学問空間

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Confessions of a Namahage Mask(なまはげ仮面の告白)(その2)

2016-04-05 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月 5日(火)12時54分54秒

この掲示板の投稿を保管しているブログ、「学問空間」で検索してみたら、私は実に14回も安丸良夫氏に言及していて、そのうち13回は今年に入ってからですね。
安丸氏が「真宗王国」富山県の農村地帯で生まれたことについては、次の二つの投稿で紹介しました。

富山県出身の安丸良夫氏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46b29a218a2aeb18382529ae252b697b
ゾンビ浄土真宗とマルクス主義の「習合」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33c77b57ad5d51d0ef3bdbfbe9c1e67d

『神々の明治維新』については、次の投稿で若干の批判を行っています。

「広沢兵助と近かった」(by 安丸良夫)は本当なのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d3f9c82afc4d1ec9571211116cf97580
『仏々(ぶつぶつ)の明治維新』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0bbe018f9cb33f200b8efac91e0e40c3
「真宗貴族」との階級闘争
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5cb6dd902d3193b7c5b9e868a853bb3e

このうち、『仏々(ぶつぶつ)の明治維新』 では引野享輔氏(福山大学人間文化学部准教授)の「近世後期の地域社会における『神仏分離』騒動」を引用して、最近の研究者が『神々の明治維新』をどのように評価しているのかを紹介しましたが、私も引野氏の評価には概ね賛同しています。

ところで、全14回中、唯一今年の投稿でないのは、2012年12月31日の

Confessions of a Namahage Mask(なまはげ仮面の告白)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64b9659867ff6e150dd5eefddbcda7c1

という我ながら奇妙なタイトルの投稿で、ここで私は、

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また、近世社会において、時代の制約を受けつつ合理的精神を発展させてきた人々にとって、神仏習合は耐え難い非合理な風習だったのだろうな、と想像するようになりました。
で、結局、自分が明治維新の時期に生きていたら、神仏分離・廃仏毀釈の狂騒に抵抗するどころか、率先垂範して神仏習合化した神社を襲撃し、仏教的色彩の強い建造物を打ち壊し、神社内の仏像を放り出して焼き払う方に回ったのだろうな、と気づきました。
これはなかなか衝撃的な経験でしたね。
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などと書いているのですが、これも東日本大震災後の若干の興奮状態の反映であって、今の私は神仏分離・廃仏毀釈を「狂騒」とは考えていませんし、自分自身が「率先垂範して神仏習合化した神社を襲撃し、仏教的色彩の強い建造物を打ち壊し、神社内の仏像を放り出して焼き払う方に回」ることもなく、まあ、たぶん傍観者として眺めていただけだろうなと思っています。

>マサムネさん
私は去年、田中耕太郎は面白いなと思って多少調べたのですが、今年に入ってからはなかなか手が回りません。
ケビン・ドーク氏の著書も暫くは読めそうもありませんが、ご教示、ありがとうございます。

>筆綾丸さん
>美しいアメリカン・ショートヘア
玄成院に住まわれていた平泉澄氏は、敗戦後、皇国史観の巨魁を取り押さえようと乗り込んできた進駐軍を軽くいなしたようですが、幾星霜を経て、平泉家の猫の世界は国粋主義を離脱したばかりか、アメリカに占領されてしまったようですね。

※筆綾丸さんとマサムネさんの下記四つの投稿へのレスです。

門前の小僧と社前の猫 2016/05/01(日) 09:01:13(筆綾丸さん)
小太郎さん
日本の古臭い文献しか参照できない責任は、トッドではなく、夜郎自大を善しとする日本の学界にあるのでしょうね。

玄成院庭園は拝観できるとは知らずに玄関で引き返すと、社前に一匹、小股の切れ上がった美しいアメリカン・ショートヘアがいて、すこし戯れました。祭神イザナミノミコトの使いだったかもしれません。

https://www.google.co.jp/maps/@36.0482536,136.5203134,15z?hl=ja
平泉寺白山神社に到る福井県道132号線の両脇には、勝山城博物館と大師山清大寺の本堂・五重塔が一対の狛犬のように鎮座していて、両方とも、地元出身の実業家多田清が建てたとのことですが、平泉寺白山神社を相当意識したのだろうが、三点を結ぶとほぼ直角三角形になるな、などとどうでもいいことを考えました。

