ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

商品作物の栽培(四木三草)

2018-06-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

紅茶クールな安倍に合い。

  
漆  桑  花 


[ポイント]

1.四木とは三草とは

[解説]

1.は、生糸を産み出すのえさ。さし木や取り木で増やす。桑葉は枝ごとに採取する。

2.は、山野に自生するクワ科の木で、皮をむいた枝を煮て叩いてくだきなじませ和紙の原料とする。紙の生産が増えるにつれて栽培されるようになった。


3.は、teaも茶も中国語のchaチャを語源とする。自生種があったが、最澄が唐から持ち帰り畿内周辺で薬用として栽培されるようになった。嗜好用としては栄西が持ちかえったものが広まった。緑茶と紅茶の違いは製法の違いで、種類の違いではない。


4.は、中国原産。樹幹から採集される漆汁は漆器を塗るのに使われ、実はの原料になる。会津や高知では藩の専売となった。


5.とは、苧麻(ちょま)・大麻(たいま)のこと。朝鮮から木綿が輸入される以前は「布」といえば麻のことで、衣類の主流だった。衣類以外にも綱・網・帆布などに使われる。


6.は、タデ科の1年草。葉や茎を原料に染料を採る。欧米ではジャパン・ブルーとかヒロシゲ・ブルーとよんだ。Gパンの染料がこれである。葉藍を発酵させたものを搗(つ)き固めたものを藍玉といい、この特産地として阿波地方が有名。


7.紅花は、アザミに似た花。花から紅が採れ京染めなどの染料や化粧品に使われる。種からは油をとる。最上地方(出羽)が特産地として著名。


8.三草は紅花を木綿とするなど地域差がある。なお苧麻は非常に丈夫だが、1反(成人着物1着分)織るのに木綿の10倍(約40日)かかるため効率が悪く、江戸時代に庶民衣料の主役が木綿にかわる。

2014明大・国際日本(国際日本):「
問9.農村の生産力が上がると、商品作物の栽培が盛んになった。商品作物のうち、民間必需として幕府や諸藩に重視されたのが、四木三草と呼ばれた作物である。このうち「三草」の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。

 1桑、茶、麻  2漆、綿、茶
 3麻、藍、紅花 4楮、漆、桑」

(答:3)〉

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1086(応得元)年 〈白河上皇、院政を開始〉★★★

2018-06-23 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

●平安時代(堀河天皇)

 

Ex-emperor Shirakawa establishes the system of cloister government.

院(いん)をやろうよ 無理かしら?

 1086年 院政         堀川天皇 白河上皇 

 

1086、幼少の堀川天皇に譲位した白河天皇は、上皇として院政を開始。上皇の命令を伝える院宣は詔勅・宣旨に準ずるものとされ、政治の実権は院庁に移った。その職員である院司として仕えたのは、摂関家のもとでめぐまれなかった貴族たちで、中でも受領として地方を赴任し、巨富をたくわえた貴族たちが院近臣として政治の実権を握った。

〈武士団のはじまり〉 上皇の度重なる寺社への参詣は莫大な国費を必要とし、その費用を捻出するために荘園の拡大がはかられた。国司の任命に際しても売官によって知行国の制度がはじまるなど、公領はあたかも貴族の私領のようになった。このころ大寺院は貴族と対抗するために僧兵を組織して実力で主張を押し通そうとしたため、上皇は防衛のために北面の武士をおき、朝廷は滝口の武士を招いてこれを防いだが、これらの武士こそ源平両氏に率いられた新興の武士団であった。

 

[ポイント]
1.後三条天皇が築いた基礎に、1086年から、白河鳥羽後白河後鳥羽の4院政が続いた。

[解説]

1.後三条天皇(1034~73、位1068~72)、白河天皇(上皇)(1053~l129、天皇位1072~86、院政1086~1129)・鳥羽上皇(法皇)(1103~56、天皇位1107~23、院政1129~56)・後白河上皇(法皇)(l127~92、天皇位1155~58、院政1158~92)、後鳥羽上皇(1180~1239、天皇位1183~98、院政1198~1221)。

2.白河天皇後三条天皇にならって親政をおこなっていたが、1086(応徳3)年、にわかに幼少の堀河天皇に位をゆずった。しかし天皇を後見して実権は保持、院庁で上皇(院)による政治、院政を開始した。

3.院政は、自分の子孫の系統に皇位を継承させようとする意図からはじまったもの。上皇の地位は、国家の法や慣例にしばられないイレギュラーな存在であったため、専制的に実権を行使するようになった。

4.院政は天皇家の実権をにぎった家長(家督)が権力を行使するものであったから、天皇家一族間の激烈な争いに勝利した3上皇(白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇)のみが院政をおこない、100年余り続いた。そのため摂関家は、勢力の衰退を食い止めようと、院権力にすり寄るようになった。


〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))

 (ケ)院政が開始されると、たとえば、鳥羽院の妻であった美福門院や、平氏出身で、( コ )天皇の妻となった建春門院のように、多くの荘園を寄進され、政治的・経済的影響力が上昇していく女性も登場した。

問9 下線部(ケ).院政が開始に関して、下の史料の(   )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。

 此御代には、院にて政をきかせ給へば、執柄はただ職にそなはりたるばかりになりぬ(中略)。此御時より(   )・庁御下文をおもくせられしによりて、在位の君、又位にそなわり給へるばかりなり。

