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「上毛かるた」とキリスト教

2020-05-11 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月10日(日)23時58分57秒

>筆綾丸さん
「上毛かるた」は群馬県のキリスト教史を考える上でも、ちょっと面白い素材ですね。
終戦直後の混乱期に「上毛かるた」の作成・普及の中心となったのは浦野匡彦という人物ですが、この人は二松学舎出身で、後に日本遺族会や靖国神社と深く関わることになる「国士」タイプの人です。

浦野匡彦(1910ー86)

他方、浦野より十六歳年上で、この時期の浦野に強い影響を与え、「上毛かるた」に内村鑑三と新島襄を採用することを主導した須田清基(1894-1981)は、戦前は「非国民」と呼ばれたであろう一種独特の、まあ、ちょっとヤバ目のキリスト者ですね。
日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』によれば、須田は、

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生年 明治27(1894)年8月21日
没年 昭和56(1981)年2月20日
出生地 群馬県安中市
経歴 大正3年受洗、入営、除隊後、救世軍士官学校を経て台北神学校に学んだ。教派から自立した伝道を始め、トルストイの影響を受け軍隊手牒を焼いた。12年13カ条の軍籍離脱届を陸軍大臣に送ったが受け付けられず、当局の監視付きとなった。13年台湾に帰り、結婚、伝道を続け、神社参拝を拒否。戦後、安中に引き揚げ紙芝居で全国を伝道。昭和3年「唯一の神イエス」を刊行、真イエス会長老と称した。著書は他に「聖霊を受くる途」「隠れたる教育者」など。


といった経歴の人物で、私が郷土史関係の何かの本で読んだ曖昧な記憶では、須田は長身で肉体労働者のようにがっしりとした、インテリとは程遠い風貌の人物だったようです。
新島襄や内村鑑三と違い、須田は今では忘れ去られた人物ですが、意外なことにその主張は内村鑑三にけっこう近いところもあります。
というか、内村鑑三自身が、特に晩年はけっこうヤバ目の人ですね。

「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)

ま、私は常に宗教の表面的な現象を眺めているだけで、教義の内実に立ち入る意思も能力もありませんから、信仰の面で内村を批判することはできませんが、それでも日本のキリスト教信者が全人口の僅か1パーセント程度に止まっている原因の相当程度は、信者が集う教会の存在自体を否定した内村の無教会主義に帰せられるべきではないかと思っています。
また、新島襄も、アメリカの資金提供者には日本におけるキリスト教指導者を育てると言いながら、実際には立身出世のための語学学校もどきの同志社を運営していた国際的な二枚舌、詐欺師の一歩手前のような人物ですね。
ま、森鴎外が「かのやうに」で描いた日本の風土では、誰がやっても同じ結果だったのかもしれませんが、遥か昔、とにかく郷土の偉い人として名前を覚えさせられた一群馬県民としては、内村や新島の活動を知れば知るほど、いささかシニカルに眺める傾向が強くなってしまいます。
その点、群馬県にも足跡を残しながら、今ではすっかり忘れさられた存在となってしまったニコライのロシア正教は、日露戦争とロシアの共産化がなければ、意外に日本に根付く可能性があったのではなかろうか、などと夢想もしてしまいます。

「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その1)~(その3)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ドラえもん 2020/05/10(日) 17:21:17
http://www10.plala.or.jp/yukoike/nakuta&nakanojohistory/Jomo%20Karuta%20(English%20Version).htm
磔茂左衛門は、白土三平『カムイ伝』の登場人物を思わせますが、英語版『上毛かるた』(群馬文化協会 1998)によれば、
Gunma's own native son, Mozaemon, tragic hero of the poor.
となっていて、もしかすると、ドラえもんの親戚筋ではあるまいか、と錯覚させるような味わいがありますね。
なお、ヘボン式表記であれば、Gunma ではなく Gumma とすべきですが、梅毒のゴム腫を意味する gumma を避けて Gunma にした、ということのようですね。
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