Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

正妙寺(千手千足観音)。

2011-05-23 | 仏欲万歳

 久しぶりの見仏は、両の手が過労による発疹で埋め尽くされた状態でスタートした。
この度の行程は、近江から若狭。再訪箇所が殆どだが、天然の要害とも言える立地ゆえに護られた、ゆったりした時間の流れのある場所にどうしても行きたかった。

 この日、滋賀県一帯には大雨洪水警報が発令されていた。しかしながら、一度も傘を開いたことはない。屋外にいるときには止む、というわたしの「濡れない雨」現象は、年を重ねるごとにめきめきと顕著になってきている。とはいえ、「そもそも降らせない」ことができないという致命的な欠陥付きの能力ではある。


 滋賀県の仏像は、今も少なくない数が無住の寺や近隣住民が守る収蔵庫に収められている。拝観希望は、当日の朝に電話で予約をする。10年前と変わらない拝観スタイルがわたしを安堵させるとともに、いつまでこのシステムが継続していけるかという不安を覚えさせた。
雨の間を縫って訪れた二件目が、この正妙寺である。

 日枝神社のふもとには、数台の軽トラが泊まっていた。猿よけのための空砲を打ち鳴らす中、鳴り物入りで山腹の御堂に到着。「お堂」というにはあまりに小さく、二畳あるかないかだ。案内のおじさんは、脇に抱えていた段ボールを雨で濡れたお堂の入り口に敷き、「お近くでどうぞ」とわたしを誘った。一般家庭の仏壇よりも小さなお厨司の中から現れたは、世にも珍しい千手千足観音。

 長らく秘仏で、たまのご開帳時も顔を見せる程度だったそうで、こうした特異な姿であることは地元でもほとんど知られていなかったらしい。近年、仏像の盗難が各所で頻発するようになり、「誰かが管理をしなければ」ということで、管理係を決めて輪番で管理することになったそうだ。木の材質も不明(※見たところ、壇像系の堅い木には見えない)、全身に金泥が塗られているが、塗りは非常に新しい。近世の作と思われるが、あるいは中世像で表面のみ江戸時代に補われた可能性も議論されており、詳しい調査が待たれる。

 像は、一言で表現するならば、「キッチュ」である。像の功徳をわかりやすく図像化するとマンガチックになるのは時代を問わず世の必然のようだ。40センチ余りの小さな立像で、一般の千手観音と同様に頭上面を持つが、本面は3眼の忿怒相で、口は大きく開いて牙が覗く。表情や姿勢を見るに、観音というよりは明王のような印象が強い。
第一手は錫杖と戟(げき)を取るが、他の手に持物はない。足は台座を踏みしめる2本のほか、連結しているのか、超高速で動いているのか分からない多数の足がムカデのように連なっている。表現の簡略化のためか、動きを表すためか、あるいは足を個々に掘り出すことによる像の耐久力の低下を防ぐ目的か・・・不明であるが、多数の足は板のようにひとつのカタマリとして掘り出されている。まるでカニだ。あるいはゲジだ。馬鹿にしているわけではないが、等身大ならまだしも40センチの小柄の人にそのポーズを取らせるのは確信犯であろう。だからご希望通りに突っ込みをいれたまでだ。


 千本の足で広い世界を駆けまわり、千本の手であまねく衆生を救うためには、ほっと穏やかな顔をしていられるほど余裕がないものと見える。空気をいっぱいに吸い胸を膨らませ、やや紅潮した顔で息を切らせる小さくて必死の観音。

 せわしなき世に、せわしなき衆生を、せわしなく救う。
造作や材質の裏付けは全く持たないわたしであるが、この像容を見るだに、江戸のちゃきちゃきした時代が脳裏に浮かぶ。この像が近世の作ということで認定される日がくれば、わたしは大きく納得する。

 今の世に相応しい仏像の像容はどんなかたちになるか。
仏像のかたちは、世のありようによって、思い思いに変化する。それが観音であればなおのこと。






興福寺国宝館(阿修羅)。

2007-05-25 | 仏欲万歳
 「修羅場」というのは、案外悪いものではない。
なぜなら、その戦いが始まった時点で、既に勝負はついているからだ。
阿修羅王が帝釈天に決して打ち勝つことができず、不条理とも思える敗北を喫したように。


 興福寺の阿修羅像は三面六臂、上半身は裸で、上帛と天衣をかけ、胸飾りと臂釧や腕釧をつけ、裳をまとい、板金剛を履く。この像は、もしかしたら日本で最もファンの多い仏像かもしれない。阿修羅像そのものが決して代表的なモティーフとして今日まで残っているわけでないとしても。更に云うなら、それが阿修羅像としての典型の姿を成していなかったとしてもだ。

 阿修羅という存在そのものからは、大陸における絡み合った信仰の歴史が透けて見える。そして、個人的な正義は往々にして社会に打ち勝つことが不可能であることをまっすぐ我々に突き付ける。それは悪でもなく、不条理でもなく、ただ「そうあった」のだいうことを。


 興福寺の阿修羅像は、憤怒を示す赤にその身を染めつつも、硬直したように足を揃えてまっすぐに立つ。膝にも、ぴんと高く張って合掌する腕にも緩みがない。まるで、自らの表皮を用いて形成した静というバリアを堅固に張って、その内部に渦巻く様々なうねりを封じ込めんとするかのように。この像と対峙したとき、抗えず私は息をつめ、上半身に緊張が走る。この像が身を呈して護ろうとするなにかのために、そのすぐそばに居る私が緩んでいてはいけない。そう感じさせるからだ。

 戦いの末に削ぎ落とされた肉体は、不自然に長い6本の腕をかろうじて支えている。造形的には、奇跡的にバランスの崩れる半歩手前で危うい均衡を保っている。腕があと少しだけ短かったら危機感や切迫感が足りず、あと少しだけ長かったら冗長な弱さ、頼りなさを生み出す。もう少し太かったなら哀しみが足りず、さらに細かったなら、恐らく当代まで残っていなかったろう。それに加えて、もう少しこの腕が「腕らしい」フォルムをしていたなら、そもそも我々がこの像を見たときに最初に感じる異形感、あの独特な「めまい」を感じることは決してない。
見るものをぞくりとさせるぎりぎりの均衡は、その7割以上が腕によって支えられていると云っても過言ではない。

 そして、最も典型から外れているのがその面立ちだ。口をかっと開けて怒りを表す相が多い中で、これはどう見ても憂いを帯びた少年相だ。三面ともども、薄い唇を噛むような風情で引き結び眉間に皺を寄せて、眼差しは彼方を見遣る。

 悔悟。
 苦悩。
 焦燥。
 葛藤。
 克己。
 憧憬。

 そのいずれとも見え、いずれでも不自然な気にさせる表情は、身体や腕の記号的な表現とは対照的に、まるで人間そのもののようにリアリスティックで、我々はそれにまんまと騙される。動的な情動を華奢な身体に封じ込め、長い長い硬直を続ける姿に我々は自己を投影して安堵し、そのヒロイズムに陶酔するのだ。
 たとえ、彼が戦っているものが「自分自身」などという陳腐なものなどではないとしても。