 1宣旨 2官符 3院宣 4綸旨

問10 空欄(コ)に入る人名として、もっとも正しいものを、次の①~④のうちから1つ選び、マーク解答欄に記入しなさい。

 1.白河 2.後白河 3.三条 4.後三条」


(答:9→3、10→2)〉

〈2012北海道大:前期

 次の史料1・2を読んで、下記の設問に答えなさい。なお史料はわかりやすくするため、なおしたり省略したところがある。
   史料1
 第七十二代、第三十七世、[ ア ]院、諱(いみな)は貞仁、後三条第一の子。(中略)此御代には院にて政(まつりごと)を聞かせ給へば、a.執柄はただ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにゃ侍けむ。執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下のことは施行せられしに、此御時より[ イ ]・庁御下文をおもくせられしによりてb在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。c世のすゑになれるすがたなるべきにや。                       (『神皇正統記』)

問1. 空欄[ア~イ]に入る人名・語句を記しなさい。

(答:ア白河、イ院宣)

問2.下線部a執柄、b在位の君はそれぞれ何を意味するか、答えなさい。

(答:a摂政・関白〔摂関〕、b天皇)

問3.下線部c世のすゑについて、この頃から、国家や社会の安穏に寄与する仏教界がしばしば朝廷と対立するようになった。どのような対立や衝突が見られたか、30字以内で説明しなさい。

(解答例:大寺院は荘園など領有権をめぐり天皇家や受領と対立、強訴した。(30字))

問4.この史料1に記された新しい政治形態は、さまざまな点で従来の国家、社会体制を変えていった。

(1)この政治形態は、本来どのような目的のために作り出された仕組みであったか。皇位継承の観点から簡潔に説明しなさい。

(2)近年、この時期の日本史に見られたもっとも大きな国家的あるいは社会経済史的変化とは何であったか。10字以内で答えなさい。

(答:1自分の子孫の系統に皇位を伝えるため。2荘園公領制の成立)

問5  この『神皇正統記』について
(1)この書物を著したのは誰か、氏名を答えなさい。また
(2)著述の目的は何であったか、簡潔に答えなさい。

(答:1北畠親房、2南朝による皇位継承が正統であるとの主張)〉

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紫式部、和泉式部と清少納言

2018-06-22 | Weblog

式部中傷正史 抵抗見たか。
(紫式部・和泉式部
宮・子(しょうし))(清少納言)(子(ていし)・皇)(道隆

[ポイント]

1.両式部は一条天皇中宮彰子に、清少納言は同じく一条天皇皇后定子に仕えた。
2.彰子道長の女(むすめ)、定子は道長の兄道隆の女である。

〈2015法大・文人間関係経営

問1 下線部、道長はb6人の娘を入内させ3代の天皇の外祖父となり権勢をほしいままにしたに関して、一条天皇の中宮となり、後一条・後朱雀天皇の母となった人物を、以下のア~オのなかから一人選べ。

 ア寛子 イ盛子
 ウ嬉子 エ彰子
 オ妍子

問2 下線部bに関連して、一条天皇の中宮(彰子)に仕えた人物のうち、越前守藤原為時の娘を、以下のア~オのなかから一人選べ。

 ア小野小町 イ清少納言
 ウ和泉式部 エ赤染衛門
 オ紫式郎

問3 下線部bに関連して、道長の娘(彰子)が一条天皇の中宮となったために、中宮から皇后にかわった人物(定子)の父を、以下のア~オのなかから一人選べ。

 ア道隆 イ道兼
 ウ兼家 エ兼通 オ頼忠


(答:1エ、2オ、3ア)〉

〈2015明治大・国語・政経

 和泉式部と同じ一条天皇の后である彰子に仕えた女房を次の中から一つ選べ。

 1菅原孝標女 2清少納言 3建礼門院 4紫式部 5藤原孝標母」


(答:4)〉

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枕草子

2018-06-21 | 入試問題+ゴロ合わせ

枕聖書なら安定し。

清少納言枕草子定子 


[point]
1.清少納言清原元輔の娘で、皇后定子に仕え『枕草子』を書いた。

[解説]
1.清少納言(生没年不詳)の父は清原元輔だが、当時の女流文人のすべてと同じく名前は不明で、和歌よりも散文に秀でていた。、

2.『枕草子』は、宮廷生活の体験を随筆風に記したもので、『源氏物語』とともに、国文学で最高の傑作とされている。

3.清少納言は、正暦年間(990~994)、一条天皇の皇后定子(藤原道隆の娘)に仕えた。同時期、紫式部も同天皇の中宮彰子(道長の娘)のもとに仕えており、それぞれが仕える皇后・中宮に天皇の寵愛を競わせるライバルの関係にあった。

4.かな文学の隆盛は、貴族たちが天皇の後宮にいれた娘たちに競ってつけた、清少納言や紫式部のようなすぐれた才能を持つ女性たちによってもたらされたものである。

2016早大・政経:「
問1.下線部(藤原道長は)a四人の娘を次々に天皇に嫁がせに関連する説明として誤っているものはどれか。

 ア これにより道長は、連続する3代の天皇の外祖父となった。
 イ 道長が「望月の歌」を詠んだのは、娘の威子が皇后になった日であった。
 ウ 『枕草子』を著した清少納言は、この四人のうちの一人に仕えた。
 エ 頼通も娘を後冷泉天皇に嫁がせた。
 オ 道長は甥との権力闘争の後、娘たちを人内させた。」

