Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

江戸凱旋。

2006-02-26 | 徒然雑記
 明日になれば、都落ちが解禁されて江戸に凱旋する。
江戸のどこかと問われれば、江戸前の握り寿司が生まれた地だよと云っておく。

東京で再び暮らせることが喜ばしい。
私が暮らしたいと願うのは、広大な東京の中において以下の条件を充たす土地である。

□ 江戸期から存在していた街であること
□ 海沿いでないこと(※液状化が何故かとても怖い)
□ 寺が徒歩圏内にあること
□ 和菓子屋が徒歩圏内にあること
□ 銀座に30分で出られること
□ 交通網がまぁ充実していること(地下鉄の駅があること)

 人に話したら、厳しい条件であるとともに、随分おかしなこだわりの条件であると指摘された。
だが、東京で3度目の住居である。これまでの経験から云って、最も自分が落ち着く条件が以上のものなのだから仕方ない。贅沢を言えば山手線内(特に、文京区)に住みたいものだが、それは以下の賃貸住居の条件と照らすと贅沢にも程がある条件になってしまい、自分の経済力で暮らしてゆく自信がないのでやめた。


ついでなので、私が暮らしたいと願う住居の条件についても述べてみたりする。

□ 最寄り駅から徒歩10分以内であること
□ 鉄骨鉄筋、2階以上であること
□ オートロックであること
□ 広い通りや明るい通りに近いこと
□ 30平米以上の広さがあり、間取りが使い易いこと

 これについては、女性の独居ということであれば至極順当な条件であろう。
しかし、独居の引越しのくせに3トントラックが来るような状態であるので、上記の中でも部屋の広さが最優先事項である。書籍と資料で8箱、靴で4箱、ハンガー50本以上。・・無駄なものはないはずなのだが。


 さて、今回最もお伝えしたい内容は、ここから下。

暫くネット環境が劣悪なので 更新や連絡が滞るぜベイブ。 
連絡は携帯優先で頼むぜハニー。

 そういうことさ。
 東京で長らくあたしの帰りを待っていてくれたみんな、もうすぐ逢いにゆくよ。
 

さらば灰色の街。

2006-02-25 | 徒然雑記
 この灰色の街に「暮らす」気なんてそもそもなかった。

 わが街東京から遠くないこの灰色の街は
 いずれ東京に帰る日のために
 私の右足だけをひょいと引っ掛けておく足場にすぎないと。

 灰色の街に居ながらにして
 東京や奈良での基盤を着々と固めていった。
 私の暮らしはこの街でなく、東京にあるものだ。

 灰色の街においては、
 昼は大学と家の往復で
 家に籠もって机に向かい
 気紛れに珈琲を飲みに家を空け
 夜になると不慣れな無音状態に怯えて眠った。


 友は東京に居て私を待っているものだ。
 もうすぐ帰る私を待ちわびて、次から次へと連絡が入る。
 私の手帳は引越しと論文の後始末と友との約束でぐちゃぐちゃだ。


 灰色の街を後にする間際になって
 自分の右足と
 心の半分だけを引っ掛けておいたこの土地から
 私が去ることを淋しく思う人がいることに気付いた。
 この灰色の街に、私の記憶が残ってゆく。

 私の部屋に彩りを与え続けた緑の竹を友に託す。
 その若い緑色の向こうには、
 私の記憶が透けて見えるのだろうか。


 いつのまにか、私はここに確かに暮らしていた。
 いつでも来れるのが判っているくせに
 右足の掛け金をふっと外してしまうのが、少し惜しい。

 
 さよなら、灰色の街。
 

 
 

恋愛バトン パート2。

2006-02-20 | 伝達馬豚(ばとん)
気晴らしのバトン・・のはずが、・・めちゃくそ長いんだよ今回の。
でも、のし付きで届いちゃったものだから、律儀な私はやるしかない。
しかも、問いの内容もサビついた記憶の引き出しの奥~の方から無理に(以下略


