトし一人10分弱ほど歩いてマクドナルドまで行き、温かいものを食べたりしていた。

先に書いた通り予定も形骸化していたので、指示も信用できなくなっていた。本当のところは他の人が作業をダブらせてしまったこともあり、情報共有のあり方に疑問と意見を持ってはいたが発言する気力は失せており、看過する罪悪感を覚えながらも自分の仕事では無いような気がしていたしとりあえず出た指示にだけ従っておくことにした。
今思えば発言しておくことが最善策だったように思うが、余計な責任が発生するのも波風を立てるのも嫌だった。
出来たのは休日出勤のときに「みんなで食べに行きませんか」って行ったぐらいなもの。仕事の話しかしない職場に耐えられなかっただけのことであり。
僕の労働意識などその程度のものだ。

だからその後休みが取れたときも多くを追究するのはやめた。契約終了の決まった僕ら以外は残業や休日出勤もしていたようだが、知りたくもない話であって(全体連絡で知らざるを得なかったけど)。
一応は特技たりえたCプログラミングに関しても、結局は僕より有能な社員がいたようだしそもそも僕の存在価値はあまり無かったようだ。といって別に落ち込むようなこともなく、安堵だけを以って契約終了の通達を聞いたのは確かだ。役に立たないのは身をもって納得していたわけだしね。


そんなわけで無難なサラリーマンであろうとした僕の目論見はものの見事に失敗に終わった。
まぁその挙句に25歳の間はまったく就職できなかったわけで、26歳になった今も別に状況は変わっていなく、僕の戦いはまだ続いているのである。とりあえずデスクワークと長時間労働と無愛想な職場はダメなことがわかったといえよう。

というかここまでの失敗が無いと気づかなかったというのも問題だなぁ。


正直なところ、未だにこの辺のことは認めたくない。本質的に不真面目な僕がプレッシャーに屈し、勤勉な振りをして何の手応えも無い仕事の残業や休日出勤に付き合ったというのは恥でしかない。進んで人に話したくはないし、自分でも振り返ることは拒否してきた節がある。読み返す気もあまり起きない…が一応公開する文章なので推敲はしてしまった。


ちなみに辻堂という土地と親密になったのはその辺の時期だったりする。仕事以外に目を向ければ悪いことばかりではなかったことを併せて記しておきたい。

ググったけどなさそうだったので

2010年07月22日 | 日記
冒険でしょでしょ?のメロディーはペガサス幻想につなげられる。

♪感じーることーだけをーするよー 抱ーきしめたー こーころの小宇ー宙ー~
となる。キーを揃えるとこのラシドレミがピッタリであってそれだけ。

思いついて1年以上人に話す機会が無いのでここに書いてみた。

雑記100720

2010年07月20日 | 日記
http://sskkyy81.blog4.fc2.com/blog-entry-98.html
先日も書いたけど、僕にとっての憧れの未来は'80年代だった。
懐古の勢いだけでいうと、こんなに便利な世の中は望んでいなかった、なんてね。

かといってリアルに青少年として'80年代を過ごした人の感覚とはまた違っているのだとは思う。しかし'90年代半ばを過ぎ、'80年代的なものが薄れていくにつれて子供心に抱いた憧れも薄れていったのは実感としてある。
あとついでに言うと、自分が'90年代以降を一まとめにしか整理できていないせいでもある。僕にとっての'90年代と2000年代は強くリンクしていて、ひとつは同じ“平成”であることも関係しているのだと思うけど、さほど懐古の対象にはならないのである。
実際には'90年代の始めに対しては、強く'80年代(あるいは昭和)の匂いを嗅ぎ取ってしまうのだけど、大きなイメージの区分としてはそうなってしまっている。

そんなわけで、多分'80年代的な意味で新しいもの、'90年代的な新しさが俺のクリエイターとしての限界のような気がしないでもない。
せいぜいがネオレトロ止まりみたいな。


覚書。
・ピョコタン「アホ汁666」の感想
・「Fellows!」の感想
・「ストライクウィッチーズ2」の感想…はまぁいいか。
・このウェブログに適当な文章量を今一度考えてみる。

F読記 エスパー魔美編

2010年07月16日 | マンガ
エスパー魔美を一気読みした。
僕は割りと違和感なく読み進められるのだが、最終回が'83年。今となっては「昔」の作品だ。

どちらかというと僕には'80年代の日本の描写にリアリティを見てしまうところがあるので、現代の風景とのダブルスタンダードはどうしても避けられない。
特に都市部のイメージは幼児期のTV番組(特に「ひらけ!ポンキッキ」)の影響が強く、現代的な都市の景観にはどこか空虚なものを抱かずにはいられない気がする。