(答:ウ×仕えた定子は藤原道隆の娘)

2015関西大・法:「

(I)9世紀後半から10世紀にかけては、日本と大陸の関係が大きく変化することから、日本的な文化が発展するといわれる。ただし、『枕草子』にみえる「香炉峰の雪」の逸話からもうかがわれるように、当時の貴族や女房は『( 9 )』をはじめとする中国の詩文や書跡を愛好しており、中国文化をよく踏まえた上での日本文化ということができる。」

(答:9白氏文集※選択肢が25語あり)〉

2012同志社大学・文経済

【設問11】清原氏からは『後撰和歌集』の編集に関わった清原元輔など多くの歌人を輩出しているが、元輔の娘も一条天皇の中宮藤原定子に仕えた女房で、歌人でもあった。その人物名を解答欄に漢字で記せ。」

(答:清少納言)〉

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1837年〈鈴木牧之、『北越雪譜』を刊行〉★

2018-06-20 | 入試問題+ゴロ合わせ

 ●江戸時代(天保8年)

 Hokuetsu Seppu ("Snow stories of North Etsu Province") is a late Edo-period encyclopedic work of human geography describing life in the Uonuma area of Japan's old Echigo Province, a place known for its long winters and deep snow.

嫌味な牧師 僕接吻。

1837年  鈴木牧之  『北越雪譜』  

越後の縮仲買商であった鈴木牧之は家業のため越後と江戸を往復し、山東京伝・曲亭馬琴ら江戸文人たちと交わる。1837年、山東京伝の弟京山の援助を得て雪国の習俗と伝奇を絵入りの読み物とした『北越雪譜』を出版。雪国の百科事典として当時の人びとにもてはやされた。

[解説]
1.鈴木牧之(1770~1842)は越後の縮(ちじみ)仲買商にして、随筆家、文人。家業のため越後と江戸を往復し、江戸文人たちと交わる。雪国の習俗と伝奇を絵入りの読み物とした『北越雪譜』(1837年)を出版。雪国の百科事典として当時の人びとにもてはやされた。

2015早大・社会科学:「
 経済の発展と文化の繁栄は庶民の生活を一変させた。4余暇を手に入れた人びとは、従来の振興を目的とした旅に湯治や物見遊山の要素を取り入れた。その影響で、寺社のあり方も変化した。

問4 下線部(4)に関する記述として、不適切なものはどれか。2つ選べ。


 イ 地方の寺社は都市に出張して出開帳を行った。

 ロ 寺社は修繕費を調達するために、月の出を拝する庚申待を催した。
 ハ 1830年の御蔭参りに加わった人は数百万人に達した。
 ニ 鈴木牧之は『北越雪譜』を刊行し、雪国の実情を伝えた。
 ホ『菅江真澄遊覧記』は四国八十八カ所を巡礼した記録である。」

(答:ロ・ホ ※ロ民間の行事で寺社とはとくに関係ない、ホ東北各地を旅した記録)〉


2004大学入試センター試験追試:「

問3 下線部b(田沼時代の)民衆の暮らしに関連して、江戸時代後期の民衆の暮らしについて述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 農村では、田畑を手放し、小作人となる農民が増加した。

 2 都市を中心に貸本屋が現れ、文化の普及に寄与した。
 3 工藤平肋は、雪国の生活や風俗を『北越雪譜』に描写した。
 4 大原幽学は、農村の復興を指導した。」

(答:3×『北越雪譜』は鈴木牧之)〉

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蜻蛉日記

2018-06-19 | Weblog

苦難な陰に密な母。
977蜻蛉(かげろう)日記 藤原道綱(ふじわらみちつな)の母

[ポイント]

1.『蜻蛉日記』は、977年ころ成立、作者は藤原道綱(ふじわらみちつな)の母で、藤原兼家(かねいえ)との結婚生活の日記。

[解説]

1.『蜻蛉日記』の作者は藤原道綱母(936~995)。姪に藤原孝標の女がいる。藤原兼家から求婚されて結婚。これはのちに摂政太政大臣に登る男との玉の輿的婚姻だった。はじめ兼家の訪問も頻繁で、兼家の2男道綱も生まれる幸福な結婚生活であった。しかし兼家には既に長男を産んだ妻がいただけではなく、やがて別の新たな女性もあらわれ、その足が遠のくようになり、一転不幸な蜻蛉のような立場に陥った。そのような兼家との満たされなかった思い出を自己を真摯に見つめて記している。歌人としても日記に見える「嘆きつつ一人寝(ぬ)る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」が百人一首に入っている。

〈2015立命館大・全学部

 下線部1の女性の文学の説明として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 1.一条天皇の皇后定子に仕えた紫式部は、大長編小説である『源氏物語』を著した。

 2.和泉式部は、在原業平との情熱的な恋愛を回想した自叙伝文学を著した。
 3.右大将藤原道綱の母は、夫藤原兼家との結婚生活を自叙伝風に著した。
 4.歌人藤原定家の妻阿仏尼は、夫との結婚生活を歌物語に著した。」