○ 告白する        凄い昔の話。
○ 告白される       上よりは新しい話か。
○ 同性に告白される    ご挨拶と間違うくらい頻繁。 
○ 片思いで告白して振られる    振られる為に云ったことはあるかな。
○ 付き合っていて振られる     ヨソに女作られたことあったな。 
○ ラブレターをもらう   基本、同性からですが。
× ラブレターをあげる   まどろっこしい。
× 芸能人に恋       「恋」を辞書で引いてみたらいいと思う。 
× 高嶺の花        あたしのことでしょ。 
○ キス 
○ 駅のホームでキス
○ 公園でキス 
○ 人前でのキスなんて平気 出題者、キスフェチですか? 
× 同性とキス 
○ 恋人と手をつないで街を歩く 
× 恋人とのプリクラをどこかに貼って過ごす 貼る以前に、撮らない。
× 話したこともない人を好きになる 
× きよしが好き      氷川君ですか。
× ひろしが好き      久米さんですか。
○ 年上が好き 
○ 年下が好き       年とか、どうでもいい。 
○ 外見重視        顔立ちや立ち姿、衣服は性格の反映だ。
× 最近結婚を意識     「まだしたくない」方向で意識はしてるかも。
× 結婚をした 
× 子どもを産んだ     そんな勇気もない。
○ ダメな人を好きになりやすい   たまに。最近ないな。
○ 人と温泉旅行      行きたい。機会がない。
○ 指輪をもらう      再来月誕生日です。皆様ウェルカムです。(薬8~8.5/中9~9.5で)
○ 指輪を贈る 
○ 恋人と「結婚しようね」と約束  約束・・ではないが。若かった。
○ 恋人とのメールは欠かさず    物理的距離は心とサイバーで埋めよう。
○ 嫉妬深い        嫉妬をしない愛なんて無きに等しい。
○ 二股以上した      隠し事は上手です。
○ 二股以上された     気付いてたけど。
○ 実家に恋人をつれていく 
○ 好きでもない人と付き合っていた 事故です。
○ ファンがいた      同性とおじちゃんに多いですね。
○ バレンタインにチョコをあげる 
○ バレンタインにチョコをもらう  貰った方が多い。
× 恋人に手作りマフラーを贈る   手作りって怖いでしょ。
× 手作りマフラーをもらう     だから、怖いし。 
× ペアルック       恐怖もここまでくると。
× 恋人色に自分を染める      そんなヘタレは要らん。
× 恋人との携帯会社はおそろいが基本 そんな縛りは御免。
○ 5歳以上年上と付き合う 
× 5歳以上年下と付き合う 機会があればウェルカムです。
○ 好きな人がいる     常に、誰か。
× ほれやすい 
○ 腕枕すき 
○ 過去の恋人との品    物品に罪はない。
× 果たせてない元恋人との約束   約束は常に守れる分しかしない。 
○ 今までの恋人10人以上 
○ 恋人の親と食事 
○ 歯ブラシを2本並べて過ごす   同棲じゃないけどね。共有は厭。
○ 3年以上付き合う 
× 貢ぎ 
○ 忘れられない人     私の心の一部になっている人は皆。
○ 抱きしめ好き      なんのために手があると思う?
○ ドラマのような経験 
× 友達の恋人を奪う    簡単に奪われる男なんて要らない。 
○ 恋は活力        男が充実していると、仕事が充実する。
○ アブノーマル      いや、読者が慌てるかなぁと思って。 
× 好きの意味がわからない 
× ビビビ         違う意味で怖い。
○ ナンパ 
○ 遠距離恋愛 
○ 文通          手書きの手紙というのは素晴らしい。
○ お姫様抱っこ      したことも、されたことも。
○ ビックリプレゼント 
× キスイヤに出た     友人が出た・・・(号泣 
○ 10万円以上のプレゼントをもらう 
× 恋人のために禁煙    それじゃ、別れたらまた吸っちゃうじゃん。
× 親に別れさせられた 
× 白馬の足音が聞こえる  それは心の風邪です多分。
○ ~フェチ        靴フェチ。腕時計フェチ。男性の身体では背中・前腕・手ですね。
○ 恋がしたい       いつでも。  



 つ、疲れた・・気晴らしのはずでは・・(笑)
 若人たちよ、貰っていってくりゃれ。




カルロ・クリヴェッリ『福者ガブルエレ・フェレッティの幻視』 -ヤコポ・ベリーニ素描帖からの引用-

2006-02-18 | 芸術礼賛
lapisさまのカイエ中の記事『カルロ・クリヴェッリと蝿』において、トロンプルイユについて取り上げて頂いた。その中で『福者ガブリエレ・フェレッティの幻視』という特異な作品の紹介を頂いた。
この作品は私も大好きなもので、遠近法に対するクリヴェッリのある実験と到達を見ることができる。lapisさまに対するコメントで述べたことの焼き直しが殆どだが、改めてここに記事にしておく。

 上の図は、ヤコポ・ベリーニによるロンドン素描帖42葉の『聖痕を受ける聖フランチェスコ』の試作である。この素描自体の完成度は左程高くないが、クリヴェッリの『福者ガブリエレ・フェレッティの幻視』(1480年代後半)との類似は興味深い。
クリヴェッリの作品で視線を奪われるS字カーブの道は、素描帖では同様のS字を描く小川、右側中景に建物、左全景に跪く僧侶、その後ろに裸の岩山があるなど構図やモチーフが酷似している。更に、ヤコポの素描においては遠近を明瞭に意識した建築物などの直線的モチーフがないために確固たる消失点がない屋外の風景の遠近を、右側の建物に工夫を加えること、及び山を加えることなどによって巧みに表現している。
 クリヴェッリの作品においては、画面奥に向かって低くなるよう地面の高さに変化をつけるとともに、地面の段差に気付かせるが如く、道の中央に白い頭巾をかぶった老人の頭部を覗かせるという小技を効かせる。