さておき、キテレツ大百科編ではキテレツのキャラクターを絶賛したけど、今回僕はやはり高畑のキャラクターを絶賛する(笑)
『デスノート』の夜神月といい勝負をしそうな秀才振りには正直驚くしかない。それでいてよく出来てるんだよな。
あと、魔美の能力を活用して「仕掛け」を講じる辺りは『巷説百物語』を思わせる。4巻「まいもどった赤太郎」で「でも、あの暴力ざたの後どうなった?(略)暴力なんてその場かぎりのもんだよ。」と反省の下で解決策を考えようとするのも御行の又市を思わせる冷静さで、意外と影響があったのかもと思ったりした。
行動派の魔美と、うまく補完し合うコンビになっているのはやはり“藤子節”かな。

次にコンポコ。彼の言動はとにかく愉快だ。とりわけ特技の“背中で笑う”様子はそれだけでおかしいので必見。


…と、キリが無いことに気づいたのでポイントを絞る。
この作品の特徴に、真美の父である画家・佐倉十朗の存在がある。彼の言葉には藤子・F・不二雄自身の考えを反映しているように思えるものが多い。
読者年齢層をやや高めに設定しているためか、その言葉は『ドラえもん』などに比べるとハードだ。短絡的な行動に出ることが多い魔美に対し、その意味を問い直すことが多い。
そうした突っ込み役としては中学生離れした落ち着きを誇る高畑もかなり達観した意見を披露してくれるけど。
最終話付近では総括するようなテーマが扱われている。「問題はカニ缶!?」では価値観の相違、「パパの絵、最高!!」では芸術の価値。
十朗の絵の評価についても作中では繰り返し触れられていおり、本人は人気が高くないことを不幸とは捉えていないのが面白い。

1度目は多分エンターテインメントとして追うのがやはり楽しいし適切な気がするけども、2度読むことがあれば是非そういった発言に注目して楽しんでいただきたいところ。

夏の季語の

2010年07月14日 | 日記
たしか、
 日焼け顔見合いてうまし氷水
という俳句を、高校の教科書で見た記憶がある。
僕らの世代には、かき氷でなくグラスに氷を浮かべた水を想像した生徒がどのくらいいただろうか、と思った。

ヤカンレコーダー 対談集1
>氷屋で氷水を食べて、~
という表現が出てきたので思い出しただけなんだけど。

あまりこのへんに関するページってないようで、特に富山という知名に触れているのは氷水(こおりみず)とは冷たいコップの水じゃないのよっぐらいか。
藤子不二雄の両氏と同じく僕は富山出身なので、理解に問題はなかったのだけど。
大辞林にあるので必ずしも方言ではないのか。
ああ、実際俳句の世界においては季語だったしな。

雑記100714

2010年07月14日 | 日記
どうでもいいが以前香山リカがNHKにゲストとして出演していたのを見た。正確には画面はほとんど見ていなかったのだが。
結構高いテンションと声で一生懸命喋っている印象から不覚にもこの人可愛いかも知れないと思った。と言う話。


例のW杯予想タコの話でも。
確率から言って、世界中で何万という勝利予想がなされたことを考えると驚くほどのことではないんじゃないかと思った。
お祭り騒ぎに理由は要らないって?ならタコにかこつけないで騒ぎなさい。と、水を差さずにいられないのが俺。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB_%28%E3%82%BF%E3%82%B3%29
>「食べてやる」と八つ当たりされてしまった。
表現が的確でよいと思った。
>以降パウルはドイツの3位を予言したとしてドイツ国内での人気を回復。
独立した事象、ということをわかった上で言ってんだろうなお前ら。


思いっきり野暮なことを書いた後は、やっぱり野暮な話題でも。
生活保護を受給している母子家庭の母親「マジコンは合法化するべき」
>新しいゲームを全部無料で遊べるようなソフトを法律で認めないのは理解できます。ゲームを作っている人達は、それでお金を稼いでいるのでしょうし。
ここまで掘り下げる頭がありながら、
>マジコンを合法化して未成年者はゲームを無料で遊べるようにすべき
と、マジコンの是非とゲームの無料提供が別の問題であることを認識できていないアンバランスさが。率直にいって論理より結論を優先している気配。

その程度の認識の人はいるのだな、とは思ったが、対するコメントにもいわゆるマジコンと割れ(死語?)の区別のついてない人が多いのが気になる。P2Pファイル共有ソフト問題のときにも似たような状況はあったけど、その頃のコメントはもう少し問題点の切り分けがされていた気がする。