 阿修羅が天界の住人ではないということが、こんなにも人間の視線を、そして感情までもを不躾にするものなのか。
我々が容易に惚れることのできる像の哀しみがここにある。



 
 

 

【仏像 -一木に込めた祈り-】展(*後期)

2006-11-27 | 仏欲万歳
 久しぶりに逢うその女性は、私を覚えていて呼びかけた。
 私は、ふらふらと彼女のほうへ導かれた。


 渡岸寺の彼女(十一面観音)が琵琶湖畔の住処を離れて、こんな遠くまで行脚をしたのは初めてだ。
「ごめんね、こんな田舎まで、ごめんね。」
内陣も、須弥壇もない、がらんとしたむき出しの空間に、強いスポットライトを四方から浴びながら、彼女は居た。取り囲む人々の数は往時と同じかもしれないけれど、往時とはきっと異なるであろう明らかに無遠慮な視線に囲まれて。私は、みたび彼女に逢えた嬉しさを抱きつつ、ごめんね、と呟かざるを得なかった。

 私が仏像を見るとき、常ならばその尊顔を拝し、徐々に視線は首元から腕釧へ、手指へ、そして天衣を伝って腰周りから足元へと視線が落ちてゆく。彼女の場合は、その腰に目が釘付けになり、若干の気恥ずかしさからそれを避けるように顔を俯けてしまうから、足元にはじまり腰へ、指へ、視線が纏わる。そして最後に恐る恐る、その顔を仰ぐのだ。

 薄い衣は、仏師の掌が這った跡。低い位置で腰をたらりと覆う布も、肩甲骨からわき腹の高い位置にあるくびれたカーブを経て腰に巻きつく布も、仏師による独占欲の名残。だからこそこんなにも艶めいた彼女を、我々は物欲しげに、しかし気恥ずかしく、見上げる。
俺のもの。
触らせてなんて、やるものか。
そんな声が聞こえてくる。

 
 彼女は、舞い散った桜の花弁を巻き上げる春のつむじ風のような人だ。
 その印象は、かねてより変わらない。
 その理由が、初めて解けた。


正面から見ると、彼女は右に腰を上げるように捻り、右足の膝を曲げて僅かばかり前に出している。右手はだらりと身体に沿わせて垂らし、左手は宝瓶をそっと掲げる。その姿勢はぴた、と止まって安定し、天衣が身体の後方に向かって舞うことで、風が彼女を包んでいることに気付く。

彼女の左に回ると途端に、彼女はふら、と前方に揺らいで、おっと、と手を差し伸べたくなるくらいに不安定に傾ぐ。身体の均衡を取るために、宝瓶を奉げる手指と肘に力を込め、肘から先をすいっと前方に突き出した瞬間だ。

彼女の背後に回ると、倒れそうに見えた彼女は再びの安定を取り戻す。右に捻られたように見えていた腰は後方にくいと持ち上げられ、前方に傾いでいたと思われた身体はゆうらりとこちらに戻ってくる。水草が揺らめくように、天から一本の糸で吊られたまま、まるで踊るように。

彼女の右に回ると、気紛れもいいところで、彼女は右足の一歩をいざ前に出さんとするまさにその瞬間。一度の瞬きの後にはきっとその踵が地面から離れているに違いない。曲げられた膝は、そのすぐ上の前腿の力によって引き上げられたばかりで、前方へ進もうという意思が、彼女のだらりとした右手を身体のやや後方へと置いてけぼりにする。

 彼女が発する方向のベクトルは、重力と、天へと昇る力と、そして前方へ踏み出さんとする(しかもかなりの俊敏さで)力。それらが絡み合ってらせんを巻き、彼女自身を覆う。そのイメージが、私につむじ風を思い起こさせた。


 彼女の瞬きはきっと何百年も先のことだけれど、彼女の右の踵が浮いたその瞬間を、私は見てみたい。



【過去記事】
渡岸寺(十一面観音)。





【仏像 一木に込められた祈り】展。

2006-10-09 | 仏欲万歳
 東京国立博物館にて、【仏像 一木にこめられた祈り】展が12月3日まで開催されている。

 一木彫の魅惑の仏像たちが、平安初期から鉈(ナタ)彫り、円空仏、木喰(もくじき)まで幅広く展示されている。従来のように所蔵寺社や時代性による切り口ではない「一木彫」というテーマ性と、かなりの予算を投じたであろう展示仏のクオリティとは評価に値するものであり、なおかつここ1年で急激に向上したライティング手法によりって、相当に見応えのあるものとなっている。

個人的には、平安初期~平安後期の仏のなかに、惹かれるものが多数あった。
此度の展示では、展示替え(前期11/5まで、後期11/7より)を挟んで二度訪れる予定でいる。何故なら、後期にはあの麗しき渡岸寺の異国的美女が初めてお堂の深窓から行幸あそばされるからだ。現地で二度に渡りお逢いしている方ではあるが、ここ江戸において再会を果たしたいと切に願うためである。

今回は前期のハイライトである【菩薩半跏像(伝如意輪観音)】についてのみ言及する。



衣および体躯の表現、まだ定型化されないリアリティ溢れる面立ちと像の全体からこれでもかと溢れ出るダイナミズムから察するに、彼は奈良後期~平安初期(8~9世紀)の作と見られる。
この像と初めて体面したとき、私の口から漏れ出た一言は、
「なんて、闊達な。」

その第一印象の要因は、伸びやかに大胆に、きっと随身ではなく自分自身で大雑把に結い上げたのであろうと想像される髻のおおらかさと、若干唐風とも見えるゆったりとした衣がうねるさま。肩から腰にかけて掛かる衣のドレープは無駄なくシャープに、肌の温度をそのまま写し取ったかのような暖かさと艶かしさとを感じさせる。対して、膝まわりを覆う布はどこまでも贅沢にゆったりと波打ち、そのさまはまるで岸壁に寄せる波が縦横に反射して互いに翻弄し合うが如くに交わり、重なり、渦を巻く。
定型のない波のうねりが水の冷たさと厳しさとを感じさせ、それはこの像全体から強く滲み出る男性的で若々しい峻厳さ、伸びやかな知性の表現に繋がる。

体躯そのものは若々しく、特に、鎖骨のあたりから胸を経て腹部に至るまでの肉体表現が秀逸である。衣のうねりに奪われた私の視線が、そのうねりを追って胸元まで辿り着いたとき、思わず息を呑んだ。僅かに覗く胸元の肉体表現、仏であるからこその、生々しくなく理想的で、しかし官能的で力強い胸元。私がこの部位の表現で過去に同等の衝撃を受けたのは、聖林寺の十一面観音と、円成寺の大日如来しかない。しかも、今回の衝撃はそれを上回る。
なだらかな肉に覆われて鎖骨はその影さえ見えないのに、その在り処がわかる。ぱんと張った胸筋は決して攻撃的な誇張ではなく、緑の若い芝に覆われた優しくなだらかな丘陵のようだ。腹部にかけてきゅっと押さえ込められた力は、彼が何らかの思索と決意の中にあるという内に込めた緊張を伝える。