 その結果として、以下のように鑑賞者の視線を誘うことになる。

【前景の僧侶→僧侶の袖下から覗く、非常に目立つ老人の頭巾→地面の高低に気付く→道沿いの並木で奥へ導く→奥の空間へ視線を吸い込む→遠景の海に消失点】

ヤコポの素描にはなかった並木や、消失点となる遠景の海、地面の高低などの要素を配合する実験的な作業を経て、難しく不自然に見えがちな画面構成を実に安定した構図へと仕上げているのである。

また、「幻視」や「花綱」の表現はトロンプルイユ的であり、花綱に至っては画面の外側に描かれて絵画自体を飾っているかのように絵画の空部分にくっきりとした影を落としている。ルネサンス期に実験が繰り返され、急速に発展した正確な遠近法表現に工夫を加えて更にそれを強調するとともに、画面の手前にせり出してくるお飾り的なモチーフを用いるという二種の異なるコンセプトの遠近表現をがっちりと組み合わせることによって画面手前と画面奥への軸を貫かせた、とても実験的かつ合理的な空間表現を示している作品と云えよう。

 
 アスコリの受胎告知とともに、1480年代以降のクリヴェッリの作品は「円熟期を過ぎたマンネリ化した作風」と評されることが少なくない。しかし今回取り上げた2作品を見るだけでも、それらが様々な実験を織り込んだ斬新かつ意欲的な作品であることが理解できる。クリヴェッリは決して、時代に逆らった装飾的表現を好む一地方画家という見方に収まるものではない。その突出した個性によって時代の要素を積極的に選び取り、それらを咀嚼した後に自らの画風に組み込んでいったのだという事実は否定できないからだ。
今回の祭りによって、クリヴェッリの装飾的魅力以外の側面が少しでも伝わったとしたならば、それで私は少し嬉しい。



カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(2) -当時の情勢と『受胎告知』製作の経緯-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(3) -イコノロジーに見る宗教性と歴史性-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(4) -ヤコポ・ベリーニ素描帖からの引用-




カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(4) -ヤコポ・ベリーニ素描帖からの引用-

2006-02-16 | 芸術礼賛
 祭り四日目に突入。(上図はルーヴル素描帖29葉)

最初に謝罪をしておきたい。ヤコポ・ベリーニ素描帖は膨大なヴォリュームで、クリヴェッリはその中から多くの素描を見、種々雑多の気に入り部分を理解し、取り入れ、独自解釈し、自らの絵に散りばめた。その全貌を洗うことは私の手に負えるものでは到底ないし、なによりベリーニ素描帖の図版が手元にない。よって今回は彼の「素材転用」について僅かの雰囲気だけでも味わって頂くために、ほんの触りのみ書くことにした。

今後、もしヤコポ・ベリーニの素描帖を見る機会があった折には、当記事のことを思い出して、照らしながら頁をめくって頂ければ、きっと面白いことになるだろう。

【構図と遠近法】

 ヤコポのロンドン素描帖13葉・76葉及びルーヴル素描帖29葉はそれぞれ受胎告知図の実験である。いずれも、右側前景にマリアの居る建物がせり出し、左側に道や広場を設けて強調された遠近を表現し、鑑賞者の視線を奥へと吸い込ませる。ヤコポの3点の受胎告知では、画面左側の空間は全部開けているか、もしくは画面が途中で切り取られたようになっており、その空間の収束が曖昧なまま残されている。
クリヴェッリはこれら複数の受胎告知の素描を参照したに相違ないという類推を踏まえて考察をすすめる。

ロンドン素描帖76葉は、ヤコポ素描で何度か試みられている受胎告知図の中では最も完成された構図。クリヴェッリの当『受胎告知』は全体の構図及びマリアの姿勢、マリアの居る建物の形状など酷似する部分が多い。


【モチーフへの興味と転用】

■メダイヨン状のレリーフ
 ルーヴル素描帖29葉は構図的にはクリヴェッリのそれと近似しているとは云い難いが、画面左中景にあるアーチに注目したい。クリヴェッリの作品ではヤコポの素描によるようなアーチ上の屋根は取り外されているものの、その彫刻装飾やメダイヨン状のレリーフなどが酷似していることから、当素描を参照したことはほぼ明らかと云えよう。

 面白いのは、ヤコポ素描においてレリーフに描かれる顔は3/4正面であるが、クリヴェッリのそれは非常にリアリスティックな横顔であること。
クリヴェッリがヤコポの素描から複数の材料を寄せ集めて、それを自分流に磨き上げて発展させるという形で受胎告知を完成させたと考えると、レリーフ内の顔の角度の書き換え一つにも意味があると仮定したくなる。
ヤコポは古代ローマ時代の貨幣を克明にスケッチし、残している。ルーヴル素描44葉に正確なスケッチを、更にルーヴル素描28葉・41葉・427番などにおいてそれらを建築装飾に組み入れる形で応用している。ヤコポの素描を確かに目にしていたクリヴェッリが、そのリアリスティックな表現を追及するためにヤコポの貨幣スケッチを利用したという仮説は、決して乱暴なものではないだろう。ルーヴル素描帖29葉では遠景となっていて細部までを参照できなかったアーチを受胎告知図の中に描く為に、クリヴェッリは他のヤコポの素描の中から参照可能な図像を探し、簡略にしか描かれていなかったメダイヨン状のレリーフをヤコポ素描のいずれかに倣って描き、写実性に富む建築を表現しようとした可能性は充分にあると考えたい。