大本(教)から分派して世界救世教ができ、さらに分派したのが神慈秀明会なんですね。高野山から枝分かれした醍醐寺といい、お東騒動といい、宗教通有のうんざりするような現象ですが、予想を裏切って、永平寺がいちばん真っ当に見えました。

http://eiheizen.jimdo.com/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%AE%B6%E3%81%A8%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA/
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明治12年5月3日(1879年)永平寺の承陽殿、孤雲閣が焼失し、・・・この再建時に使用された紋が久我竜胆紋であった。この時、永平寺で初めて久我竜胆の紋が使用された。本来、道元禅師の祖廟としての承陽殿であるので、その出身、久我家の紋(久我竜胆)が使用されても何等問題が無い。
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随所に鏤められた久我竜胆を五月蠅く思いました。道元の思想を尊重するなら、家紋など不要の筈です。司馬遼太郎は『越前の諸道』で、永平寺の堕落は3世・徹通義介に始まる、と非難していますが、それに比べたら、明治における久我竜胆の採用など微笑ましいものです。難解な『正法眼蔵』の可憐な栞くらいに考えればいいのでしょうね。

筆休め 2016/05/01(日) 09:28:45(マサムネさん)
日本人が気付かない 世界一素晴らしい国・日本 (WAC BUNKO 232世界が「思いやり」と「おもてなし」の日本文化に気付き始めた!カトリック信者の私が、なぜ、靖国神社を参拝するのか? ) 新書の著者ケビン・ドーク氏の論考、その一端を筆休めとて献呈~
日本とわたし
https://jinf.jp/japanaward/h26meeting/kevin-doak
過去三十七年間を振り返って、日本と私の関係がどう変わってきたのか。日本と世界の関係がどう変わってきたのか。そして、日本のツァイトガイスト(Zeitgeist=時代精神)の変化によって、私の考え方がどう影響されたのか。そうした点について、今日は、学術的な分析や論文ではなく、個人的な話をしたいと思います。

普遍的な正義、あるいは法の原則という基盤がない場合、実定法だけで道徳や倫理などが決められていくわけです。そうしたアプローチになってしまうと、少数意見の人々の人権を守ることが必ずしもできるわけではありません。民主主義そのものが危ういことになってしまいます。普遍的な正義あるいは法の原則に必要なものは何かと考えれば、自然法、natural lawではないかと思います。
 これまで述べてきたように、私は過去の三十七年間、四つの時期、時代に分けて、それぞれ違う四つのテーマについて考えてきました。最初は巨峰、はっきり言えば、ビジネスの世界、商業が大きなテーマでした。二つ目のテーマは、民族と国民という二つの概念の違い。そして三つ目のテーマはカトリックの日本での意義。そして四つめのテーマは法の支配ということでした。今、それらすべてのテーマを統合しようと考えています。
 そして、いろいろ研究した結果、田中耕太郎の書いたものに注目しました。彼は法学に関するたくさんの書物を残している日本有数の商法の専門家でした。民族論についても、非常に独創的な考えを持っています。彼はカトリック信者でしたし、判事でもあり、最高裁判所の長官も勤めた人物です。
 田中は、商法に関する著述の中で、人間は商業、ビジネス、あるいは取引を通して、市民的な責任を果たす役割をしているだけではないと書いています。それによりますと、ビジネス、あるいは取引を通して、人々は最も人間らしい生活を送ることができると書いています。become free humanという言葉を使っています。人々は利益を追求しながら、いろいろな商取引、ビジネスを行いますが、まさにそのときに最も合理的な行動、行為をとると田中は言っています。その合理的な行為は文化、民族、人種の違いがあっても、関係ないということです。つまり、すべての人間が合理的な行為を理解できると彼は主張しています。
 また、田中は民族的なアイデンティティーの重要性も非常に高く評価しています。人間は自分の生まれている、育っている、生きている文化の中でしか行動できないのだから、民族的な意識はとても重要だと言っています。そして、この民族という概念は法の支配や人権といったより広い概念、原則に相反するものではなく、十分に共存できるとも言っていました。
 そして、民族的なアイデンティティーは重要だとしても、普遍的な正義、法の原則、自然法の中に、民族、文化、宗教などは基本的に入れるべきではないと考えていました。田中はカトリック信者という日本ではマイノリティーの一員でしたから、このことはナイーブに考えていたのだと思います。
 少し難しい話になるかもしれませんが、基本的な問題はこういうことです。
 一方で、普遍的な正義、あるいは法の原則を持ちたいと人間は考えるわけです。これは田中は自然法であるべきだと主張していました。同時に、さまざまな民族、さまざまな異なる文化の人たちの権利を守る、尊重するような体制が必要であるという一見、相反するものをどうして統合するのかということが大きな課題だったのです。
 最終的に彼は、一つしか存在しない普遍的な自然法をつくり、すべての他の法律、実定法は普遍的な自然法の表れにしか過ぎないという法体系をつくるしかないと結論づけました。
 ここで強調したいのは、自然法が存在しなければ、文化的相対主義(cultural relativism)、あるいは文化的帝国主義のようなものが蔓延してしまいます。しかし、自然法が存在すれば、民族的なネーションに暮らすマイノリティーの人たちの人権は十分に守ることができます。そして、多数民族が自分たちの民族アイデンティティーをいろいろ文化的な形で表現したとしても、民族的マイノリティーに暴力行為を犯すことが許される社会にはならない。田中はそう言っていました。
 一番重要なことは、田中は学者でしたが、こうした結論やさまざまな考えは書斎の中でいろいろ哲学書を見ながら抽象的に決めたわけではないということです。彼は商法の専門家ですから、人間が実際に、どういう行動をしているのか、どういう取引、ビジネスをしているのかということを研究したうえで、商法の規則、原則を研究し、実務経験に基づいた結論を出したわけです。
 先ほどからの話には、国民的ネーションとか民族的ネーションとか国家という抽象的な言葉が多いと思います。こういう抽象的な言葉を使えば使うほど頭が痛くなります。そして、壁にぶつかるという現象があると思いますが、田中はまったく違うアプローチをしています。
 彼はこんな言い方をしています。人間は価値観が違っても、文化が違っても、人種が違っても、何千年前からお互い取引をしてきたではないか。ちゃんと商業、ビジネスを行ってきたのではないか。抽象的な概念と戦うよりは実際に日常生活、人間が行っている日常生活を見るとその答えが出てくるのではないか。
 商法を勉強すると、非常に多くの専門用語があります。しかし、田中が残した書物を読むと、日本の戦後の文化史、歴史そのものを描いているように感じます。つまり、経済発展を国家の最優先とした吉田ドクトリンから安倍政権のもとで今、展開されている法の支配の原則までが、すべてその中に入っているような気がします。
 私は今、田中耕太郎のすばらしい実績の前に立っていますが、田中の存在は目の前にある巨大な山、巨峰のように感じています。あまりにも偉大な方なので、この巨峰を乗り越えることができないのではないかと今、悩んでいるところです。

