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久保田順一氏「第二章 上杉氏の成立」(その1)

2020-04-27 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月27日(月)12時58分42秒

三日ほど投稿を休んでしまいましたが、またボチボチと書いて行きます。
この間、「宗尊親王鎌倉御下向記」に出てくる「びてう」が気になって、古文書・古記録に詳しい知人に質問してみました。
「びてう」ではどうにも意味が取れず、もともとは「仕丁」ではないか、という指摘を頂くなど、材料不足の中で種々ご教示いただき、感謝しております。
あるいは誰かが既に、書誌的事項を含め、「宗尊親王鎌倉御下向記」に関する精緻な研究をされているかもしれないので、図書館の閉鎖が解除されたら自分でももう少し調べてみるつもりです。
また、ツイッターで相互フォローしている竹帛さんから、久保田順一氏『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)の「第二章 上杉氏の成立」の内容を教えてもらいました。

https://twitter.com/koottayokan/status/1253331156675616772

そこで、「宗尊親王鎌倉御下向記」の記述に関する久保田説を少し検討してみたいと思います。
久保田氏は『吾妻鏡』建長四年四月一日条の、

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寅一点、親王自関本宿御出、未一剋、着御固瀬宿、御迎人人参会此所、小時立行列、先女房、<各乗車、下臈為先、>美濃局、別当局、一条局、<大納言通方卿女、>西御方、<尼土御門内大臣通親公女也、布衣諸大夫侍各一人在共、此外女房雑色外無僮僕>

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma42-04.htm

という表現、特に「西御方」に関する「布衣諸大夫侍各一人在共、此外女房雑色外無僮僕」と「宗尊親王鎌倉御下向記」を照らし合わせて、

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 「吾妻鏡」との違いをみると、「吾妻鏡」では諸大夫については一人だけで、右馬権助親家とみえるが、こちらでは官途が「日向武者介」と異なる。官途が異なるものの、実名は親家とみえるので、同一人であることは間違いない。後者の、もう一人の諸大夫「おとゝはうぐわんだい」は「大臣判官代」であろうか。侍は「とうしんざゑもん」とみえ、藤原新左衛門尉」という人物である。各々「ねうばうのかいしやく(さく)」(女房の介錯)と説明があるが、これは「吾妻鏡」にみえる西御方に付き添う諸大夫と侍と同一人であろう。「大臣判官代」は西御方の父源通親が内大臣であったので、これに因んでそう呼ばれていた人物であろう。
 藤新左衛門尉について、これが重房の可能性がある。重房は「上杉系図」には「左衛門督(尉)」とみえ、官途は一致する。そうであるならば、重房はこの西御方に仕える侍であったことになる。上杉系図では、重房は宗尊に供奉して関東に下向したとのみ記されているが、実際は西御方の「介錯」(介添え)の一員として下向したことになる。重房は宗尊に直接仕える立場ではなかったことになる。
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とされています。(p21)
関係部分だけ見ればそれなりに筋の通った解釈といえそうですが、ただ、「宗尊親王鎌倉御下向記」の記述は、武士の名前に「おゝすみの。子一人。」「けしの。子一人。」といった雑なメモ書きのような記述も多く、そもそもどこまで信頼できる記録なのか不安を感じます。
また、「べたうどの」(別当殿)のグループの「はたのゝいつきのぜんじ」は『吾妻鏡』の「自京供奉人々」四人中の一人「波多野出雲前司義重」と思われますし、「にしの御方」(西御方)のグループの「ながゐのさゑもん」は「長井左衛門大夫泰重」かもしれませんが、残りの「自京供奉人々」二人のうち、「左近大夫將監長時」は上臈女房のグループではなく、「所たいう」「さぶらひ」の次に「ぶし」として登場する「六はらのさこんのだいぶ」のようです。
そして「佐々木加賀守親淸」の場合、対応する人が「宗尊親王鎌倉御下向記」には見当たりません。
更に、例えば「にしの御方」グループの「のせのはんぐわんだい」「さニらうざゑもん」「えびのさゑもん」は『吾妻鏡』での対応者がはっきりしませんし、「御むかへの人々」「かりぎぬにてまいる人々」と『吾妻鏡』の人名を比較しても、分類・序列などに明確な規則性は存在しないようです。
総じて「宗尊親王鎌倉御下向記」と『吾妻鏡』の対応関係がはっきりせず、久保田氏の言われるように「とうしんざえもん」が「西御方の「介錯」(介添え)の一員」と断定できるのかどうか、私はかなり疑問に感じます。
また、久保田氏は「藤新左衛門尉について、これが重房の可能性がある」としながら、その後の記述は重房に確定しているような書き方となっており、これも些か奇妙です。
本姓が藤原氏で左衛門尉に任ぜられた人は大勢いますから、いくら「上杉系図」と官途が一致するからといって、そこから出てくる結論は「重房の可能性がある」に止まるはずです。
さて、久保田論文の続きです。

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 式乾門院の死後、主人を失った重房は、宗尊の父後嵯峨の乳母であった西御方に拾われて仕えていたのであろう。そのようにみると、重房は土御門家に深く関わっていることが浮かびあがる。まず、先述したように重房の父清房は後鳥羽院に仕え、その死後も慰霊に関わっていたが、その背景として能円女で通親の養女で後鳥羽院の妃となった承明門院がいる。彼女はこの時期もまだ存命であった(正嘉元年=一二五七、没)。承明門院や西御方らの土御門一族が重房を保護する立場にあったのである。
 西御方の実父は通親であるが、母は承明門院と同じ藤原範兼(南家貞嗣流)女の範子である。従って、承明門院と西御方は同母姉妹に当たる。範兼女は能円死後、通親に嫁いで通光・定通・通方らを生んだとみえる。これらの人々も重房にとって主筋に当たることになる。なお式乾門院の女房として通親の子通光の女に「式乾門院御匣」がおり、重房はこの女性とともに式乾門院に仕えたのであろう。
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細かな問題点は次の投稿で少し書くとして、私は久保田氏の基本的な発想に若干の疑問を感じます。
久保田氏が作成された「系図2 勧修寺流と土御門流王家との関係」(p22)は、『尊卑分脈』を素材に分かりやすくまとめられており、大変参考になったのですが、ただ、貴族社会は武家社会以上に狭い範囲で人間関係が交錯しているので、数世代にわたって調べれば大抵の人は何らかの形で結びつくといっても過言ではありません。
従って、貴族社会を分析するにあたって、一部を抽出した系図で人間関係を追って行くと過度の思い込みとなる危険性がつきまといます。
そしてこの危険性は、鎌倉時代の上杉一族が四条家の家司だったとする山田敏恭氏の議論とも関係してきます。
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