(答:3 ※1紫式部は彰子に仕えた、2和泉式部(生年は978ころか)と在原業平(825~880)は時代が合わない、4藤原為家の側室)〉

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日記文学

2018-06-19 | Weblog

トカゲイズ村皿讃岐建礼門院十六夜に。

佐日記・蛉(かげろう)日記・草子(まくらのそうし)・泉式部(いずみしきぶ)日記・式部(むらさきしきぶ)日記)(級(さらしな)日記・岐典侍日記(さぬきのすけのにっき)・院右京大夫(けんれいもんいんうきょうだいぶ)集)(十六夜(いざよい)日記)

[ポイント]

1.おもな日記文学は成立順に、『土佐日記』→『蜻蛉日記』→『枕草子』→『和泉式部日記』→『紫式部日記』→『更級日記』→『讃岐典侍日記』→『建礼門院右京大夫集』→『十六夜日記

〈2015九州大・国語問題

 源氏物語」の作者の書いた日記の中に出てこない人物を、次の選択肢の中から一人選べ。

 ア一条天皇 イ和泉式部
 ウ清少納言 エ藤原公任
 オ藤原道長 カ菅原孝標」

(答:カ)〉

〈2012明治大・政経

 遣唐使が廃止されるころになると、中国文化を消化・吸収した国風化が進み、平仮名や片仮名が広く使われるようになり、仮名文字による優れたエ)文学作品があらわれた。」

6 下線部(エ)について、この時期の日記作品として誤っているものはどれか。A~Eから一つ選べ。

 A十六夜日記 B和泉式部日記
 C蜻蛉日記  D更級日記
 E紫式部日記

(答:A)〉

〈2012明大・国語・全学

本文(讃岐典侍日記)中の作者についての説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

A 鳥羽天皇への出仕には積極的な気持ちになれぬまま、あくまで故堀河天皇への追慕を募らせている。

B 鳥羽天皇への出仕は気が進まぬながら、心を奮い立たせて自分の役割を懸命に果たそうとしている。
C 鳥羽天皇への出仕を歓迎すべきこととしながら、その準備に忙殺されることにいささか閉口している。
D 鳥羽天皇への出仕を心待ちにしながら、一方では故堀河天皇を追慕する心を整理できないでいる。」

(答:A)〉

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歌物語

2018-06-18 | Weblog

うたものがたり「歌物語」

伊勢の山 平中までの 歌語。

『伊勢物語』 『大和物語』 『平中物語』 (以上平安時代中期までに成立)『篁物語』



[ポイント]
1.源氏物語以前歌物語平中物語伊勢物語大和物語がある。

[解説]
1.歌物語とは、和歌を中心として、話を進める形式の物語のこと。

2.伊勢物語(10C前半ころ成立)は、最初の歌物語で主人公は在原業平(ありわらのなりひら)。


3.大和物語(10C中ころ成立)は作者不詳で、小話からなる歌物語。伊勢物語のような特定の主人公はいない。


4.平中物語(平安中期の成立)は作者不詳の歌物語。平中とは、平貞文のことで、彼にまつわる好色の話からなる。


〈2015法政大・国語問題・法国際キャリデ:「


 『平中物語』は平安時代に成立した歌物語であるが、これと同じジャンルの作品を次の中から一つ選べ。


 ア宇津保物語 イ落窪物語

 ウ大和物語  エ堤中納言物語
 オ平家物語」

(答:ウ)〉

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作り物語

2018-06-17 | Weblog

竹とウツボのお中元葉巻包みて予算取り。

『竹取物語』『宇津保物語』『窪物語』『源氏物語』『浜松中納言物語』『堤中納言物語』 『夜の寝覚め』『とりかえばや物語』

 


[point]
1.源氏物語以前の物語作品に、竹取物語伊勢物語→大和(やまと)物語→平中(へいちゅう)物語→宇津保物語落窪物語がある。

[解説]

1.竹取物語(9世紀末~10世紀初め)は作者不詳で、作り物語(伝奇物語)で竹取の翁(おきな)(お爺さん)と竹から生まれたかぐや姫の物語。姫の婿選びの話を通して当時の貴族社会が見える。物語文学の最初。作り物語(伝奇物語)とは、普通ではない超現実的な物語のこと。伝説を題材にした『竹取物語』などがこれにあたる。

2.伊勢物語(10C前半ころ成立)は作者不詳、最初の歌物語。主人公在原業平(ありわらのなりひら)の歌と彼に関する物語が中心である。歌物語とは、和歌を中心として、話を進める形式の物語のこと。


3.大和物語(10C中ころ成立)は作者不詳の歌物語で、小話からなる。伊勢物語のような特定の主人公はいない。


4.平中物語(平安中期の成立)は作者不詳の歌物語。平中とは、平貞文のことで、彼にまつわる好色の話からなる。


5.宇津保物語(967~984)は作者不詳の作り物語。前半は清原仲忠をめぐる琴の物語、後半は貴宮(あてみや)をめぐる求婚話。


6.落窪物語(10世紀後半)は作者不詳の作り物語。継母から継子(ままこ)虐(いじ)めにあった女性が貴公子と結ばれ幸せになる話。


2014早大・教育

問1 下線部a10世紀の時代についての説明として正しいものはどれか。

 ア 藤原道長の全盛を編年体で描いた『栄華物語』が書かれた

 イ 漢文学の教養に基づき『凌雲集』などの勅撰の漢詩文集が編纂された
 ウ 後一条天皇の時代までに詠まれた漢詩文を集めて「本朝文粋」が編まれた
 エ 漢字の草書体などを崩した平仮名を使って『土佐日記』や『伊勢物語』が書かれた
 オ のちに三筆と呼ばれた書の達人たちが肉太の力強い書を発展させた」