国家史/郷土史から観る神仏判然 2016/04/04(月) 10:55:55(マサムネさん)
まだまだ論考に寄与できるところではありませんが、一つの史実を献呈
八幡神さまどいて。猪熊兼古神社を造る。白鳥神社(10)
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-706.html
神道が第一の吉田神道の基本理念に基づき、社僧を排除。
別当寺である鶴内寺を解体。

『奉教人の死』の異常性 2016/04/04(月) 19:24:19(筆綾丸さん)
http://research.nichibun.ac.jp/ja/researcher/staff/s363/index.html
http://explore.georgetown.edu/people/kmd39/
ケビン・ドーク氏の考えには関心がありませんが、Doakという姓には興味を抱きました。チェコかハンガリーの東欧系移民の子孫でしょうか。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/49_15269.html
芥川龍之介の「The Man from the West」を「奉教人の死」のこととして、Doak 氏の論文における「The Last Word?」の意味、とりわけ「?」の意味は何なのか、よくわかりません。

『奉教人の死』は相当不自然な物語で、頭脳明晰な芥川が、なぜこんなものを書いたのか、よくわからない。作品中の「伴天連」が布教に来た西欧人(ポルトガル人或いはスペイン人或いはイタリア人)だとすれば、主人公の名「ろおれんぞ」から、Lorenzo=男性名詞と理解するのは言語的必然で、末尾において、
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・・・いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、清らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。今は焼けただれた面輪にも、自らなやさしさは、隠れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。
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と発見したのであれば、なぜこの少女は Lorenzo などという男性の名を名乗っていたのか、という疑問を抱く筈なのですが、そんな気配は微塵もない。この短編の致命的な欠陥です。Lorenzo の洗礼は正式なものだったのか。似而非信者か僭称か。さらに、奉教人衆は Lorenzo の死を「まるちり(殉教)」と呼びますが、キリスト教において、こんな死に方は献身(dedication)と呼ぶかもしれないが、殉教(martyr)とは呼ばないはずで、芥川の勘違いとしか思えません。
「ろおれんぞ」は、もしかすると、両性具有者(hermaphrodite、androgyne)だったのでないか。そう考えれば、主人公が Lorenzo という少年として生き、最後は清らかな乳房をもつ少女として死んだ、という解釈が成り立ちます。しかし、そんな倒錯が本編のテーマではあるまい。要するに、『奉教人の死』は不自然な作品だ、としかいえませんが、遠藤周作『沈黙』に関する論文も書いている Doak 氏の関心は奈辺にあるのだろうか。

追記
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html
Doak 氏の言う「The Man from the West」は『神々の微笑』の英訳名のようで、「The Last Word?」とは、
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・・・泥烏須も必ず勝つとは云われません。天主教はいくら弘ひろまっても、必ず勝つとは云われません。(中略)事によると泥烏須自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。
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という辺りを指していて、要するに、宗教の変容がテーマらしい。Doak 氏の「?」は、東方への伝播によってもキリスト教は変容していない、仏教とは違うのだ、という含意なんでしょうね。
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