表情については、美形で峻厳であるために我々を遠ざけそうなバリアを感じさせることを否定しない。
しかしながら、憎らしいほど巧みに、それを補う計算し尽くされた所作が我々を骨抜きにするのだ。

写真をよく見て欲しい。重心が僅かに彼の左半身に傾いているのが判るだろうか。
彼は左足を畳んで台座の上に上げている。左腕も同じく畳んで肘と肩とを後方にきゅっと引きつけ、開いた掌を我々に向けている。椅子に座ってこれを読んでいるのであれば、是非同じ姿勢をしてみることをお勧めする。自身の上半身の重心はどうなったであろうか。
次に、右半身を見る。右足は緩く椅子から投げ出しており、腹部に込めた力と同様の僅かな緊張を爪先にまで走らせ、その証拠に親指だけをほんの少しだけすぃと反らせている。右手はたらりとこちらに向けて垂らしているのだが、さて自分が自然にその所作をした場合、右肘は恐らく右足の付け根、股関節の上に置かれたのではないだろうか。彼の場合は違う。腕ではなく、こちらに向けて反らせた手首を右膝の突き出た傾斜に引っ掛け、肘は120度くらいに大きく開かせたままだ。その姿勢は伸びやかであると同時に、静かな呼吸に裏打ちされた筋肉の緊張なくしては存在し得ない。

一見して至極自然な、まるで「休め」の姿勢に見えがちな半跏の姿勢のなかで、こんなにも精緻な、こんなにも優雅な緊張をその身に走らせた像をかつて見たことがあったか。
なんと美しく、なんと厳しく、そして泣きたいほどに切実なる像であることか。

ぐいと押し込められた左半身は彼の思索。
我々に向けて強固な意志をもってに開かれた右半身は、救済のしるし。







小谷寺(如意輪観音)。

2006-01-05 | 仏欲万歳
 時間はまっすぐ進むのか、くるくると巡るのか。
いずれにしても同じ時間は二度と訪れることがない。だからこそ、全ての時間は等価値だ。
しかしながら年が明けて早々の「新年」という期間は、具体的に何日までを指すかどうかはさておき、人の心を神妙な気分にさせ、なんとなく浮かれさせ、ちょっと大それたことを考えついたりなどもする不思議な時間だ。私も例に漏れず、なんとなく嬉しいような、厳しいような気がしている。そんな気分を込めて、新年初の記事は純粋で美しいものへのオマージュとして仏像記事だ。

小谷寺は、最澄大師が奈良時代に開いた山岳仏教の霊場(小谷山6坊)の一つで常勝寺と称していた。長期の荒廃ののち、室町中期に改修。戦国時代に浅井氏とつながりを持つに至って、小谷寺と改名。3代にわたる浅井家の祈願所であったが、浅井家の滅亡とともに焼失し、現在の小谷寺は豊臣秀吉の再建である。
付け加えるなら、現在も若干荒廃気味である。

滋賀県湖東から湖北にかけては貸切タクシーで巡ったので、概ね至って快適だった。しかし「湖北十一面観音巡りコース」というパッケージを提供しているタクシー会社であるにも拘わらず、小谷寺は範疇外のようで、数少ない地元民を捕まえて道を訊きつつなんとか辿り着いた。
小谷寺に着いた頃には5時間の貸切時間も半分を過ぎ、運ちゃんと私は仲良く一緒に拝観するようになっていた。地元の方言を駆使して(無意識だが)運ちゃんが上手に寺の方から面白い話を引き出してくれるのは愉しい。

お目当ての如意輪観音は「一応秘仏」である。
お願いをすれば見せてくれるというフレキシブルなアレだが、時間帯とご機嫌と(寺の方のご機嫌、ひいては仏像のご機嫌)お天気と、それらがうまく噛み合わないと開帳を頑なに拒否されるという代物だ。考えてみれば、指定の期日に合わせてゆけば必ずお逢いできるという期日開帳の方がむしろ楽だし確実な気がする。

お店や籤運はからきしない私だけれども仏像運は物凄くある。十把一絡げでかかってこられても大丈夫なくらいにある。秘仏であることを知らない運ちゃんが前立ち仏をじっくり見てしまっている姿をちらっと見て見ないふりして、おばちゃんに向かって「東京から参りました。差し支えなければ、御厨子を開けていただくことはできますか?」とお願いする。にこりと笑ったおばちゃんは「あんたは運がいい。昨日はここらに雨が降ってね、昨日だったら無理だったよ。明日も崩れるらしいしね。」そう云って、厨子をガタガタと開けて、脚付きの懐中電灯をセットして見易いようにしてくれた。

 この着物の袖に隠して持って逃げることさえ可能に思える小ささの如意輪については、みうらじゅんといとうせいこうの見仏記2において「ロリータフェロモン全開」と評されていることは一部の方々の間では有名な話。
 小像にありがちな頭でっかちの異様なバランスもここにはなく、ブロンズの冷たさもない。ぷっくりと水分をいっぱい含んだ肌質の頬、手首から指先にかけてのゆるいさざ波のような曲線、人間では在り得ない、肘や膝の関節の曲線的で自在な曲がりは、関節を挟んだ両側の肉を接触させることなく緊張した空間をそこに保たせる。顔と同程度の大きさを持つ宝冠はその大きく重い不自然さが、王や女王の威厳ではなく小さな姫の危うくも可愛らしい気品を醸し出す。ぬめるような艶と曲線に導かれて、その身を嘗めるように彷徨う視線の集約点は、小さくきゅっと引き結んだコケティシュな唇と、そこにわざとらしく添えられた二本の思惟の指先。

決して抗えないコケティシュなロリータの魅力もさることながら、それにも増して素晴らしいのは、小像を包む、いや小像の間を埋め尽くす空間確保の美しさだ。
曲げた腕の二の腕と手首の間の空間。軽く俯いた顎と首の間の空間。顎と膝とを2つの頂点として、また曲げた左右の腕の中に包み込まれ、その内側にぐっと掘られるふところの空間。

物質として存在する像を彫る行為が、その周囲の空間を同時に彫り抜く行為に繋がり、像の形状が麗しく無駄のないすっきりしたものであるからこそ、空間が像のなかに入り込む余地が出てくるのだ。白抜きの背景があってはじめて水墨画が完成されるように、空間の彫り抜きとその入り込みによってこの像は完成されている。また、その空間・空気の威力によって、後光にもまさるようなふわりとした蒸気のような暖かさをブロンズに纏わせることにも繋がっている。