(答:エ ※ア『栄華物語』は11世紀に成立した、イ『凌雲集』は9世紀に成立した、ウ『本朝文粋』は11世紀に成立した、オ三筆が活躍したのは9世紀である)

2014近大・法

問9 下線部dかな文学についての文として誤りを含んでいるものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.かな文学が発達する前の9世紀前半には、漢文学の隆盛で和歌はまったく作られなかった。

 2.かな文学に用いられた平がなは、万葉がなの草書体を簡略化して成立した。
 3.広くかな文字が使用されるようになると、『竹取物語』や『伊勢物語』などのかな文学の作品も次々と著されるようになった。
 4.かな文字で著された宮廷女流文学の代表的な作品には、清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』がある。」

(答:1)〉

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八代集

2018-06-16 | Weblog

この5千円拾遺の後貯金しかせん新子ちゃん。

古今集(こきんしゅう))(後撰集(ごせんしゅう)・遺集(しゅういしゅう))(後拾遺集(ごしゅういしゅう)・葉集・花集・載集(せんざいしゅう))(新古今集(しんこきんしゅう))



[ポイント]

1.『古今集』から『後撰集』・『拾遺集』までの初期3集を三代集と呼ぶ。
2.さらに『後拾遺集』・『金葉集』・『詞花集』・『千載集』・『新古今集』を加えた8勅撰和歌集を八代集と呼ぶ。

 〈2015京都大・前期

Ⅰ 次の史料を読み、下記の問に答えよ。なお、史料の表記は便宜上、改めたところがある。
 a御日記に云わく、(九月)二十三日庚申、この夜、殿に寝る後、侍臣ら走り叫ぶの声を聞く。驚き起きてその由緒を問うに、少納言兼家奏して云わく、火、左兵衛陣門を焼き、消し救うべきにあらず。走り出でこれを見るに火炎すでに盛んなり。(後略)
                    (『扶桑略記』天徳4(960)年)

問2 下線部aの「御日記」は、親政を実施し、その治世が後世理想化された天皇が記した日記である。その天皇は誰か。

問3 問2の天皇の時代に編纂された、2番目の勅撰和歌集の名称を記せ。」

(答:2村上天皇、3後撰和歌集)〉

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六国史

2018-06-15 | Weblog

□古代139.  ◇B

10世紀まで国家事業としての史書の編纂が続けられ、六国史と総称される歴史書が成立した《『日本書紀』に続いて『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が編まれた。「日続後続 文と三。」と覚えよう!》。



[ポイント]

1.六国史とは、日本書紀続日本紀日本後記続日本後記日本文徳天皇実録日本三大実録の勅撰六正史。

[解説]

1.神話・伝承や「帝紀」「旧辞」などをふくめて、神代から持統天皇にいたるまでの歴史を天皇中心に記している『日本書紀』をはじめとして朝廷による歴史編纂は平安時代に引き継がれ、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の六つの漢文正史が、10世紀初めまでに編纂された。これらをあわせて「六国史」と呼ばれている。六国史はいずれも編年体漢文表記。

2.『日本書紀』は、元正天皇の720年完成。国家による最古の正史。編者は舎人親王(天武天皇の第3皇子)ら。神代から持統天皇に至る天皇中心の記述。『日本紀』ともいう。


3.第2『続日本紀』(797年成立)は、奈良時代の歴史を知る基本文献。平安初期、(徳政争論の)菅野真道らによって編纂された。697(文武元)年から791(延暦10)年までを記述。


4.第3『日本後紀』(840年成立)は、792(延暦11)年から833(天長10)年までの出来事を記す。(徳政争論の)藤原緒嗣らによって編纂された。「軍事・造作」停止の記述はこの史料にある。


5.第4『続日本後紀』(869年成立)は、仁明天皇一代の833年から850年の出来事を記す。藤原良房らによって編纂された。


6.第5『日本文徳天皇実録』(879年成立)は、文徳天皇一代の850年から858年の出来事を記す。藤原基経らによって編纂された。


7.第6『日本三代実録』(901年成立)は、清和・陽成・光孝天皇の3代の858年から887年の出来事を記す。藤原時平菅原道真らによって編纂された。

〈2015関西大・全学部2月8日実施

 701年には唐の律令を参考に、( 9 ){(ア)施基(イ)舎人(ク)刑部}親王と藤原不比等が責任者として編集した大宝律令が成立した。同年正月、藤原宮では君主と臣下との関係を再確認する儀式である元日朝賀が盛大に執り行われ、のちに歴史書の『( 10 )』{(ア)日本書紀(イ)続日本紀(ウ)日本後紀}に、「文物の儀、是に備われり」と記された。大宝律令はのちに若干修正され、757年に養老律令として施行された。」

(答:9ク、10イ※『日本書紀』は持統天皇まで。)