■石碑(石柱)
 ルーヴル素描帖44葉・45葉には、文字が刻まれた石柱(石碑)のスケッチが残されている。従来は画面の最前列や隅のほうに自らの名前を記していたクリヴェッリが、この作品では場面の一部をなす中央の大理石の角柱にサインを刻んでいるのは特殊である。最前列の台座に「LIBERTAS ECCLESIASTICA」の文字を記入する必要があった為に従来の場所にサインをすることができなかったのであろう。そこで彼は参照した素描のイメージから、自分の名前をまるで石碑に刻むが如く堂々と画面の中央に置いてこの大作を製作した自らの存在を主張したと考えることができる。



 ヤコポは建築素描だけでなく、動物や人物の素描を数多く残している。
クリヴェッリの受胎告知に関係すると考えられるモチーフは、数多くの素描にまたがって点々と存在する。そのひとつひとつを見つけ出し、ヤコポとクリヴェッリの間を繋ぐ仮説を立てることは、まるで宝探しにも似た悦びなのだ。
だからこそ、今回はまだまだ多く眠っている宝をそのままにして、読者の方々のわくわくを残しておきたい。
私が在り処を知っている宝もあるし、まだ知らない宝もあるに違いない。


カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(2) -当時の情勢と『受胎告知』製作の経緯-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(3) -イコノロジーに見る宗教性と歴史性-

カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(3) -イコノロジーに見る宗教性と歴史性-

2006-02-15 | 芸術礼賛
 祭りも三日目に突入。勢いづいて連続投稿である。
本日は、当『受胎告知』に散りばめられている数々のモチーフを、それが示す宗教的意味及び世俗的意味について個別に解釈していく。

【宗教的モチーフ;マリアの室内及びその周辺】

■聖書
 マリアが目を落としているのはイザヤ書の中でキリストの誕生を予見している箇所(7章11節)であるとする解釈が一般的である。また、書見台の下段に置かれている閉じた書物は旧約世界の終焉を示すか、あるいは詩篇であるとも考えられるが、開いた書物とセットで描かれているためその示すところに確証はない。

■水差し
 壁側に設置された棚の上にあるフラスコ状の水差しには水が入っており、聖母の無原罪と処女性を暗示する。フランドルの受胎告知図には頻繁に登場するモチーフである。

■消えた蝋燭
 同じくフランドルによく見る特徴で、旧約世界に終止符が打たれ、新たな新約世界の幕開けを示すという意味合いがある。キリストがマリアの胎内に宿ったその瞬間が新約世界の始まりであるという考え方から、蝋燭は消えた瞬間を表すように煤があがっていることが多い。

■3つのクッション
 寝台の上に置かれた3つのクッションは1482年の受胎告知にも描かれており、またロヒール・ファン・デル・ウェイデンの受胎告知にも描かれていることから、単なる数合わせやバランスのためとは断言できない。よって、キリスト教美術において数が示す意味に照らして、神の三位一体を暗示しているという推測も可能である。

■孔雀
 孔雀は不死の象徴とされ、降誕や復活の場面に頻繁に登場する。ときに孔雀の尾羽飾りを百眼に例えて万物を見通す教会の象徴と捉えることもある。


【宗教的モチーフ;屋外】

■林檎と瓢箪(瓜)
 林檎は原罪を示すとともに、救済をも意味する。林檎が単独で受胎告知図の中に描かれた場合は原罪を取り除くという意味を有するが、ここでは林檎は原罪を意味し、脇に描かれた瓢箪が原罪を取り除く解毒剤の意味を持つと解釈される。

■閉ざされた庭
 通路の突き当たりに塀があり、格子窓にその消失点が定められている。閉ざされた庭はマリアの処女性の暗示である。


【世俗的モチーフ】

■Libertas Ecclesiastica
 画面の最前列に位置するこの文字は「教会の下の自由」を意味し、アスコリ市が教皇領に入ったこと、それにより自治を得たことへの積極的な喜びの表明である。文字の間に3つの紋章が描かれているが、左から順にアスコリ司教カファレッリ、教皇インノケンティウス8世、アスコリ市の紋章である。

■アスコリ市守護聖人エミグディウス
 大天使ガブリエルの隣に跪き、アスコリ市の模型を掲げているのが聖エミグディウスである。マリアに受胎を告知する天使に、特別にアスコリ市の繁栄と平和を与えてくれるように守護を依頼していると解釈できる。

■孔雀
 上に述べたように、「教会の不滅」を讃えた宗教的モチーフであることに変わりはない。だがこの作品のもう一つの主題が「アスコリ市が教会から自治を与えられたことを記念す」というものであることから、それが示す「教会」は信仰の対象としての教会ではなく、この地上に領土を求めてナポリ王国などに対抗するよう様々な手段を講じてその圏域を拡大しようとする世俗権力としての「教会」である。その世俗の「教会」の象徴である孔雀は大天使ガブリエルに守護を依頼する聖エミグディウスの方を見下ろしている。その姿はまるで自らの領土に入ったアスコリ市が無事に大天使の加護を得て発展してゆくことができるかという展望を見守っているかのようにも見える。