お礼を言った帰り際、お姿の写真がどうしても欲しくて2枚の写真を見比べて悩んだ挙句、ひとつに決められなくて2枚とも購入してしまった私に、おばちゃんと運ちゃんが優しい前歯を見せた。

西大寺(愛染明王)。

2005-10-08 | 仏欲万歳
ちょっと最近は鎌倉期の劇画チックな・・もとい、華やかで躍動的な仏像紹介が並んでしまった。気分と機嫌と思いつきで紹介しているので計画性は全くない。ということで言い訳にもなっていないが、ご容赦願いたい。

今日の愛染明王は秘仏さまである。たまに、ほんのたまに見るお姿を目蓋に焼き付けておいて遠くから想いを寄せるしかない深窓のナイスガイ。その真紅のお肌といい、凛々しい眼差しといい、バランスのよい異形っぷりといい、獅子冠といい、そしてこのコンパクトさ。ますますもって私好みである。

わずか一尺ばかり(31.8cm)の小像だが、愛染堂の秘仏本尊として大切に祀られているためか、衣紋の截金や深紅の彩色が見るも鮮やかに残っている。保存状態の良好さを更にランク付けするならば、スーパーエクセレント、とでも云うべきか。

過年、像内から木造六角幢形の容器に入った金銀製舎利容器や瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)、造立願文(ぞうりゅうがんもん)などが発見され、それらによるとこの像は宝治元年(1247)仏法興隆の念持仏として仏師善円が造ったものであることが明らかにされた。

この愛染明王は、寺伝によると弘安四年(1281)の元寇の役(13世紀後半の蒙古襲来の事変)に際して叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊であり、その祈願の最終日の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたという。素晴らしい、神風の先頭を愛染の鏑矢がひょうと空を切って飛んでゆくさまが目に浮かぶようだ。伝承ひとつにも、1尺の小像には収まりきらないスケールの大きさを感じる。国宝ではないものの、これまでこんなにも大切に、しかも生きたまま守られてきた由も頷ける。

 風ではなく、体内のパワーによって逆立つ髪。髪の隙間から覗く、前頭部の獅子冠がその髪の乱れをきゅっと引き締める。一部の長い髪は対蹠的にはらはらと波をうって持物を握る左右の腕にふぅわりと垂れかかっている。衣紋の波は深くもなく浅くもなく、一定のリズムをもってシンプルにかつ軽やかに体躯を覆っている。過剰なドレープやトリッキーな布のうねりを抑えているために、持物やその髪、表情に目がゆくようになっている。成る程、デコラティブな衣装の中にも引き算は大切だ。

憤怒の表情も美しい肩幅も、真紅に色付いた体躯も、計算外であろうが部分的に護摩の煙によって褐色になっている部分も、非常に男性的だ。しかし肘を開かずに慎ましく締めた姿勢や手首の華奢さ、曲線が優雅な手指の繊細さと手首の柔らかさは非常に貴族的で女性的だ。
単に中性的なのではなく、男性性と女性性の、言い換えれば武士道と貴族文化の絶妙なるミックスがこの像の云いようのない魅力になっていると私は勝手に思っている。

男性でもあり、女性でもあり、弓を構えた憤怒の明王。
あの真紅の体躯にちょっとでも触れたら、火傷をしそうだ。

興福寺(龍燈鬼・天燈鬼)。

2005-09-20 | 仏欲万歳
 興福寺の仏像紹介第一号は、鬼になった。仏像界において、おおっぴらに笑いが許されているエリアが邪鬼の持ち分だと思っているが、彼らの中で一際出世したのが灯篭を掲げ持つという仕事を与えられている天燈鬼と龍燈鬼、そして役行者のお供として仕える前鬼・後鬼であろう。

 彼らはもと西金堂安置。恐らく誰かしらの脇侍として存在し、大きな燈篭を天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作とされる。龍燈鬼は運慶の三男である康弁作の国宝で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。作例は多くない。

 天燈鬼は阿形で口を大きく開け、セリフを当てるなら「アンギャー」という感じ。手で支える「燈籠」の重さに堪えているようにも見える。彩色は朱が主となっているが、その殆どは剥げ落ちて木目が現れている。目は3つあり、衣服のひらひらとした裳裾の風情がえいっと力を込めて風や重さに耐えているさまをよく表している。
体重を支える左足の膝は伸ばしきっておらず微妙な曲げ加減で力とバランスを蓄え、遊び足の右足のしゅっと力の伸びるベクトルと、それと殆ど平行に拳を握って伸ばされる右手との調和をよく保っている。有り得ない頭の大きさをはじめ、灯篭を抱えた左半身が縮こまるのに反してばさっとマントを開くように開け広げられた右半身。その極端な身体バランスが寸分も狂わずに美しく纏まっているのは、小像といえども相当な技量のなせる技と感心させられることこの上ない。

 龍燈鬼は燈籠が気になるのだろうか、角の上でバランスを取っている頭上の燈籠をちょっとばかり情けない形相で睨んでいる。セリフはさしずめ「ム~~」とでも当てておこう。眉毛は銅板、眼と牙は水晶、龍の背鰭は皮製で彩色は青が基調。所謂「青鬼」だ。
こちらは天燈鬼とは対蹠的に、真っ直ぐ上方への直線軸に貫かれている。頭上の燈篭を見上げる視線に、内なる力のバランスを保とうとするかのように右手首をぎゅっと掴む大ぶりな左手。そして等しく肩幅に広げられて大地を固める足。衣も天燈鬼とは異なり、風に舞うことすらないだろうふんどしをきゅっと締めているのだが、その締めかたがどうにも可愛らしく見えてしまうのは何故だろう。まぁ、ふんどしはさておき、肩の高さにも左右のブレがなく、美しいほどぴっちりと真っ直ぐに天に向けて燈篭を捧げる一個の生きた直線、とでも表現できようか。


 上記におおまかな像容を示したつもりではいるのだが、天燈鬼は「動」、龍燈鬼は「静」を示していると一般では言われている。阿吽の対比から見ても、そのような意図を持って制作されたと見てまず間違いはなかろうと思う。しかし個人的には龍燈鬼のほうにより多くの動きと思惑、セリフを感じ取ることができる気がしていて、好きだ。「飼いたい仏像ナンバーワン」を挙げるとしたら、他の追随を許さずぶっちぎりの一位になること間違いなし、である。
 
 そういえば、「鬼のパンツはいいパンツ」という唄があったような気がするが、どの鬼が履いているものであろうか。龍燈鬼のふんどしもなかなかなものだと思うのだが。

高野山霊宝館(孔雀明王)

2005-08-25 | 仏欲万歳
 仏像記事も久々となる。
昨月の感動を反芻しながら、快慶作の孔雀明王像をフィーチャー。

孔雀明王は、両翼を広げ尾を光背のように広げた孔雀の背に乗る姿の明王で、今まで仏画では何度かお逢いしたことがあるが、仏像では今回が初めてだ。
これまでに観た仏画と同様、不動明王や愛染明王のように怒りをこめた忿怒相の表情ではなく慈悲相といれれる穏やかな面相で、他の明王とは個性を異にする。