〈2014早大・国際教養

9 下線部i勅撰の6つの正史のうち4つを、時代順に配列したものはどれか。1つ選べ。

 ア 日本後紀-続日本後紀-日本三代実録-日本文徳天皇実録

 イ 日本文徳天皇実録-日本三代実録-日本後紀-続日本後紀
 ウ 日本後紀-続日本後紀-日本文徳天皇実録-日本三代実録
 エ 日本後紀-続日本後紀-日本三代実録-日本文徳天皇実録
 オ 日本三代実録-日本後紀-続日本後紀-日本文徳天皇実録」

(答:ウ)〉

〈2013早大・法

8世紀の後半、日本列島を襲う地震はいったん終息期に入ったが、9世紀半ば、清和天皇の時代になると、平安京は群発地震に見舞われるようになった。863年、飢饉や疫病も蔓延し、朝廷は[ C ]において御霊会を開催し、この時呼び集められた怨霊をなだめようと、楽人による歌舞演劇が行われ、僧侶による読経がなされた。しかし、864年には富士山が噴火し、山頂が火炎に包まれ、強い地震があり、溶岩が流れ出し、大規模な降灰があって、周辺の地形も大きく変化した。さらに、e869年には東北地方が地震と津波に襲われて、[ D ]などに大きな被害が発生した。」

問7.空欄Cには、雨乞や宴にも使用される平安京の庭園の名が入る。漢字3字で記述解答欄紙に記入しなさい。


問8.下線部e869年には東北地方が地震と津波に襲われて、について。この地震は六国史に詳細に記載されている。藤原時平・菅原道真らが編さんしたその書名は次のうちどれか。1つ選び、マーク解答欄紙の該当記号をマークしなさい。


 あ『日本文徳天皇実録』

 い『日本三代実録』 う『続日本後紀』
 え『続日本紀』   お『日本後紀』)

問9 空欄Dには、奈良時代に陸奥の国府と鎮守府が置かれていた城柵の名が入る。漢字3字で記述解答欄紙に記入しなさい。


(答:7神泉苑※雨乞→神泉、8い

869年 貞観地震 『日本三代実録』

、9多賀城)〉

〈2012早大文化構想

『続日本紀』の次に編纂された正史は[ A ]で、六国史の一つとして知られる。」

(答:日本後紀)〉

〈2010明大・政経

 推古二十八年、皇太子厩戸は蘇我馬子と、天皇紀・国紀(2)を撰するも、(ア)其の子蝦夷の乱に、兵燹(へいせん)に罹(かか)りて亡(うしな)はる。(イ)天武九年、川嶋・忍壁(おさかべ)の二皇子に詔して、[ 1 ]及び上古の事を撰せしむるも、其の書、亦伝はらず。[ 2 ]は、元正の勅を奉じて、日本書紀を著はし、浩博の才を以て、雄贍(ゆうせん)(3)の文を騁(は)す。蓋し二皇子の成書に拠り、参(まじ)ふるに稗田阿礼の言を以てし、上は神祇より、下は持統に至るまで、列聖の往事、粲然として観る可し。之を継ぐ者に(ウ)後紀・実録の撰有るも、[ 2 ]の書に依倣せざるは莫し、遂に、後の覧る者をして、以て信を考へ実を覈(しら)ぶることを得しむ。

設問2 下線部(イ)は、「天武九年」とあるが、実際には『「日本書紀』天武十年の記述である。空欄[ 1 ]には、『日本書紀』の編纂材料の一つになったと伝えられるものがあてはまる。その名称を、漢字で記しなさい。


設問3 空欄[ 2 ]には、同じ人物があてはまる。天武天皇の皇子である。その人物は誰か、漢字で記しなさい。


設問4 下線部(ウ)のうち、藤原基経が編纂に携わった作品は何か、漢字で記しなさい。」

(答:2帝紀、3舎人親王、4日本文徳天皇実録※〈も〉〈と〉)

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713年 〈『風土記』撰上〉★

2018-06-14 | Weblog

 

●奈良時代(元明天皇)

 

Empress Genmei ordered each province to compile a report of local history, culture and topography.

無(な)いさ風土記は 人の分。

         713年   出雲  『風土記』 播磨 常陸 肥前 豊後

 

713年、元明天皇は諸国に各地の地理・産物・伝承などを書き出した風土記の編纂を命令。出雲常陸播磨豊後肥前の5カ国が現存し、『出雲国風土記』のみが完本である。



[ポイント]

1.『風土記』は、出雲常陸肥後播磨豊前の5カ国の地誌である。

[解説]

1.風土記は、713(和銅6)、諸国に郷土の産物、山川原野の名の由来、古老の伝承などの作成を命ずる元明天皇の勅命が出て、編纂された地誌である。

2.常陸出雲播磨豊後肥前の五カ国の『風土記』が現存している。このうちほぼ完全に残っているのは、『出雲国風土記』のみである。

〈2015関西大・済文社会など2月3日実施

問1 これは、『常陸国風土記』の一文である。『風土記』は、和銅6年(713)の勅命により編纂されるが、それを命じた天皇は誰か。

 ア.元明天皇 イ.聖武天皇 ウ.孝謙天皇

問3『風土記』は、5カ国のものが現存している。そのうち、ほぼ完全な形で残されているものはどれか。

 ア『常陸国風土記』 イ『播磨国風土記』 ウ『出雲国風土記』」

(答:1ア、3ウ)〉

〈2014早大・国際教養

2 下線部b風土記に関連する記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 諸国への編集命令は『日本書紀』に記録されている。