■バルコニーの上で手紙を読む人物
 バルコニーの上に男性が二人立っており、一人はたった今到着した小勅書を読んでいるところである。これは1482年3月25日(受胎告知の祝日)に、教皇からアスコリ市に対して自治認可の知らせが届いたことを意味する。大天使ガブリエルから聖母マリアへの告知という場面と、市の自治権取得の告知と同画面に描くことにより、この作品のもつ記念画、あるいは歴史画としての側面が強調される。


カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(2) -当時の情勢と『受胎告知』製作の経緯-



カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(2) -当時の情勢と『受胎告知』製作の経緯-

2006-02-14 | 芸術礼賛
 祭り二日目の今日は、当『受胎告知』の製作をアスコリ市から依頼されるにあたって、当時の情勢とクリヴェッリの動向の両面から見てゆく。

【教皇領拡大とアスコリ市の関係】

 15世紀中頃、当時ナポリ王国の北端に位置していたアスコリは僅かに教皇領に入ってはいたものの、その頃のローマ教皇の統治権は特にイタリアの東側に限定されており、後に発展を示すような広域の統合はまだ成されていなかった。そのような状況下においてアスコリは事実上の独立都市であった。

1482年頃、アスコリ市は教皇シクストゥス4世の代に教皇領に入ることとなったが、ナポリ王国との境目にあたるアスコリ市の内部に反教皇勢力が台頭することを恐れてか、シクストゥス4世は「収めるべき年貢と教皇の宗主権を承認したことの見返りにアスコリ市に自治権を与えることを考慮する」との小勅書を発行した。その認可状がアスコリに到着したのが1482年の3月25日、丁度受胎告知の祝日に重なった。アスコリ市の働きかけにより数ヶ月後には自治の認可が正式に下り、市は1483年3月16日に「Libertas Ecclesiastica(=Independence under the Church)」という新体制をサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂に記念することを決定した。

【受胎告知図、二度の依頼】

 上記のような経緯により、同年1483年から受胎告知の祝日はアスコリ市の自治を祝う祭日としても定着し、毎年3月25日にはアヌンツィアータ聖堂に向かう行進が行われるようになった。市はポポロ広場にある市庁舎の教会に受胎告知の主題を描いた新しい祭壇画を置くことによってこの行事を記念することに決定した。そして1483-84年頃にクリヴェッリの弟子ピエトロ・アレマンノに、次いで1486年にはクリヴェッリ本人に祭壇画製作の依頼がなされたのである。

 ここで仮説が立てられる。もし1483-84年当時にクリヴェッリがアスコリに居住していたならば、もしくは交渉可能な距離にいたのであれば、技術も凡庸なクリヴェッリの弟子アレマンノにこのような記録に残る大仕事をわざわざ依頼する必要がない。このことから、1470年頃には既にアスコリを拠点として活動していたクリヴェッリであるが、恐らくこの時期に限って彼はアスコリを離れていたのであろうと推測でき、1484-85年頃に戻ってきた際に、改めて2枚目の受胎告知の製作を依頼されたものであろう。

【クリヴェッリと政治】

 クリヴェッリがアスコリ市の記念である受胎告知製作の依頼を正式に受けたという事実から、当時彼がマルケ地方を代表する画家であったこと、及びアスコリの正式な市民として(少なくとも住民として)見做されていたのではないかと考えられる(※クリヴェッリはアスコリに不動産を取得している)。

また、Rushforth(1900)は、クリヴェッリが当時何らかの政治的な分野に関わっていたのではないかという大胆な推測をしている。1490年以降、アスコリ市では反教皇勢力が支配的になってくるのだが、その時期を読んだかのように1487年にクリヴェッリはフェルモに移っている(※アスコリとフェルモは若干の敵対関係にあった)。そして1490年には後のナポリ王フェルディナンド2世となるカプア王子フェルディナンドから、当時ナポリ王国領であったフランカヴィッラにおいて騎士(ミレス)の称号を受けている(※その後の作品のサインにはミレスの称号も合わせて記すようになる)。
その政治的動向とクリヴェッリの移住時期を切り離して考えることはできないだろうという類推から、Rushforthの推論もあながち極端な解釈とは言い切れない。
その後1490年以降、クリヴェッリは二度とアスコリに戻ることはなかったと考えられている。 

カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-



カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-

2006-02-13 | 芸術礼賛
さて、ここらで大風呂敷を広げよう。
lapisさまのご希望により、カルロ・クリヴェッリ祭りの開催をここに宣言致します。
しかしだ。
画像や図版が容易に手に入るわけではないモノどもを相手にしたお話を詳細にわたってするのには限界がある。というのをよい言い訳にして、アスコリの受胎告知図を巡る解釈とエピソードに絞ることによって、画家と作品の簡単な紹介というところに留めたい。