現在の日本ではあまり一般に信仰されてはいないが、明王の中でも最も早くインドで成立していたのがこの孔雀明王らしい。日本でも既に奈良時代には祀られており、平安時代に孔雀明王信仰は最も栄え、その後は衰退していったようで、鎌倉期以降の仏画及び仏像の良品はなかなかないのはどうもそのためか。

孔雀明王は、一見豪華絢爛な華族さまのようにお上品で華麗な姿をした孔雀が、その反面で人間の最も嫌う猛毒をもった蛇を食べ、その害から守ってくれるところから信仰を集めた。一切諸毒を除去する能力をもつ功徳から、息災や祈雨などの本尊として祀られてきたそうだが、息災は判るが雨乞いに発展したのはどうも解釈的に都合良すぎはしまいか、とも思う。ま、祈祷が大成功している歴史があるのでよいか。

仏像マニアの間では、まるでアイドルを語るような感じで
「運慶派?快慶派?」 という質問が必ずどこかの場面で交わされる。
因みに私は快慶派である。決して誇張しすぎない、しかしその掘り出された木の表面の細工より更に内部へと凍って篭ってゆくようなリアリズムと、知性に満ち満ちたその顔立ちが私にとってガツンとくる快慶の魅力。

この孔雀明王は快慶の初期~中期頃の作風で、薄い皮膚に針を入れたらパンとはぜそうに張った若い肌質。孔雀の上に座っているため動きは一切ないはずなのに、写真館のカメラを前にポーズを取り続けるあの中途半端な時間の中で筋肉が異常緊張するのと同じように、静謐なポーズの中に、内に込めた緊張がみなぎる。
インドでは女性名詞で呼ばれるように、女性の性質を持つ孔雀明王は明王部の中では穏やかな顔と言われるが、全体的に菩薩部を思わせる面立ちの中でその目は異質に鋭く、眉は快慶作の他の菩薩と比較すると若干ストレート気味で吊っており、凛々しさを増す。快慶にしては若干長めと感じられる鼻筋は男性的な直線が際立ち、唇は強く引き結んでおり口角が僅かに下げられ、歯まで食いしばっていてもおかしくない意志の力強さを示している。

孔雀明王の概説には反するような男性的な力強さと凛々しさを、その静的かつ女性的に規定されている様式の縛りの中において見事に押し出している傑作だ。この像だけを見れば孔雀明王の起源が女性仏であることなぞ伝わらない。快慶の解釈による凛々しい明王は恐らく20代後半、若さのパワーの中にも冷静さと忍耐を兼ね備えることができる早熟な大人の男性のすがた。

金色ベースの孔雀もまた明王の分身かと思えるほどに凛々しい目つきをしている。頭部から首にかけての細かい羽毛のうろこ状表現、光背の見事な尾羽は孔雀界でも余程の美男と称されるほどの完璧さ。

 快慶は、仏像を動物に乗せるのが本当に上手い。
 乗られている動物にも個性と煌びやかさと性格を、ひいては命を与えることがこんなにも上手い。


 ※西洋宗教画のアイコンとしての孔雀については次回もちこし。


【参考URL】
国宝 弘法大師空海展
東京国立博物館孔雀明王像(国宝)

法華寺(十一面観音)

2005-06-22 | 仏欲万歳
 久方振りのシリーズが帰ってきました。
来月、奈良に調査にゆく予定を調整中の為、奈良への里心がついているためと、lapisさんの記事で『幻術の塔』にまんまとかどわかされてしまったためだ。『幻術の塔』がある海竜王寺は法華寺のすぐお隣のような場所にあって、もとは平城宮の鬼門(北東の角)を守っていたために別名「隅寺(すみでら)」と呼ばれているところ。余談はいいとして、そういう位置関係にある為に大抵ここを訪れるときは2寺セットとなることが多く、記憶の中では同じ引き出しに収納されているようだ。片方を引っ張り出すとつられてもう一方も出てくる塩梅だ。

手始めに、十一観音の頭上面の意味は概ね次の通り。

本面     ----- 菩薩本来の慈悲の相
頂上仏面   ----- 究極の理想としての悟りの相
化仏(阿弥陀) ----- 十一面観音が阿弥陀仏の慈悲の心を実践する菩薩であることを示す
菩薩面    ----- 善い衆生を見て、慈悲の心をもって楽を施す(本面と合わせ3面)
瞋怒面    ----- 悪い衆生を見て、怒りをもって仏道に入らせる(3面)
牙上出面   ----- 清らかな行いの者を見て、讃嘆して仏道を勧める(3面)
大笑面    ----- 善悪雑穢の者を見て、悪を改め、仏道に導く

(※化仏は菩薩であることを示す菩薩全般の特徴で、十一面固有のものではない)

 「十一」という数については、あらゆる方向に顔を向けていると言う理念を示す。菩薩が見つめる全方位とは、中心一つ・北・北東・東・南東・南・南西・西・北西の八方向に加え、上方及び下方の合計十一方向。

 教科書的な説明はこの辺で仕舞うことにする。書いていてもさして面白くない。
さて、法華寺の十一面観音はその色もあでやかな秘仏さまで、つい先頃の6月上旬に特別開扉が行われたばかり。こういう秘仏の開扉は観光客を当て込んで秋に集中的に行われることが多いが、蓮の花咲くこの季節にこの開かずの扉を開けることはまるで不文律であるかのように、似合う。
何故なら、画像で一目瞭然だが、この菩薩の光背は異様な姿の蓮光背であるからだ。水分が失われかけているのか、あるいは菩薩の身体から放たれる光と熱が強いためか、くるりんと丸くなってしまっている葉が殆どで、そのひとつひとつの曲線は見事に艶かしく、目を細めたら風もないお堂の中でゆらゆらとそれぞれの茎が異なるリズムを持って揺れているに違いない。

 今までに紹介した仏像と明らかに異なる点は、檀像風の作りであること。檀像とは、元来白檀のような香木を用いた一木造りの彫像であり、香りを消滅させないために素地のまま仕上げているのが特徴であるが、日本では香木の入手が容易でないことから、桜や檜、カヤの木など木目の美しい素材がよく利用される。
法華寺のそれも生地の美しさが全面に押し出され、彩色は頭髪・眉・黒目・髭・唇程度。殊に唇の朱は鮮やかなもので、他の肌目に色彩がないからこそ、見る者の視線は嫌が応でも吸い込まれるように唇に集約される。弘仁・貞観時代の特徴である躍動感のある衣文のドレープの下には、ゴーギャンが描くような豊満で褐色の肌を持つ女性の肉体が美しい木目と艶そのもので表現される。

