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★★ムッソリーニ Benito Mussolini 1883~1945

2016-02-15 | ベック式!世界史用語集

 イタリアの政治家・独裁者。

父親は鍛冶屋で急進的な社会主義者。

小学校教師を勤めたが、1902年に教師を辞めてスイスに移住、スイス滞在期に革命グループと接触し、帰国後イタリア社会党に入った。

党内では左派に属し、1912年、機関誌『前進(Avanti!)』の主筆となったが、第一次大戦の勃発に際して参戦を主張して党を除名され、独自に『イタリア人民(Popolo d’Italia)』紙を発刊して参戦宣伝を行った。

イタリア参戦とともに兵士となり事故で重傷を負った。

その後は反社会主義の立場に転じ、大戦後の1919年に復員軍人や右翼を集めてファシズム政党「戦闘者ファッショ」を結成した。彼は革命化しつつあった労働者・貧農の支持を期待して王政と貴族の廃止、戦時利得の没収、労働者の生産管理、農民への土地分与など急進的綱領を掲げたが、19年の総選挙で全員落選した。

翌20年北イタリアで大ストライキ、農民暴動が頻発すると、行動隊(黒シャツ隊)を組織して労働運動、革命運動を暴力的に攻撃。社会革命を恐れる政府・軍部・警察・地主・資本家の援助で急速に勢力を拡大した。21年、革命勢力の退潮に乗じて階級闘争の終結、国民連帯などを掲げて35名の同志とともに国会議員に当選。同年党を改組して国家ファシスタ党と改称してその党首(統領、ドゥーチェ)となった。綱領を改め、急進的要求は消え、中産階級・地主・資本家を党員とする明確な反共主義・国粋主義を掲げる反革命の組織となった。

 このような中で、有力であった社会党は分裂し、社会党と共産党の対立は深刻で労働運動の指導力も失っていた。

22年、すでにファシストの党員数は20万を数えていた。10月ナポリの党大会はローマ進軍、政府打倒、政権獲得を決議。

ムッソリーニはミラノに待機し、約6万の武装党員が四方からロ-マへ進軍した。

▼ムッソリーニと行軍するミケーレ・ビアンキ党書記長および黒シャツ隊

国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世(在位1900~46)は政府の戒厳令布告の要請を拒否しムッソリーニに組閣を命じた。