現時点の予定(思いつき、ともいう)では「画家クリヴェッリの遍歴」「当時の情勢と作品製作の経緯」「イコノロジーの示す宗教性と歴史性」と追ってゆくことにより、当受胎告知図の特異性が明らかになればよしとしたい。


【作品来歴】

『受胎告知』 207×146cm 1486年  ナショナル・ギャラリー,ロンドン
       テンペラ,板(現在はカンヴァスに移行)

1486年 アスコリ・ピチェーノのサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂に置かれる。
1811年 ナポレオン軍により没収、ミラノのブレーラ美術館に移送。
1820年 作品の状態が悪いという理由で他作品との交換、古美術商A.L.de Livryの手に渡る。
1821年 ロンドンの個人収集家Sollyに売却。
1847年 個人収集家Gravesに売却。
1864年 ロンドン・ナショナル・ギャラリーに寄贈。
1881年 支持体のパネル板劣化の為、カンヴァスに張り替えられる。


【画家クリヴェッリの遍歴】

(1)ヴェネツィア期
 クリヴェッリについての最初の記録は、1457年3月7日のヴェネツィアにおける裁判記録(船乗りの妻を誘惑、数ヶ月に渡り同棲した罪)である。この中で彼は既に「画家」と明記され、更に女性を囲うだけの経済力があったことから推測するに、当時20歳以上であったと考えられ、そこから逆算したクリヴェッリの生年は1430-1435年頃とされる。この罪で実刑を受け、その結果クリヴェッリはヴェネツィアを去ったと考えられているが、その後1465年にダルマティア(現クロアチア)のザーらに足跡を残すまでの消息は不明。以下、既往研究による推測。

 クリヴェッリは、ヴェネツィアで同じく画家であった父ヤコポ・クリヴェッリから最初に絵画の基本を学んだと考えられている。その後、ミケーレ・ジャンボーノの弟子であったとする説、ヴェネツィアのヴィヴァリーニ工房の徒弟であったとする説、その他諸説あるが、一般的な説は後者である。ビザンティンの影響を最も強く受けたヴェネツィアであったが、ピサネッロとファブリアーノの来訪により、定型化された様式に変化が生じた。その結果、ルネサンスの流れを汲むベリーニ工房とヴェネツィア風味と優雅なゴシック要素を強く残すヴィヴァリーニ工房の二つが発展した。
1468年から1473年にかけてクリヴェッリが製作した、金色を多用した8点の多翼祭壇画は、少なからずヴィヴァリーニ工房の特色を示しており、当工房で彼が修行時代を送ったという説の根拠とされる部分である。


(2)パドヴァ期(※類推)
 ヴェネツィア風の多翼祭壇画を製作していたのと同時期、1460年に製作された「聖母子(受難の聖母)」は、ヴィヴァリーニ工房の様式と全く異なるだけでなく、スクァルチォーネ工房の徒弟であったジョルジョ・スキアヴォーネがほぼ同年代に製作した「聖母子」と著しく類似している。その他、スキアヴォーネのパドヴァ滞在前後の諸作品との類似及び花綱やトロンプルイユなどパドヴァ地方の特色である様式が彼の作品に見られることなどから、クリヴェッリはヴェネツィアを去ったあとパドヴァのスクァルチォーネ工房に入ったと推測され、この推論はほぼ確実と考えられている。
尚、スキアヴォーネが1461年に既にザーラに居た記録があること及び、同じくスクァルチォーネ工房に居たマンテーニャやコズメ・トゥーラの作品とクリヴェッリのそれとの類似が薄いことなどを根拠として、クリヴェッリが1460年前後の早い段階でスキアヴォーネと共に工房を去りザーラに移住したのではないかという仮説が成り立つ。

(3)フェルモ~アスコリ(マルケ地方)期
 クリヴェッリの年記のある最初の作品は1468年の「マッサ・フェルマーナの多翼祭壇画」であり、フェルモのパトロンから依頼されたものと考えられる。この時期には既にマルケ地方のフェルモに移住していたと推測される。この時期の作風の特徴は、それまでの流れを汲みつつも、遠近法の実験や自然な人体表現などを取り入れて独自の解釈を加えた表現に変化している。フェルモでは合計3点の祭壇画を製作しているが、その結果この地域における評判を高め、マルケ地方を転々として製作を続けた晩年の基盤をこの時期に築く結果となった。
恐らく1468年以前から1470年前後まではフェルモを拠点として活動し、1470年を過ぎて間もなくアスコリ・ピチェーノに活動拠点を移したと考えられ、1486年には今回取り上げた「受胎告知」の製作をアスコリ市から依頼されるに至る。



参考ホームページ Carlo Crivelli
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大學院とわたし。