というか、ここからは個人的な感覚の話になるのだが、ネットでのレスに思慮の浅いものが妙に増えている気がしてならない。おそらく僕らぐらいの世代はつい、「書き込み」に20~40代ぐらいの男性を無意識に想定している節がある。それが実際に大きく外れていなかったからこそ荒らしのみっともなさの認識もそれなりに共有されていたのだと思う。かつては荒らしは「大人気ない大人」だった。2chなんかでは、どこかおかしいなりに理論武装していたはずだ。

そしてどうも最近はニコニコ動画等で、荒らしを「大人の中に混じった子供」と認識した方がすんなり納得できることに気づいた。「自分も高校生の途中、あるいは中学時代はこの程度の認識だったな」と思えるケースが多い。
基本的に議論に堪えず、自分の主張を繰り返すしか能が無い。

古い話題で恐縮だけど、ニコニコと未成年のあたりでとっくに言われていたことが自分の実感としてわかるようになったな、と。


そこで僕が言いたいのは、やはり子供のわめく事にいちいち取り合う必要は無いだろう、ということ。相手が子供であれば余計に「これで相手をしてもらえる」という実績を作ってはいけないと思うのだ。大人として「試合に負けて勝負に勝つ」を地で行くのが正解だろう。
特に中高生であれば、数年後に「中二」振りが「黒歴史」化することを見越してログを10年ほど保存しておくのも効果的かもしれない。

などと思った。

孤独死の話

2010年07月13日 | 読書
いつか取り上げた無縁死(“無縁死”を描いたNHK特番、ネットユーザーを精神的に追い込む)だが、僕はネットでの反響の盛り上がりに共感しきれずに居た。
ひとつとして僕がさほど人間関係に不自由していないことがあるのだろうけれども、むしろ自分がどう死んでいくかについて考えたことのある人が少ないことに違和感を覚えた。

番組で取り上げられた人の人生には悲惨なケースがあったが、あくまで生きていてこその話だ。僕はいつ訪れるか判らない人生の最後の瞬間にたまたま孤独だった、という事自体は不幸とは思わないのもあって、投稿者各自が「無縁死」にどんな自身の問題を投影しているのかが判然としなかった。
そんなわけで妙に“無縁死は嫌だよね”というムードが共有されているのがそもそもの違和感だ。

ちなみに僕はおそらく自分が死ぬときは孤独死だと思っていて、かつそれが忌まわしいとは微塵も思っていない。そもそも、死ぬというのは本来個人的で孤独なことだという認識がある。「メメント・モリ」じゃないけど、何かの間違いで自分が死んでしまうことがある、という事実は明確に意識している。
別に死ぬのが怖くないということはまったく無く、いつもやっぱり死んだら嫌だなという風に締めくくるのだけれど。

あと、孤独な中で“死にそうになる”のはちょっと嫌だなとは思う。孤独だったために助かるものが助からなかった、というのだけはさすがに怖いと言い添えておく。


香山リカ『しがみつかない死に方――孤独死時代を豊かに生きるヒント』を読んだ。
結論としては、どうやら孤独死自体に漠然と不安を覚える人はいる、ということらしい。

この本の最終章「死後の準備にとらわれない」やあとがきには共感するところが多かった。
満足のいく死に方なんてほとんど幻想でしかない。生きている「今」しかない人間に、死という未来の瞬間にフォーカスしすぎるのはやはり不毛な事なんじゃないかと思う。

Fの「名言」

2010年07月10日 | マンガ
探偵!月代夜汽車スクープ 卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。

初めて取り上げるので先に個人的な見解を言うと、この「名言」は藤子・F・不二雄の発言とは考えていない。ちなみに僕自身2007年時点で23歳でありこのウェブログの執筆者とほぼ同じ年齢であることも明言しつつ、少なくとも僕が受け取ってきた藤子・F・不二雄像もこの「名言」とは相容れないものだということは指摘しておきたい。そして手元の藤子・F・不二雄の言葉を読み返すほどに違和感は高まる。

あと、
>藤子・F・不二雄先生は藤子不二雄賞の授与式でスピーチ
という可能性についても、下の通りあまり期待できない。
ただし資料は手元の『F NOTE』(藤子・F・不二雄大全集 第1期予約特典)の冒頭に引用された400字に満たない文章のみであることをお断りする。