 イ 現存するものは出雲のほか常陸・播磨・豊後・肥前の風土記である。
 ウ 完全に現存するものは『出雲国風土記』だけである。
 エ 編集には各郡の郡司も参加している。
 オ 『古事記』・『日本書紀』にはない神話がある。

(答:ア)

〈2013青山学院・文教育経済法経営など

問8. 下線部c『風土記』について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選んでマークしなさい。

1.『古事記』が完成した翌年に、朝廷によって撰進が命じられた。

2.編纂の実務は、舎人親王や藤原不比等によって進められた。
3.地名の由来や地方の特産物などが記録された。
4.現存する風土記の一つとして「出雲国風土記」がある。」

(答:2)〉

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720(養老4)年 〈『日本書紀』の編纂〉★

2018-06-14 | Weblog

 

 

 

●奈良時代(元正天皇)

 

Historical narrative Nihonshoki is compiled by Prince Toneri.

何(なに)を編むとね 日本書紀。

         720年   編年体   舎人親王 『日本書紀』 元正天皇

 

元正天皇の720年、舎人親王を総裁として編集された最初の正史『日本書紀』が完成。持統天皇の代までが編年体・漢文で記述されている。これが先例となって10世紀まで国家事業としての史書の編纂が続けられ、六国史と総称される歴史書が成立した《『日本書紀』に続いて『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が編まれた。「日続後続文と三。」と覚えよう!》。


[ポイント]

1.『日本書紀』は、元正天皇720年、舎人親王編年体で記述した歴史書。

[解説]

1.日本書紀は、元正天皇720年に完成。最古の国家による正史。編者は舎人親王(天武天皇の第3皇子)ら。神代(じんだい)から持統天皇に至る天皇中心の国家成立史で、中国の歴史書の体裁にならい漢文編年体で書かれている。『日本紀』ともいう。

[正誤問題]
1.日本書紀、古事記はそれぞれ元明、元正天皇の代に完成した。
(答:日本書紀=元正、古事記=元明)

2.日本書紀、古事記は成立順に「紀記」とよばれる。
(答:記紀が正しい)

〈2015関西学院大・神社済教など

5 この史料の出典である『日本書紀』に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。なお、すべて誤っている場合は「エ」をマークしなさい。

 ア.舎人親王らによって編纂され、漢文による紀伝体で書かれている。
 イ.太安万侶によって筆録され、元明天皇に猷上された。
 ウ.『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』とともに六国史と呼ばれる。」

(答:ウ ※アは編年体の誤り、イは古事記)〉

〈2014明治大学・文(文、史学地理、心理社会)

〔Ⅰ〕古代の文化と宗教に関する次の文章Aを読み、下の設問に答えよ。
A [ a ]によれば、欽明天皇の時代に、当時の倭国は[ b ]から要請された軍事的支援に応えながら、儒教や医・暦・易博士らによる新しい知識・文化を受け入れた。このような外交関係のなかで、[ b ]の聖明王から倭国に仏教が正式に伝えられた。[ a ]では552年に伝来、『上宮聖徳法王帝説』では538年に伝来したとされている。
 推古天皇の時代になると蘇我氏は飛鳥寺、また厩戸皇子創建といわれる斑鳩寺・四天王寺等が建立された。これらの寺院の建立は、古墳にかわって豪族の権威を示すものとなった。この時代の仏教中心の文化を飛鳥文化と呼んでいる。

設問
1 空欄aに入る語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.元興寺縁起 2.続日本紀
 3.古事記   4.日本書紀

2 空欄bに入る語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
 1.高句麗 2.百済
 3.新羅  4.加耶

(答:1→4,2→2)

〈2012早大・文化構想

2.下線部b『日本書紀』に関する説明として正しいものはどれか。1つ選びなさい。

 ア.高市皇子が編纂の責任者であった。
 イ.記事が収められた最後の天皇は天武天皇である。
 ウ.稗田阿礼の口承を筆記したものである。
 エ.中国で用いられた紀伝体で記されている。
 オ.元正天皇のときに完成した。」

(答:オ ※ア舎人親王が責任者、イ持統天皇まで、ウ稗田阿礼は古事記、エ漢文の編年体)〉

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712(和銅5)年 〈太安万侶、『古事記』を撰上〉★★

2018-06-13 | Weblog

 

 

 

●奈良時代(元明天皇)

 

The historical narrative Kojiki, Japan’s oldest extant chronicle, is compiled by Ō no Yasumaro.