2006-02-11 | 徒然雑記
 近頃のはなしをしよう。

仕事を始めて数年経ち、仕事の厳しさだけでなく面白さも判ってきた頃になって突然、私の前にある新聞記事が転がった。そこには、既存の学問領域には収まらない何やら新しい分野の大學院が創設されるとあった。名前の知らない大學ではないし、記事からこちら側に伝わる意気込みはかなりのものがあった。その分、専攻の具体的な性質・特質についてはさっぱり伝わってこなかったのも事実であるが。

仕事をやりくりして深夜遅くに受験の準備を密かに行い、会社に内緒でこっそりと試験を受けに行った。観光業界と観光政策の間の溝、観光研究と観光産業の間の溝に疑問を感じるようになっていた頃だ。この溝を埋める必要があると世界が認識するのであれば私がその責を担うことになるであろうと身勝手に思っていた。


 久々に感じた大學の雰囲気は、かつて私の愛した大學からは程遠いものであった。開放感に溢れ、緑に溢れ、強い風が四六時中吹き渡る構内で、教授や来客や他分野の研究者とこれまた開放的な交流を繰り広げた。きらきらした美しいものを既に自らのポケットや部屋に溢れ返らせている私にとってより一層魅力的に映ったのは、人との交流の中で生まれる知の交感だった。互いの手の中にあるきらきらしたものをぶつけ合って、その接触部分で摩擦に煌く新しい色の光がそれぞれに眩しかった。こうして私は躊躇うことなくずかずかと他分野に踏み込んで、偶然ぶつかった人をとっ捕まえては無理矢理の交流に引きずり込むという新しい悦びを覚えた。

 筑波の地は陸の孤島と言われる。最近ようやく駅ができ鉄道が通じたとはいえ、ターミナル付近の半径数十メートルを除けば畑や雑木林が広がる荒涼とした土地。ガラクタのような無粋なフォルムの研究所や宿舎の建物がどかんどかんと容赦なく林立する間を土埃と風が吹き抜ける。大勢の人間が住んでいるはずなのに生命感を感じさせない廃墟感漂う街。建物はそれぞれの色をしているくせに、眺める風景の向こうに色彩がない。ここは薄曇りが似合う灰色の街だ。

ごうごうと吹き抜ける風の中に立つ一本の木のように、脇を通り過ぎる人や舞い上がる落ち葉や、流れる雲や、そんなものを見て二年を過ごした。広大な灰色の真ん中でぽつねんと静止する私の周囲を、それはそれは多種多様なものが通りがかり、それらとの摩擦に伴って発生するとりどりの火花の色ばかりが無性に鮮烈で、その美しさと熾烈さを無邪気に愉しんだ。

 広大な灰色の土地の僅か一点を定点として根を張ることによって大切な何かと行き違わずに済むこと、私の定点が誰かの心の拠点になり得ることを付随的に知ることとなった。物理的な棲みか及び学問領域において、自分の立ち位置が既に明らかであるということの明瞭さは私を身軽にさせるとともに、未来への明瞭な矢印を周囲に認識させた。
その矢印に素直に従って、目論見通りの研究職へと歩を進める。
 
 
 しかし、その矢印の根底に「美」への憧憬が根強く息づいていることを知る人は少ない。
 何年かの後に、矢印の根元でなく矢印の先が私の願う美とぶつかる瞬間を願って。
 

大學とわたし。

2006-02-10 | 徒然雑記
 昔ばなしをしよう。

大學進学に合わせて、私は上京した。
地方の女子高出身の私にとって、大學というものはあらゆる人間とあらゆる知が混沌と渦巻く場所であった。私にとってそれは東京という巨大都市の成す表情と重なるもので、我が大學への情愛を深めることは東京への愛着を深めることに直結していった。

 教育学、社会心理学、生命科学、宇宙科学、西欧古代史、社会学、宗教学等等。塵あくたのように足元や中空にばらまかれている全ての「知らないこと」がそれぞれに異なる質感と煌き、生命力をもってきらきらと魅力的に私を誘惑するものだから、私は狂喜乱舞してそれらのきらきらした欠片を何の脈絡もなくポケットに詰め込んだものだ。子供が卑近な環境の中から自分だけの宝物を拾い集めてクッキーの缶に詰め込むような日々は、それは愉しいものだった。

 それと同じ要領で、私は東京という都市を巡り歩いた。江戸風情が残る下町と、高層ビル群とをそれぞれに愛した。西新宿で空を見上げ、ビルに包まれる感じが最も心地よく味わえるスポットを捜し歩いた。空襲で焼け残った下町を散策し、気に入りの煎餅屋や和菓子屋ができた。季節ごとに最も美しい姿を見せる木をいくつも見付けた。そしてなにより、私が羽を休めることのできる止まり木のような珈琲屋が私を助けた。

 私が最も愛したのは大學のある文京区界隈と、銀座界隈。
それぞれが、昔から今までの東京の累積した姿を見せる。そこには過去への崇敬と、未来への憧憬と、ささやかながら私の居場所とが全てあった。