ムッソリーニは首相として政権を獲得し、ブルジョワ政党と連立内閣を組織した。翌23年、選挙法を改正し、最多数の得票を得た党が議席の3分の2を占めるという選挙法と暴力的選挙干渉によって第一党となり政権を確立。24年ユーゴとローマ条約を結んでフィウメを併合した。25年労働組合を解散、言論出版取締令と秘密警察とによって反対派を弾圧し、26年の議会でファシスタ党以外の全政党を解散して一党独裁制を樹立し党首・首相の他多くの権限を一身に集中する独裁者となった。26年から27年にかけてアルバニアを保護国化し、アドリア海を制覇。28年には党の最高機関であったファシスト大評議会が正式の国家機関となり、事実上、党と国家は一体化し、ムッソリーニは大評議会議長と首相を兼任してファシスト独裁体制が完成した。同年「新選挙法」が制定され、普通選挙法を廃止し有権者を従来の1000万人から300万人に縮小したうえ、ファシスト大評議会が作成した400名の議員候補者のリストに、有権者が一括して賛否投票を行うこととなった。ここにイタリアの議会制民主主義は死滅した。34年には下院も廃止され、上院だけが形式的に残された。1929年、ローマ教皇ピウス11世とラテラン協定を締結、教会の国家からの独立を保障し、ヴァチカン市国の独立を承認して教皇とカトリック教徒の支持を期待した。この宗教協約(コンコルダート)の成立により、イタリア王国の統一(1861)とローマ市接収(1870)以来、広大な教皇領を一挙に失い「ヴァチカンの囚人」と称してイタリア王国の承認を拒否してきた教皇との和解がなった。ヒトラーのナチスが1933年に政権を掌握した直後、党と国家のほとんど完全な一体化を実現したのに対し、ムッソリーニのファシスト政権は、これを実現するために数年間を要し、しかもファシストは最後まで教会をはじめ軍部・資本家その他の社会諸力を完全には掌握しえなかった。ファシスト政権があまりにも早熟的に成立したこと、ドイツにくらべて個人主義、自由主義、民主主義の伝統が強固であったこと、教会の指導力が強大であったこと、国力が弱体で伝統的に国際政治、国際経済の影響を無視できなかったことがその主要な原因と考えられる。この間ムッソリーニは英米と協定して戦債支払いの延期に成功、モルガン財閥などのアメリカ資本やイギリス資本の援助、デフレ政策と産業合理化により工業の発展をはかり、社会政策と土木事業により失業者を救済し、食糧・鉱業資源の自給体制の整備につとめた。30年以後世界恐慌の波及に苦しみ統制経済、軍備増強、侵略外交によって不況克服をはかった。34年、「協同組合国家組織法」を制定して政治・経済の統制を強化。35年ドイツが再軍備宣言を発し、徴兵制を復活すると、ムッソリーニはドイツのオーストリア併合、barukann バルカン進出を恐れてストレーザ(北イタリアの都市)会談を提唱して英仏との間に東欧の現状維持、オーストリアの独立保障を約し、ドイツに対抗した。これをストレーザ戦線という。同35年、イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境紛争に乗じてエチオピア戦争(1935~36)を開始。36年これを併合してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した。この戦争を通じて独伊は急速に接近し戦後ベルリン=ローマ枢軸(独伊同盟)が結成された。開戦直後、国際連盟はイタリアを侵略国とみなし、制裁措置として経済封鎖を決議したがその実施はきわめて不完全であった。イタリアは国際連盟の措置を不当として37年国際連盟を脱退。国際連盟は33年の日本、ドイツの脱退についでイタリアの脱退を招きその無力を露呈した。エチオピアの併合直後、スペイン内乱(1936~39)が勃発、革新派の人民戦線政府に対する右翼・ファシストのフランコ将軍の反乱が起こった。独伊は反乱軍を武力で援助し、この間に、日独防共協定(1936)や日華事変(1937~45)を開始していた日本にも接近して、1937年日独伊三国防共協定(東京=ベルリン=ローマ枢軸)を締結。ここに3国による国際ファシズム陣営が成立した。38年には独墺合併を支持。同年、彼の仲裁で、英仏独伊によるミュンヘン会談

が開かれ、、ドイツによるチェコ領のズデーテン地方併合を認めた。39年にはドイツの東欧侵略に乗じてアルバニアを併合、独伊軍事同盟(鋼鉄同盟)を結んだ。同年9月、第二次世界大戦が勃発(1939~45)。ドイツの優勢をみて、40年パリ陥落直前、ドイツ側に参戦し、同年日独伊三国軍事同盟を締結。参戦後はヒトラーに主導権を奪われた。1943年7月、連合軍がシチリア島に上陸するとファシスト大評議会は立憲王政復帰、ムッソリーニの統帥権剥奪を決議、国王から首相を解任され逮捕された。後任のバドリオ内閣(1943~44)はファシスタ党を解体し、9月連合国に無条件降伏した。ムッソリーニはドイツ軍に救出され北イタリアに新政権イタリア社会共和国を立てた。10月、バドリオ政権はドイツに宣戦した。45年4月ムッソリーニはドイツ軍と共に敗走中、ミラノ北方のコモ湖畔でパルチザンによって捕らえられて銃殺された。2日後、ヒトラーはベルリンの地下壕で自決。ムッソリーニの遺体はミラノの広場で逆さづりにされた。

 

ローマ進軍

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幾人(いくにん)ファッショ 向かう黒。

1922年 ファシスト党 ムッソリーニ

 シャツ隊   

               ローマ進軍


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1 コメント

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事実上の不敬罪は我が国にすでに存在している (芋田治虫)
2019-09-07 18:18:29
https://youtu.be/Xwjg9jGcOuw
https://youtu.be/0-PHAszxmlY
https://youtu.be/o3qyYx4YzKQ
「ムッソリーニ万歳」
こういっただけで逮捕される国があったら、その国末期。
どういう体制で、どういう政策をしようが、その国の終わりは近い。
枢軸国のどの国よりもひどい。
事実上の不敬罪が、既に存在する我が国に無関係の話ではない。
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