 和風とも異国風とも取り難いこの菩薩の持つ挑発的な要素はそこだけに留まらない。これまた植物的に長くひゅるっとした右手の指先で天衣を摘み上げる指先の反らし具合。宝瓶を持つ、というよりそっと摘み上げただけの左手の指先同様、非日常的な仕草この上ない。写真を見ながら、是非自分の手で真似てみて貰いたい。しんどいほどの仕草ではないが、自然にしていて生まれる角度でもあるまい。不自然な緊張感が伴うからこその美なのである。

 更に加えるなら、蓮台からはみ出した遊足(体重を乗せていない側の足)の右足の親指も上に反らしている。ちょっと踏み出しすぎた片足が蓮華からはみ出していること自体が示す若干のお行儀悪さがこれまた小悪魔的で、その親指が反っているところに、今まさにこの足が動いていました、という意識の集中を感じさせるではないか。

 犯罪的な程に計算し尽された菩薩の挑発。
 乗る乗らないはこちらの自由。
 ・・乗らないで済まされるものであるのならね。

 

空印寺の人魚

2005-04-12 | 仏欲万歳
「海のある奈良」と呼ばれる福井県小浜市はなぜだか大好きな街である。
神仏習合の寺が今でも残る、往時は京のみやこに最も近い港として栄えた面影がまるで蜃気楼のように薄っすらと透けて見える、わびた風情のあるいいところだ。余談だが、日本にはじめて象が上陸したのはここ小浜であるらしく、小学校の前に何故だか表札のように立っている小象の像(笑うところではない)の由来を聞いて、そのことを知った。

ここの浜は砂浜ではないので、見るだけの浜である。入り組んだ入り江と島を見渡す海沿いの歩道には、西洋ばりの美しい人魚の像がある。象と人魚、陸のものと海のもの?決して相性がいいとは思えない小京都の浜を恋うるような姿勢で、俯き加減で海に思いを残す人魚の像。

 ・・と思っていたら。

海に思いを馳せる人魚が主役なのではなくて、その人魚の肉を食べた八百比丘尼にまつわる地ということだった。比丘尼はこの地に流れ着いた時には既に婆さんだったということなので、比丘尼をフィーチャーすると絵にならないという陳腐な判断から、比丘尼の記念?に人魚を建てたとしか思えない。捕まって捌かれて食われた人魚に存在の上で負けてしまった比丘尼。
繰り返すが、あまりに陳腐な発想のために脇に押された比丘尼の肩を持って、比丘尼伝説を以下に紹介する。

 若狭の八百比丘尼が長寿をえた話は有名で、福井県小浜市の空印寺(くいんじ)の洞窟に住み、容貌は美しく、15、6歳に見えたとされる。若さの保持は禁断の霊肉である人魚の肉あるいは九穴の貝(アワビ)を食べたためという。
隠岐島には八百比丘尼杉があり、大宮市の慈眼寺仁王門のかたわらの巨大なエノキは若狭の八百比丘尼が植えたという。全国を行脚し、貧しい人を助け、椿の種をまき花を咲かせた後、若狭に戻り亡くなったという洞穴の入口には当時を忍ぶ椿の花が今も咲き誇り、健康長寿を願う人々のお参りが絶えない。

 
八百比丘尼伝説は全国各地に点在しており、千葉県生まれという説もある。

その村の長者がある日、近隣の百姓六人を屋敷に招き、食事をすることとなった。食事を待ちきれなくなった最も食いしん坊の男が厨房をこっそり覗いたところ、人魚の肉を調理しているさまを見て、驚き慌てて他の者たちにそれを告げた。一同は気味悪がったが、長者の招待ということもあって食事を断るわけにもゆかない。食事を受け取って早々に退散し、めいめいは道中でその食事を始末することとした。

ところが六人のうち一人だけ耳の遠い男がおり、そのなりゆきを全く聞いていなかった。
事情を知らないその男は、長者の家で出された食事ををそっくり家に持って帰り、男は自分の愛娘にそのご馳走を食べさせた。
その娘はそれから殆ど年を取ることがなく、いつまでも若く美しいままだった。人々はそんな娘を不気味がり、娘は殆どその土地を追われるように遠く若狭国で尼となったと云われる。

 日本においても、猿と魚を合体した人魚の剥製が流行して多く作られた時代があった。
人魚という響き、女性に限定されたその美しい姿は洋の東西を問わず人々のイマジネーションをかきたてる。

しかしその美しさは結果として人間に幸いをもたらすことはない。
完璧な美しさというものに対しては人間の入る余地はないのであろう。言い換えれば、人間は決して完璧に美しいものにはなり得ず、人間の手から完璧に美しいものは作り出せないということか。
美は空間と時間の両方を支配するものであるのだろうから。



仏作って魂入れず。

2005-03-18 | 仏欲万歳
 今日は人形から仏像の話。そして仏像フィギュア

 FIGURE:
①人影、人の姿
②(他人の目から見た)人物、秀でた人物、名士
③人や動物の像、画像
④象徴、典型

「ひとがた」に関連するFIGUREの意味は上に挙げたとおり。
アニメや小説に登場する二次元キャラクターを、あるいは歴史上の人物や妖怪をフィギュアとして生み出す際、それが確実に「それ」であることを示すある特徴のあるポーズや服装・色・持物を記号として付与する。それは④の「象徴化・典型化」の作業である。それはイエスの十二使途が各々の殉教の道具とともに描かれるのと同じ、伝統的な手法だ。その④のフィルターを掛けたうえで③「造形化」の作業をすると、「何かの」フィギュアが生まれる。

 つまり、フィギュアは常に「何か具体的なそれ」を示すひとがた、という二次的な産物でしか有り得ず、人形がそれ自体「人形」として一義的に自立できているのとは明らかに異なる不安定さ、心細さがそこにある。その小さく不安定なフィギュアを飾り、眺めては手に取ることのできる所有感と、ゴマンとある大量生産フィギュアを見た人々が全く同じ「具体的なそれ」に思いを馳せることができる共有感。一見相反するそのふたつの感情が、今の時代に人々が人形でなくフィギュアにより近親感を求める理由なのではないか。

 比較すると、人形あそびや人形を愛でることは自分を主体とした一義的な世界をそこに築き上げる行為と読み替えられる。既存の名前はなく、自分にとっての「○○ちゃん」に仕立て、育ててゆくことができる。そこに他人の介在する余地はなく、自分と○○ちゃんのみが共有しうる閉ざされた空間がそこにある。人形を愛でることは愛玩的主観的価値の開花であって、近代の人形全盛期は19~20世紀にかけてであった。丁度、哲学者アロイス・リーグルが文化財の見方の20世紀的新価値観として「主観的な価値」を挙げた時代が19世紀末~20世紀初頭であるのも興味深い。