 私は中学生の頃から志望していた美術史の世界へ進んだ。ときには現物を前に、時には書籍の文字列の向こうにほの見える限りなく美しいものを相手に送る日々は、これまた贅沢なものだった。あるときは美しいものに麻痺するのではという恐怖に怯え、あるときは自らの心や眼の曇りに怯えつつ、ひたすらに美しいものに焦がれて三年を過ごした。木々も花も建築も季節のお菓子も、それぞれに本当の美しさを持っていた。

だけれど、絶対的なものばかりを求めようとする若かりし私は、人の手や人の思いによって紡ぎ出された美しい何かに気付くことができても、自らと他者との間を繋ぐ美しい関係性というものに気付くことができなかった。
きらきらと微笑んで私が手を伸ばすのを待っていてくれるものにばかり目を奪われていたのだから、それは詮無いことでもあって、それでも私は自分のポケットや部屋を埋め尽くすきらきらしたものたちに囲まれて満足していたのだから、多分それでよかったのだ。

 大學は、そして東京は高貴な混沌を示していた。
 過去からの累積と、未来への矢印があって、現在の部分が不完全で薄汚い渦となっていた。その渦の中を、私は笑いながら泥まみれになってはしゃぎ歩いた。そうしてその薄汚くも陳腐とは程遠いところにある蟲惑的な渦の中から、自らの人生を決定づける確固とした「美」を拾い上げた。



「君はどれだけの世界を渡り歩いても、最後には必ず美術に、いや美に戻るんだよ。」
哲学者の教授が私に投げた何気ない一言が真実であることを、私は知っている。




邂逅幾重にも。

2006-02-09 | 徒然雑記
 忙しい合間の時間を縫って、忙しい最中の旧友に逢った。
 だから私は幸せだ。

大学生の頃、見るもの聞くものが大層面白くて堪らなくて、徒党を組むことなく一人で都内各所や思索の世界を放浪していた。だから、大学の頃の友が私には二人しか居ない。その二人が私にとって最も心許せる親友である。

喫茶店に先乗りして報告書に目を落としていた私が気配を感じて顔を上げると、きょろきょろと辺りを見回す彼女が目に入った。首を3回くらい回したときに私と目が合い、ひとときの後に本人と認めてゆっくりと変わらない笑顔を示した。

「ひさしぶり。」
「元気そうね。」

私達の挨拶はきまってこうだ。東京から京都に移り住んだかと思いきや、ガーナに愛情を注ぎ込んで京都とガーナを長いスパンで往復する日々を送っている。関東を拠点にしている私と逢うのは、どちらかが仕事の都合で出張っている時に限られる。だから長い時には2年以上逢えない。今回は短くて11ヶ月ぶりであったが、それでも相手の外見が豹変していないことを願いつつの邂逅となる。
そしていつも、互いの笑顔が変わりのないものであることに安堵する。

今回は、彼女が仕事の都合で東京に出てきていた。前回は、私が仕事で大阪に行っていた。互いのことが大好きなくせに、いつも仕事にかこつけて逢うわけなので共有できる時間は珈琲を挟んだ数時間しかない。限られた時間で空白の間に自分に起こった変化を伝えようと懸命になるので、喉が強いはずの私でも声を涸らす。

「そもそも東京で何しているの?」
「次の仕事は?」
「論文は?」
「いつ行くの?いつ戻るの?」

これらの質問及び回答を相互がしているうちに、時間が足りなくなるのが常だ。
そうしてまた別れて、明日からは次の空白が広がってゆく。

 ・・・真珠の層のようだ。

いつも思う。
変わらない中心の核と、幾重にも重なる彼女の変化と「知らない顔」。
その両方を確認できることが、私の喜び。彼女が私の中にそれを感じ取ることが、私の幸せ。
次にまた逢うときに、時間が足りないくらい沢山話すことがあるように。恥ずかしいさまを見せないように。見えない彼女の背中に見当をつけて、その背中が遠く見えなくなってしまわないように。彼女と再び別れたあとの空白の中を、私はそうやって生きる。


 彼女が生きていることが、私を生かす。
 私が生きていることが、彼女を生かす。
 互いの生と互いの歩みに信頼を寄せて、空白の時を重ねる。



逆バトン。

2006-02-07 | 伝達馬豚(ばとん)
最近、不動産屋巡りでじたばたしており、更新が滞っております。
若干ランナーズ・ハイ状態ではありますが、元気で生きていますのでご安心下さい。
というわけで、大層手抜きで申し訳ないのですが、生存報告を兼ねて読者参加型のバトンをひとつ。コメントがないと淋しいので、皆様ふるってご参加のうえ盛り上げて頂けると幸い。
私の誤ったイメージが先行もしくは錯綜するかと思うと、愉しみでなりませぬ。



①見た目は?(会ったことない方は想像で)

②性格は?(会ったことない方は想像で)

③恋愛対象にはなりますか?(同性なら親友としてでも恋愛対象でもw)

④動物に例えるなら何ですか?

⑤プレゼントを贈るなら何を贈りますか?

⑥一緒に遊ぶなら何をしたいですか?

⑦あだ名をつけてください。

⑧芸能人に例えると誰に似ている?

⑨一言どうぞ。

⑩欲しい人は持っていってくださいな♪