これは「第17回藤子不二雄賞スピーチより(1989年)」となっており、「名言」と表現について比較して
・「ぼく」が2回出てくるのに対し「私」は無い
・文末は「鮮度が落ちるというか……。」の1文を除き、全て敬体(ですます調)
・「まんがのタネ」「タネ」という言葉が出てくるが、「ネタ」という言葉は無い
といった点で異なっている。
少なくとも「名言」は引用者によって歪められていることが考えられ、藤子・F・不二雄自身の言葉として存在する可能性はかなり低いといってよい。

~~
そういえば同一著者の文章は圧縮効率がよく、この効率で著者の推定を高精度で行えるって研究があるそうな。
という話題を思い出した。
閑話休題。
~~

ここまでは前掲の記事に批判的に見えたかもしれないけど、僕個人の「名言」に対する考えを述べたものであってせいぜいが手元の状況証拠を整理しただけのものだ。
実際に多摩図書館に足を運び、ネオ・ユートピアにコンタクトを取っている氏の行動に水を差すようなことはまったく意図していないしそんな資格も無いと思っているので明記しておく。

この記事を取り上げたのは、ひとえに
>F先生が言ってもおかしくないと自分が思う
と記した執筆者の姿勢に強い興味を覚えたからである。
そして更に、それを裏付ける資料探しを既に始めている。これにより事態が展開していることは間違いなく、その熱意を賞賛したい。
ファンとして、「もしかしたら藤子・F・不二雄像が覆るかもしれない」というロマンを託せる人物がいることは僥倖であり、続報を楽しみにしたい。

意外に長くなったホメオパシーへの愚痴

2010年07月09日 | 日記
「ビタミンK与えず乳児死亡」母親が助産師提訴
アナロジーって人間にとって根幹的な重要な能力なんだけど、僕自身これを乱発することでいろいろな着想を得るのだけれど、これにはたびたび似た物事、近い物事を混同して仕分けてしまうという副作用があって。

自意識のやたら肥大している僕が自分で言うのもなんだが、ダウナーなぐらいでいいんでないかなと。そのぐらいの方が自分の能力に謙虚でいられる。
そういう意味では暇人速報にあるレス
>世間一般に、「常識知らずで空想と現実の区別がつかない」
>ヲタの方がこういうの懐疑的だよな。
という印象は結構当たってるんじゃないかと思う。
まぁ、世間で要求される「常識」と、科学的(胡散臭い言い方ではあるが)判断に必要な「常識」はまるで異なることにも起因する。
しかもこの場合はアナロジー以前にどちらも同じ「常識」という語で表されるので余計に性質が悪い。

個人的経験から独断で言わせてもらうと、会話で頻繁に「常識」を口にする人の方が危ないと思っていたりする。参考までに。


口語的な「常識」は、巷間の知識を多く有し、それを社会的に望ましい形で行動に反映させることといえば大きく外れてはいないだろう。ちなみに僕はどちらかというとこれを軽視していて、これは今回の事件を非難している多くの「常識知らず」さんもそうだと思うが、ろくな態度じゃないので一緒に反省しましょう。
対して科学的判断に必要な「常識」の方は、論理の飛躍を許さない態度といえる。

科学は“確実さ”を優先する態度なので、結果として経験則に反することは少なくない。逆に、経験則のために飛躍した論理が認められてしまうことも多々ある。験担ぎなんかが極端な例で、前者の「常識」がどれだけあっても、後者の「常識」に欠けるとこれはまず避けられない。人間の学習能力はそもそも経験則に基づくものだから仕方が無い。
だからこそ十分な“確実さ”が求められる医療行為なんかは無許可で行っちゃいけない仕組みを設けてるわけで、国語・理科・社会・数学といった学校教育の主要教科を実学としてきちんと捉えられた人にはその辺の事情は説明するまでもないだろう。


ホメオパシーがどれほどの説得力を以ってこの助産師を説得したのかはわからないが、専門家が誤っている場合というのは素人にとっては死活問題である。
僕は軽視していると書いたけども、一般には口語的な「常識」は偏重されている面は否めないと思うし、というか割と利益や評価に直結してるし、その反面で科学的態度としての「常識」は軽視されているように思えてならない。地味だし。
大学で技術教育を齧っている身として、この科学文明社会において限りなく情けない話ではあると思う。

そんな、血液型性格判断の話に曖昧に相槌を打ってしまう自分の情けなさも含めて非難しながら今日の記事を終えたい。
適当に話合わせてるけど俺本当は否定派だからな!むしろ“無用”派!

