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日々のこと

ハイキングウォーキング2019

2019-11-23 | 観光とか

数年前、パワースポットへよく訪れていた時期がありました。
最近ではそんなブームは過ぎ去りし日々のごとく過ごしていたけど、
天河神社には行きたいなぁとずっと思っていたもので、
昨日有休取って行こうと思い立ちました。

が、前日の夜から何か行く気がなくなり、
天河神社は呼ばれた人しか行けないとかいう云われがあるけど
行くつもりやったのに行く気がなくなったというのもまた
呼ばれてなかったということなんでしょうよ。

神社から呼ばれるとか呼ばれへんとか何なん、
と思われるかもしれんけど、縁とか流れとかそういうもんやろ。

ほんでまぁ、せっかく取った有休を家で過ごす気にもなれず
これまたふと行きたくなった場所、石上神宮に行ってまいりました。


石上神宮楼門


神の遣いの鶏さん


牛と鶏

不思議な音が聞こえるほうに行ってみたら、
シンギングボウルの演奏をされていました。


お詣りして、特にあとは目的もなっかたし帰ろうと思ったんやけど
看板を見つけてねー、山の辺の道のねー、マップ描かれた看板をねー
いやいやいやいや、歩く気ないしな、そんなつもりで来てないしな、
ヒールではないけどブーツやしな、歩くつもりで来てないしな。

せやのに、気付けば桜井方面に向かって歩き出している私であった。
なんでやねん。

2011年4月、同じルートで歩いた経験があります。
私はあの時、これ以上悲惨な状況にならないよう祈るような気持ちで
歩いていたように思います。

「ハイキングウォーキング」

前回は快晴やったけど、金曜日はあいにくの曇天でした。
でも週間天気予報では金曜日はずっと雨の予報やったのに
曇り空のまま雨に降られることなく良かったわ。

山の辺の道には要所要所に看板が立てられているのに
なぜか道を間違える私は、曲がって曲がって、さっきと同じ道に戻るとか
そんな回り道をしながら黙々と一人歩くのであった。

なんでこんな修行めいたことをするのかというと
私にも分からないのですよねー。でも歩きたくなっちゃう。

いくつもある休憩所の中でも見覚えのある休憩所に近づくと、
向こう側から一匹の猫がてけてけてけと走ってきて、
ベンチの横に座って待ち構えてました。

ああー、前回もここで猫氏にご飯をたかられた覚えがあるぞ。
でも今回は残念ながら食料を持ち合わせておりませんので
申し訳ござらんがお引き取りくださいませ。


「にゃー(めしくれー)」

見覚えのある石像、こんな怖い感じやったけ??

Hi~

道中、前から走ってきた原付、よく見ると足元にコリー犬が座っとる。
よく見ると運転手はおばちゃんやった。すげぇなおばちゃん。

しばらく歩いてまたしても道が分からなくなった私は
後ろからきた原付の人に道を聞こうとよく見ると
さっきのコリー乗せたおばちゃんやった。

「山の辺の道歩いてたつもりなんですけど、どっち行ったらええんでしょう」

「それやったらな、この道をまっすぐ行ってな、
 ほんなら右側にこの道の半分くらいの道があるからそっちに行ってな、
 看板があるから分かるわ。勝手に曲がったらあかんで看板のとこで曲がるねん」

「ありがとうございます!
 それにしてもこの子(犬)おとなしいですね」

「ああこれか、そやな…」(急に歯切れが悪くなる)

「そやからな、この道をまっすぐ行ってな、
 ほんなら右側にこの道の半分くらいの道があるからそっちに行ってな、
 看板があるから分かるわ。勝手に曲がったらあかんで看板のとこで曲がるねん」

と、犬のことが聞きたかったのに、そのことには触れてほしくないかのごとく
さっきと全く同じ説明をされてしもた。なんか癖あるぞ。

「あんた一人か、女の子一人危ないし気ぃつけや、なんたらかんたら…」
癖が続きそうやったので「気を付けます、ありがとうございました!」
と明るく元気に切り上げた。

そのあとはハイカーとの挨拶や軽い会話などのちょっとしたふれあい街歩きしつつ
気持ちの良い場所桧原神社に到着、そこから近いと思ってた大神神社も
わりと距離あったもののたどり着き、山の辺の道ウォーキングはこれにて終了。



だいぶん疲れましたよ。

その行為に意味あるとかないとかどうでもええねん。
どうやら歩くらしいから歩いた。それだけです。
考え事もせずただ道を歩く。歩き瞑想ですな。


優しさの定義

2019-11-20 | 日々の事とか

日が経つのが恐ろしく早いですね。
こないだ天神祭が終わったと思ったらもう冬支度ですん。

会社からの帰り道、自転車で走ってたら
通りすがりになにか呼びかける声が聞こえました。

私に言っているとも思わずに通り過ぎたものですから、
その人が放った言葉が私の脳に認識されたのは
通り過ぎてしばらくしてからでした。

「おまえは“しんと”かっ」

しんと?
シント?
SHINTO?

振り返りもせず通り過ぎたので、
私に言ったのかどうか分からずじまいですが
電話していたのではない限り、タイミング的には私にぽい。

ベレー帽を?
かぶっていたから?
何かの信徒ぽかった?

見ず知らずの人から謎のツッコミを受ける街、大阪。


さてさて、最近思うのです。
優しさっていったいなんだろうか。

私は甲斐甲斐しく人にお世話を焼くタイプではないし、
ともすれば、無関心さが冷たさにも捉えられるかもしれません。

そうでない時期もありましたよ。
でも、その人のため、と動けば動くほど空回りし、
不自然な言動が余計なお世話になっていたと気付いてからは
本来の自分の手札「干渉しすぎない」を取り戻しました。

優しさ、てのは人によって様々な定義があるもんでしょうね。
私にとって優しさは「水に流す」ことかなと思う。
もちろん出来ないときもあります。そらあるわ。

あとは暴力的でないこと。
怒りは沸き起こるものなので出したらええと思います。
イヤなことをされたらはっきりと意思表示はしたほうがええ。

でもそこで「それをする(しない)あなたは最低だ」とか
「そんな考え方をするあなたはおかしい」という風になると
行為ではなく人格を否定する暴力に感じるのですね。
私も気をつけててもしてしまう時がある。そらあるわ。

話変わるけど、山本太郎さんは庶民の立場に立って
きちんと当たり前のことを言える人、、のようですが
私は彼に暴力的な何かを感じて仕方がない。
これは直感みたいなもんなので、
皆もあまり信用するなよ、とかそんな風には思ってません。

いつも対比するように登場させてしまう須藤元気さんは、
格闘技をされていたにも関わらず、
その頃からあまり暴力的な何かを感じない。

安倍氏は私にはバカ殿みたいに見えてます。
なぜいつまでも総理なのか分からない。
さっそく暴力的に人格否定してるみたいですかね。気を付けますね。

話をとぅおりもろす。
優しさの定義として、罪悪感を与えない。なんてのもあります。
それは完全にできてないときがあった。

見守る、見捨てない、水に流す、罪悪感を与えない
こう考えると、私にとって優しさとは引き算のような気がするわ。

犬や猫は何をしてくれなくても、
ただそこで笑ってくれている(ように見える)
それだけで優しさと愛がたくさん伝わってきますものね。