 さて、仏像に戻る。
仏像は人形の最も原初的な姿であり、なおかつフィギュアである。それは本来ならば形のないなにか神々しいものの「象徴」であり、彼らの特性を示すための様式的な決まりや持物の定型が既にある。同じ特徴を示しているものは同じ名で呼ばれ、それに向かって並んで手を合わせる人々の脳裏には今生や来世に向けての何か共通の思いがある。仏像は(ギリシャ神話の彫刻も同様)それ自体でフィギュアなのだ。

だけれども今の時代、仏教思想はこれまでにない程に薄らぎ、仏像は文化財化している。
そして仏像は本来の役割を失ってゆき、今では「恰好いい」「古臭い」「古くて新しい」アイコンと化した。そして、仏像というフィギュアは往時のご家庭用仏像よりも更にミニチュア化され、食玩となって我々の机上を飾っているのである。
小さな小さな曼荼羅を透かし見るのは信仰でなく極めて主観的なまなざし。

仏像というフィギュアをこよなく愛するけれど、自分にしか見えない妖怪を人形としてひっそりと育ててゆくのも悪くない、と思う。

五百羅漢寺(羅漢・釈迦説法図)

2005-01-17 | 仏欲万歳
 建造物のオーセンティシティーの話をしていたとき、友人にこんなことを言われた。
「教会とかはデザイナーズ建築とか前衛的なものがあったりするけど、お寺ってそういうの見かけないよね。」

確かにそうかもしれない。
瓦葺きであったり、和様や唐様の建築でなかったとしても、仏教の教義や歴史が多少なりとも薄らぐわけではないのに、新しい寺であってもガラスばりやマンションタイプ、コルビュジェ風という訳にはいかないらしい。イメージというのは偉大な力を持つものだ。

 その話の最中に思い出したのが、この五百羅漢寺
写真にあるように、若干胡散臭い。
寺が近代建築だと、どうして胡散臭い印象を拭いきれないのだろう。正当性をアピールするはずの紋所が余計にビミョウな感じを増してしまっているところがなんとも哀しい。

寺縁起については、直リンクをご参照願うとして、都内近郊にお住まいの方には是非とも拝観を、と強く強くお勧めしたい寺であることを強調しておきたい。
現在300体余り残っている羅漢は、全て松雲というひとりの仏師によって彫られたものである。元々500人を個性豊かに彫り分けないといけないのだから、その苦労は推して知るべしである。

 仏師とはいえ、人物を表現する際には個人の癖を脱し得ない。登場人物の多い漫画の描き分けが何がなんだか判らなくなっているのと同じだ。しかも500人である。禿もいれば河童のような頭頂部禿、長髪に天然パーマ、果ては眉毛までカールされている南蛮人まで、もうできることは何でもやりました、という感じだ。
加えて、これは松雲の意向に関係なく、各々の羅漢の前にはプレートがあり、訓示のような標語のようなものが書いてある。それぞれの羅漢がPRする政治的キャッチコピーのようなものかもしれない。後列の方々については照明が弱くて読みきれないにせよ、顔と名前・・ではないキャッチが一致する人もいればつい笑ってしまいたくなる人まで、なかなかに見飽きない。

 羅漢堂で堪能した後は、本堂にあがる。
ここにも釈迦如来を中心として羅漢が左右にずらりと居並び、配置はコンサートホールかオペラ座のようなものだ。中央の釈迦が眷属を従えて説法をしているさまを、左右中二階の羅漢群が控えて聞き入っている図、ということらしい。釈迦が河童ヘアだったり、普賢がオールバックだったりしてやはりこちらもサイケだ。
ステージ(?)脇にテープレコーダーがあった。「ご自由に」ということなので、再生する。
ついでなので、ホットカーペットの電源も入れてみる。

 たまげた。
テープからは、釈迦が一人称で喋っている。
ここでの拝観者はどうやら羅漢の列の最後尾に連ねられる、という考え方の所以か。
他人行儀にじろじろ見ている訳にもゆかず、かといって羅漢と同列に扱われるのも気が引けるので、釈迦に喋らせるまま退席した。

 売店には、「釈迦の説法」テープが売っていた。
テープは汎用性がないので、悩んで止めた。
 ・・CDだったら買っていたかもしれない。

東大寺(金剛力士[仁王]像)vol.2

2004-12-14 | 仏欲万歳
 さて、仁王像の役割と通例が判ったところで、今日は東大寺南大門に住まう彼らの相貌、印象に移る。本来、この主観的部分を徒然雑記の肝としているので、本編が二部に分かれてしまうことをどうぞご容赦願いたい。

 東大寺の仁王の突出する点は、とにかくその大きさ。それを収める箱である南大門が一層大きいわけで、門を通過する我々をほぼ真上の至近距離から見下ろす迫力といったらどうだ。
造形という点では、興福寺のそれ(写真)のほうが優れていると思うのだが、それは等身より少し小柄なサイズであるからできること。それを巨大に拡大すれば東大寺の仁王が持つパワーを有するかといえばそう簡単ではない。

そのサイズと我々が見上げる距離、角度を計算して人体のパースが意図的に歪められているのである。要するに、頭でっかちで胴長短足なのである。ほぼ角度のない、真下に近いところから見上げる場合、正しいバランスで作ると8m先の頭部は小さくなる。上半身も遠く、真横から見るよりは華奢に見えるはずだ。しかしそれではどどんとした迫力が失われてしまう。ゆえに頭は大きく、顔のパーツも派手に大きくなる。胴の長さに至っては、作成中にも試行錯誤を経たらしく、へその位置が最初に予定したよりも下のほうに(胴がより長くなるように)修正されているのである。見上げられることで威厳を増し、片手をかざし、あるいはくわっと口をあけて見得を切り続ける最強の守護神は、大胆かつ繊細な計算し尽されたバランスの上に今も立ち続けている。

 仁王像が現存している寺においては、中門や南大門とともに本来の役割を担うかたちで居ることが多く、その姿はかなり当初のあり方に近いと考えられる。しかしそれから数百年を経ている現在では、廃仏毀釈や仏堂の消失、あるいは仏像の寺から寺への移動(流浪?)などによって、仏像たちが本来のお堂に居なかったり、本来の組み合わせと異なった状態で配置されていることも多くある。(阿弥陀三尊が揃っていてもサイズのバランスがおかしかったり、時には脇侍の組み合わせが違っていたり)。また、仏像が「美術品」ではなかった時代と現在とでは、照明の種類や当て方が異なっているであろうし、より見よい状態にする為にかつてよりも低い位置に置かれていることもあるだろう。
 
 少しばかり知識のある人が見た場合には、バランスがおかしい=本来の組み合わせではない、人体のパースが不自然=本来はもっと高い位置にあったはず、等等々、現在の「場」と仏像本体との関係性や拝観者との位置関係などから些細な情報を得、そこからその仏像が昔々に置かれていたであろう当時の「場」を推測することもある程度は可能だ。お堂にあるからといってそこが彼らに本来意図された場であるとは限らず、そのことはあまり重要視されているとも思えない。