るろうに剣心ネタに反応

2010年07月08日 | マンガ
るろ剣実写化の兆しに反応してみる。
マンガをなぞる様な映像作りだけは無いと思うけども、とすればアニメ追憶編のような大胆な換骨奪胎が期待される。

そもそも奇想天外なサムライバトルマンガとしてエスカレートした面はあるものの、基本的には「圧倒的な強さを誇る幻の流派」の「元暗殺者」が、明治という時代に「人を助ける」というストーリー。
骨格となるのは、時代を反映した事件を通じ、過去の暗殺者としての自分と向き合わされる点だ。過去のジャンプ系マンガや格ゲー由来の(荒唐無稽な)バトルや、登場人物のスラップスティックな描写がなくても「るろうに剣心」が成り立つことは前述のアニメ追憶編が立証した。というか、そちらはマンガやアニメという枠を外したときにどうなるかは
と、ここまで書いてマンガ原作の実写映像作品をろくに見ていない自分に気づいてしまい書けなくなったのでなかった事にしてください。ごめんさない。

アイマスについて

2010年07月07日 | 
アイマス2が発表されたので遅まきながらネタにしてみる。
一目瞭然に成長した亜美・真美、ポイントは踏襲しているのに結構イメージの変わった美希などはさておき、ここでは個人的趣味からマコトとリツコを取り上げる。
じゃなかった、真と律子。片仮名だとNERV関係者の異色の取り合わせにしか見えない。
ついでにマコトデラックスとリツコデラックスという名前を思いついたが、とりあえずここでは書き留めるだけにする。

二人とも平たく言って変更がわかりやすい組。
全体的に“子供っぽさが抜ける方向”でキャラクターデザインのリファインが行われている印象なのだが、ことこの二人に関しては髪形の変更が効いている。
真は短髪から長髪に、律子は二本の三つ編み(※反重力)をアップに。共に可愛らしさよりも凛々しさを増す変更で、キャラクター性を増強している。

そしてまた、この二人に共通するポイントが外見と内面とのギャップである。
地味に固めている律子と男っぽいヴィジュアルの真が“オンナノコ的”なものに憧れを持っている点、ここが重要である。

山本弘のSF秘密基地BLOGにある
>(男の娘は)イメージの中で理想の女の子を追求した末に、「自分で演じる」という境地に到達したんじゃないか
や、本田透『萌える男』の「萌える男自身の萌えキャラ化」という指摘のような、このタイプのプレイヤーにとって感情移入しやすいキャラクターの双璧といえるのだ。
多くのプレイヤーは恋愛シミュレーション的な文脈の下、自分の「好み」のキャラクターを選択するかもしれない。しかし、実質はアイドル候補生こそが操作すべきプレイヤーキャラクターである。こちらの方に自分を重ねるプレイヤーも少なくないだろう。

この二人のは、そういったプレイヤーの受け皿としての役割を多く担っていると僕は考える。その特殊性から、ニコマスにおいて投稿動画の方向性に偏りが出ているのではないか、と指摘しておく。


はっきり言って自分のことだ。動画投稿はしないけど。

参院選を控えての覚書

2010年07月05日 | 日記
参院選の投票を間近に控え、サブカル野郎でありこのウェブログでも好き勝手発言している僕としては表現規制への糸口となりうる動きに敏感になっておくべきかと思った。
それはたった今困っている人に優先順位をつけていくばくかの救済を行うことより普遍性のある論点ではあるのではないかと。
統治に焦った時の権力者が軽々しく手をつけていい領域じゃないと思えてならない。そもそも公然と他人を迫害するようなことをいい大人がするべきではない。

どうもこのところ碌な文章が書けていない…次回はアイマス2PVの感想でも書くか。

日記100701

2010年07月01日 | 日記
※面識のある人が死んだ。自殺だったそうだ。

僕は唯物論者なのでこういう言い方になるけども、自殺を決意することで少しは救いというものがあるのだろうか。
死んでいる人がいる以上、せめてあって欲しいけれど。

他殺には救いがないのかと考えるとそちらの方がよりひどい話ではあるが、これは蛇足。

はっきりいって、自殺を考えるほど思い詰めるような人が自殺を決行してしまうのは判断の誤りだと思う。もっとも判断を誤ってしまうところに問題があるのだけれども。

結局僕にできるのは起きてしまった事を悔やむだけだし教訓はそう簡単に得られるものでもない―というか他人の人生を軽々しく教訓に仕分けて消化してしまうこともナンセンスな話ではある。
出来事は出来事として、時間をかけて消化することにする。


P.S.
寂しくもあり、悲しくもあり、少し腹立たしくもある出来事ではあった。
こういう率直な言葉がひとしきり考えた末でないと出て来ない自分がちょっと嫌だなぁ。