Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

好きな橋をただ並べてみた

2005-05-30 | 物質偏愛
 好きな~シリーズは予想に反してなんだか続いている。ネタをメールや電話で提供してくださる知人友人などもいる。多種多様なオタク衆が様々に「こんなのはどう?」と云ってくれるのだが、その度に自らの苦手ジャンルがこれまた結構多いものだと嘆息する羽目になる。
まぁそれはさておき、建造物繋がりで次は橋。残念ながら海外のものはどれも未踏。「渡ってみたいなよその橋」てな感じで。

【日本の橋】
日本橋
 東京を愛する者としては日本橋を外す訳にはゆかない。現在は高速道路の高架の下に埋もれるようになってしまい、その全景はよく判らない。とはいえここはまごうことなく日本の交通の拠点[ゼロ地点]であった。並ぶもののない欄干飾りの豪奢さよ。

錦帯橋
 日本三大名橋かつ日本三大奇橋・・とは誇らしいのかなんなのか。肩書きなぞなくとも、美しいものは美しい。木造ならではの重厚なのに繊細な構造は、かつて岩国の城下を結び、国の美しいシンボルとなっていたことだろう。江戸期のそれを見てみたいものだ。

猿橋
 奇橋と云われても仕方のない肘木の積みあがったスタイル。トラスを和物にするとこういうふうになるものだろうか。橋幅の細さと周囲を覆う雑木のさやけさとが相まって、自然に決して溶け込めないはずの構造物が、不思議と自然と仲良く寄り添っているように見える。だから建造物でなくて名勝指定なのか?と妙に納得。

吾妻橋
 維新以後最初の鉄橋として,明治20年鉄トラス橋として架け替えられ、大阪の天神橋・天満橋と並ぶ長大な支間を誇っていたが、震災で焼失。昭和6年再建。夜のライトに映える赤いトラスが美しい。両国本所という立地もグー。

白鬚橋
 名にし負はば・・の業平の歌にある通り、今でも昼間には隅田川を都鳥が舞っている。乱歩の小説ではこの橋の丁度真下に死体が流れてくる。夜のライトを照り返す白々とした無機質な感じが美しい橋だ。

瀬田の唐橋
 地味である。云われはあるが、近くで見ると本当に地味である。
お勧めなのは、石山寺の上のほうまで登ったところにある茶屋の外縁からはるか眼下に見下ろす瀬田の唐橋だ。このアングルを一押ししたい。

河津ループ橋
 湯河原から天城に向かう山道がぱっと開けると、どこかにワープしたいのか?という風体の二重ループ橋が現れる。山を断ち切り全景が一望できるループ橋は珍しいらしい。45mの高低差も圧倒的だし、眼下にはひなびた露天風呂を覗き見ることもできる(今はどうか知らない)。小さすぎて何がなんだか見えないけどね。

横浜ベイブリッジ
 夜に限る。ライトアップされたベイブリッジを見るのもよし。ベイブリッジ越しに赤く彩られた東京のビル群を見るのもよし。港で休息する船や横浜みなとみらいの高層ビルと観覧車を眺めるもよし。海外からしんどい思いをして帰国したその足でこの夜景を見ると、涙が出るのだ。

【海外の橋】
カレル橋
 プラハ最古の石橋。宗教戦争時代には処刑された人々の首晒し場ともなった場所だが、今では大道芸人の集う歩行者天国であり、欄干に立ち並ぶ数々の聖人像が道行く人々を見下ろしている。聖人ではないがサブキャラとしてちょんまげ日本人の像もあるので訪れた際は是非探してみて欲しい。

ポンテ・ヴェッキオ
 迷うことなく私の橋リストナンバーワン。小学生の頃にフィレンツェに憧れたことが私の美術屋人生のはじまりとなった。ヴァザーリの廊下の映像は幼い私の心を掻き乱したのだ。

好きな塔(tower)をただ並べてみた

2005-05-27 | 物質偏愛
 建築には含めなかったので建築パートⅡとして塔を単独で取り上げる。
友人には塔好きが2名いる。友人Aは高層ビル好きで、その「天にそびえる建築」の一種として塔が好きだという。友人Yは鉄塔フェチで、五重塔や高層ビルに興味がない。友人Y曰く「何もない平坦な地に立つのがいい」「無骨な形状と垂直性」。心理学的に読み解くと ごにょごにょ・・ という感じだが、どうすることもできない。
例に漏れず地域の偏っている今回のセレクトは、そんな彼女たちへのオマージュだ。

【国内・近代以前】

三重塔(東塔)(薬師寺)(奈良)
 美術史家フェノロサが「凍れる音楽」と評したことで有名な三重塔。そのエピソードが有名なのは、まさに塔というひとつの建築がリズムを感じさせるものであるから。美術史家にこんなうまいことを言われたら、文筆家の立場がないではないか。

五重塔・東寺(京都)
 何度も火災に遭っていて現存するものは17世紀の塔であるが、重厚な趣がすきだ。特に、新幹線の高架から眺める軒の低い住宅街がひしめく中からにゅっと黒々とした塔が立ち現れている風情が好きだ。東寺の建築はどれもこれも好きなのだが。