 そこで、それぞれの仏像が本来持っていた空間構成、場というものが正しくはどのようなものであったか、それがどれだけ現在に不完全な形で残っているにせよ、それを想像する手掛かりのようなものを見る人々に提供することができれば望ましいのに、と思ったりする。それはミニチュアであれ、ジオラマであれ、デジタル3Dのようなものでも構わない。現在は失われ、二度と戻らない彼らの場を追体験するひとつの仕組みとして、仏像単体の細部や建造物の構造などの詳細に終始する模型ではなく、また平城宮のような実物大の復元でもない、仮想空間体験&情報提供システムがあったら素敵だろうなぁ。


東大寺(金剛力士[仁王]像)

2004-12-12 | 仏欲万歳
 日本で最も有名な仏像ランキングベストテンには恐らく食い込むであろうかと想像される東大寺の仁王像を今日まで放っておいてしまった。
日本史の教科書もしくは資料集、そして修学旅行などで実物もしくは写真を見たことがない人というのは殆ど居ないのではないかな。記憶を掘り返すことができるだろうか。

以下にそのありようを述べるので、なんとか映像を脳裏に再構成して頂きたい。
東大寺の参道を歩いて最初に迎えてくれる、ちょっと色はげの目立つ巨大な門が南大門。この中に仁王のおふたりがおいでになる。門の石段を登り、さぁ敷居を跨がんとするときに、背中に突き刺さる視線を感じる。呼ばれるように振り返ると向かって右に吽形が、左に阿形がどどんとこちらを睨み付けているという位置関係だ。

さて、ここで日本で最も有名である東大寺の仁王が、通例ではなく例外的な配置をしていることに触れておく。
1)通常は、参道を歩いてくる参詣者と目が合うように、二体の仁王は正面向きである
2)通常は、右が阿形、左が吽形である
3)通常は、こんなにどでかくない

東大寺の場合は、1)対面(向かい合わせ)配置、2)阿吽左右逆 3)とにかくでかい(8m以上)。
他にも対面配置や阿吽の左右逆の例が皆無である訳ではないが、東大寺よりも古い作例は現時点では見られていない。

仁王の役割を考えれば、通常正面に向いて配置されている意味は明らかである。仁王は所謂社寺のガードマン。邪な心を打ち砕く為に視線で参詣者の心を脅し、浄化する役目を負っている。んればこそ、参詣道を睨みつけ、歩いてくる参詣者をぎろりとひと睨みしている訳なのだ。通常、左右の仁王の目は参詣道の中央に寄っており、二体の視線が交差する位置が必ず存在する。その位置こそ、参詣者が視線を感じてふっと顔を上げてしまう場所なのである。

東大寺の仁王が対面配置である明らかな理由は残念ながら照明されていないが、恐らく「でかすぎたから」ではないかと推測される。もし正面向きにしたら、どうなるか。
正面向きにするには、仁王が位置する門の、仁王の前面の壁をとっぱらってしまわないと、参詣者に仁王を見せることができない。なれば、あの巨大な南大門の左右の壁を、それぞれ高さ9メートル、幅4~5メートルもぶち抜くことができるだろうか。そして、それだけ大きく開いてしまう空間に吹き込む雨風から仁王を守る為の屋根を深く下ろしてくることは可能だろうか。
・・いかにも、強度と耐久性に不安がつきまとう。
恐らくそれ故であろう、仁王は対面配置となって、参詣者が門を今まさに潜らんとする敷居のふもとで視線が交差するのである。背中に突き刺さるように厳しく見送られる圧迫感と威圧感は対面配置ならではのもの。

 鹿がたくさん居てちょっとばかり邪魔臭いけれど、次に訪れるときにはきっと、左右の仁王の視線がぶつかる一点で、双方の仁王に挨拶してきて頂きたい。
因みに、私は右の吽形が好みだ。

(※仁王のディティールについては、次号に持ち越すことにする。)

蒐集癖万歳。

2004-11-24 | 仏欲万歳
 そろそろ、私のもうひとつの性癖を告白してみようかなと思う。
それは、多かれ少なかれ大勢の方が持っている(男性により多く見受けられる)蒐集癖というやつだ。私の場合、それを最も顕著に、しかも真面目に表してくれているのが、この御朱印帖というやつである。

今、私の手元にある最新版は、四冊目になる。朱印集めを始めたのは二十歳か二十一の頃だと記憶する。
すぐに手に入ってしまうようなものを集める癖は私にはない。どうしても手に入れたくて、でも手に入らないものに対してうじうじと逡巡する心を満たしてくれるのがこの朱印であった。かねての読者さまは既にご存知の通り、仏像フェティッシュである私であるから、本当は仏像が欲しい。毎日眺めていたい。触れてみたい。土産物屋に並んでいる陳腐なレプリカでは私の欲求の一端すらも満たしてはくれない。

朱印には、拝観した日付とご本尊の名前は墨文字で、その上に朱印がどんと押される。
私にとってのそれは、仏像の写真よりも仏像そのものを表してくれるものなのである。
一日に何箇所もの寺を廻るハイペース拝観の時には、朱印の順番が記憶の補助手段にもなるし、字の上手い下手や墨の濃さなどの個性もその記憶をより深く確かなものとする。折々に開いてみたときにふっと香る、何年も前の墨の香りがまたいい。
田舎の寺の場合は、墨と硯を管理する場所すらなく、墨文字の判が押されることがある。初めて目にした折には愕然としたものだが、今となってはそれも土地柄、微笑ましい。

 蒐集とは、自分の周りに個人的な小宇宙を築く試みである。

とベンヤミンは云う。
全く同じものではないが確実に同種であるものを多量に並べることによって、それらひとつずつが持つ意味を超えたひとつの大きな意味がふわりと浮かび上がるというのだ。それをここでは小宇宙と呼ぶ。

私の場合。
仏像は所有できない。ひとつひとつの仏像には縁起があり、仏像各々が意味する世界があり、自分が訪れたという記憶があり、感慨や感想がそれぞれにつきまとう。それらはそれらとしてなお生きているのだけれど、それらを超えた仏像界曼荼羅がこの朱印帖4冊をずらりと広げ並べた瞬間にすっくと立ち上がるとでも云えばよいだろうか。

そこに言葉は要らず、仏像それぞれの説明も要らず、ただ自分を取り囲むように屹立する、仏像群の幻影に酔えばいい。写真に拠らず自らの記憶に拠るからこそ生き生きと描ける幻影が時と場所を越えて複数同時にたち現れるなんてことは、実際の世界では不可能である。それこそが至福。

 人はそれをマニアと呼ぶ。

外的宇宙(所謂、自分を取り囲む社会の輪)を築くのが苦手な人間が、往々にして内的宇宙を充実させたがるという話があるが、冗長になるのでこのお題は次回に廻す。

今は、私の布教活動が身を結び、この研究科内から2人の女性が御朱印帖デビューを果たしたことを祝いたい。