奈良人(びと)に故事 聞いてやす。

         712年     稗田阿礼  『古事記』  「旧辞」「帝記」 太安万侶

 

天武天皇のときから始まった国史編纂事業は、奈良時代にはいって『古事記』『日本書紀』となって完成した。『古事記』は、古くから宮廷に伝わった『旧辞』『帝記』に天武天皇が手を加えて稗田阿礼に誦みならわせたものを、712年に太安万侶が筆録してできた。現存する日本最古の歴史書である。


[ポイント]

1.『古事記』は、712年、稗田阿礼の誦習(しょうしゅう)を太安万侶(おおのやすまろ)が筆録したもの。

[解説]
1.天武天皇の時代にはじめられた国史編纂事業は、奈良時代に『古事記』『日本書紀』として完成した。

2.『古事記』は、712(和銅5)年にできた。宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇稗田阿礼によみならわせた(誦習)内容を、太安万侶(安麻呂)が筆録し、元明天皇に献上したもの。神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語であり、口頭の日本語を漢字の音・訓を用いて表記している。

 2012関西学院大学経済・国際・総合政策学部

〔Ⅲ〕次の史料を読んで設問に答えなさい。答えを一つマークしなさい。なお、史科は一部省略したり、書き改めたところがあります。

A.[ 1 ]言す。……是に2天皇詔たまひしく、「朕聞く、諸家のもてる帝紀及び本辞、
既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。今の時に当たりて其の失を改めずば、未だ幾年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故惟(かれこ)れ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。……即ち阿礼に勅語して帝皇日継及び先代旧辞を誦み習はしめたまひき。
……和銅四年九月十八日を以て、[ 1 ]に3.詔して「稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむ」といへれば、謹みて詔の旨に随ひ、子細に採り摭ひぬ。……大抵記す所は天地開闢より始めて、4.小治田の御世に訖る。……井せて三巻を録して、5.謹みて献上る

 【設問】
問1.空欄1に該当する人物の名前を下記より選びなさい.
 ア.舎人親王 イ.藤原不比等
 ウ.刑部親王 エ.太安万侶

2.下線部2の天皇に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。

 ア.白村江の戦に敗れた後、都を近江の大津宮に遷した上で、正式に即位した。

 イ.壬申の乱に勝利したのち、飛鳥浄御原宮で即位し、皇族を中心とする政洽を行なった。
 ウ.飛鳥浄御原令を施行し、庚寅年籍を作成するとともに、飛鳥から藤原京に遷都した。
 エ.大宝律令を施行するとともに、唐の長安を模した平城京を造営して、藤原京から遷都した。

問3
.下線部3の詔を発した天皇を下記より選びなさい。

 ア.天武天皇 イ.持統天皇

 ウ.元明天皇 エ.聖武天皇

4.下線部4の時代に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。

 ア.遣隋使として小野妹子が中国に派遣された。

 イ.乙巳の変で蘇我蝦夷、入鹿の親子が滅ぼされた。
 ウ.最初の戸籍である庚午年籍が作成された。
 エ.八色の姓を定めて、豪族たちを天皇中心の身分秩序に編成した。

5.下線部5に関して、この時献上された書物の説明として、正しいものを下記より選びなさい。なお、正しいものがない場合は「エ」をマークしなさい。

 ア.中国の史書にならって漢文の編年体で書かれている。

 イ.六国史のひとつに数えられている。
 ウ.国生み、天孫降臨、神武東征などの神話や伝承が記されている。」

 (答1エ、2.イ天武天皇※アは天智ウは持統エは元明各天皇、3ウ、4ア(小治田(おはりだ)の御世(みよ):推古天皇)、5ウ(古事記)

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古代の修史事業

2018-06-11 | Weblog

宮廷天国誇示日本。

帝紀(ていき)・辞(きゅうじ))→(国記(こっき)・皇記)→(古事(こじき)・日本書(にほんしょき))

[ポイント]
1.古代の修史事業で、『帝紀』・『旧辞』、『天皇記』・『国記』、『古事記』・『日本書紀』の2書ずつ3組、計6書が編纂され、これに『続日本紀』が続く。

[解説]

1.帝紀旧辞は、欽明朝頃成立か。両書とも、現在散逸して伝わらない。両書とも『記紀』編纂の原資料となったと伝わる。

2.帝紀は、天皇の皇位継承を中心とする伝承・歴史を主内容としていたと推定される。


3.旧辞は、古代の神話・伝承をそれぞれ主内容としていたと推定される。


4.天皇記国記は、620年成立。厩戸皇子が蘇我馬子と共に編集。蘇我氏の滅亡と共に焼失したものと思われる。
天皇記は、歴代天皇の系譜を記したものと言われる。国記は、国の歴史を記したものらしい。

5.古事記は、元明天皇712年完成。稗田阿礼の誦習した神代(じんだい)から推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承を太安万侶が筆録したもの。漢字の音訓を用いて日本語表記している。3巻。系図1巻は現存しない。


6.日本書紀は、元正天皇720年完成。国家による最古の正史。編者は舎人親王(天武天皇の第3皇子)ら。神代から持統天皇に至る天皇中心の記述。『日本紀』ともいう。


〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

2.下線部2)推古天皇に関連する記述として正しくないのはどれか。次のa~dからlつ選べ。

a.甥の厩戸皇子が編纂したとされる書に『天皇記』と『国記』がある

b.小野妹子が遣隋使として派遣された
c.十二階からなる冠位の制度がもうけられた
d.中国の文物を学ばせるため、高向玄理、南淵請安、玄昉を留学させた

(答:d ※玄昉→旻、なおaは正文)


〈2010明大・政経

設問2 下線部(イ)天武九年、川嶋・忍壁(おさかべ)の二皇子に詔して、[ 1 ]及び上古の事を撰せしむるは、「天武九年」とあるが、実際には『「日本書紀』天武十年の記述である。空欄[ 1 ]には、『日本書紀』の編纂材料の一つになったと伝えられるものがあてはまる。その名称を、漢字で記しなさい。

(答:帝紀)〉

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