五重小塔・海竜王寺(奈良)
 国宝ミニアチュア。火災や台風、地震に遭ったり経年で風化する建築と違って、その精巧な細部まで彩色も鮮やかに残っているが故に美術的価値のみならず史料的価値が評価される。化粧屋根の蔵にちんまりと収まっている姿が微笑ましい。平城宮の鬼門に位置するこの草ボウボウの寺は、夏場の私のお昼寝スポットなのだ。

【国内・近代以降】

東京タワー
 云わずと知れた東京名所。どうやら私は塔のトラス構造がむき出しなのにそそられるようだ。最近内部の店などを改修し、土産物屋などに色濃く見られた昭和の香りが失われてしまったのが悔しい。東京タワーは故里みたいなものだ。それは遠くにありて眺めるもの。心が内に向かいがちな夜であれば尚更。

京都タワー
 京都タワーは夜がいい。ホテル部分の何故だか色とりどりのネオンの安っぽさが、海洋動物の腹を思わせるぬめっとしたタワーの腹の曲線をぼんやりと照らす。決して華やかにはなり得ず、かといってキッチュにもなれない正直な構造の美しさがそこにはある。

マリンタワー(横浜)
 魅力は2つ。トラスの繊細な美しさと、細身な胴体だから映える繊細な色のグラデーション。タワーにありがちな内部のテナントの性格も好ましい。最近、横浜の人出は桜木町や本町に移動しつつあるが、近代遺産にスポットを当てて努力している横浜市にあってはタワーの未来も明るい。

牛久大仏(牛久/茨城)
 異論があるのは判っている。しかし私の頭の中でのカテゴリーでは「超高層ビル」もしくは「タワー」なのだから仕方ない。異論がある方は一度実物を見てくれればいい。畑や藪の続く古い街道のはるか向こうにぬっと聳える阿弥陀立像。勿論、夜には飛行機がぶつからないように赤いランプで彩られる。・・だからビルだって。

【海外】

沈黙の塔(ヤズド/イラン)
 形状としては塔ではない。石と土を積み上げた小山のようなものである。ゾロアスター教の聖地でもあり、鳥葬を行うための儀式の場であった。女性用と男性用で2基ある。尚、現在イランでは法律で鳥葬は禁止されている。

エッフェル塔(パリ/フランス)
 トラス構造万歳。貴婦人かどうかは疑わしい逞しさと、その名に相応しい繊細な細工やカーブとを持ち合わせている。「無用の長物」議論が有名であるが、無用なものをこよなく愛する私にとってはその議論があった歴史さえご馳走だ。

ルクソール・オベリスク(ルクソール/エジプト)
 オベリスクは厳密な意味で塔ではない。記念物である。だがその先端を鋭く尖らせ太陽を指し示した優美なオベリスクが我々に与える印象は、柱状列石とは明らかに異なるではないか。

人参の新たな魅力?

2005-05-25 | 徒然雑記
 大した記事ではない。
人参の新たな魅力と使い道をどうしても伝えたくなっただけである。

上の写真を見て欲しい。
カーネーションは枯れかけているのではないよ。こういう色。
間を埋めるグリーン、実は人参の葉っぱ。
葉つきの人参を買ってきて試したら、こんなにも綺麗になった。

自慢したかっただけなのさ、今日は。

好きな建築をただ並べてみた

2005-05-23 | 物質偏愛
 「好きな~をただ並べてみた」シリーズは、人々の助けを借りてもう少し続く。
今回は建築である。ここでのリストアップ基準は、建築年代を問わず「サービスや立地などの付加価値のためでなく、建築そのものの魅力によって自らが再訪した建築」に限る。よって都内を中心とした近代建築ラインナップがメインとなるが、精度を均一に保つためには仕方がない、としよう。

【東京】
東京カテドラル;聖マリア大聖堂
 代々木体育館とほぼ同時期に建てられた丹下建築。東京都庁や東京ドームホテルなど、キラキラ眩しい宇宙ステーションみたいなものいいけれど、丹下作品の中で最も美しい建築はこれだと思う。ゆるやかに飛翔するようなゆったりとした吊りのカーブ、縦に裂かれた採光窓から教会内部に差し込む光。お勧めは、夜のミサに行くことだ。

赤坂プリンスホテル
 旧館の近代建築が持つちょっとした不安定さと品格、そして外堀の水面の煌きと陽光とを反射する近未来的な丹下の新館とのコラボレーション。近所に勤めていたので思い入れもひとしおな、ホテルらしいホテル。

ソフィテル東京
 本郷から弥生門を抜けて根津に向かうと、住宅街を入り乱れる電線の間からこのツリー状をした迷建築が視界を邪魔する。邪魔をされて見上げてもついニヤリとしてしまうのはどうにも憎めない菊竹センスの所以か。上野の不忍池周辺に、大規模な高層マンションができるという。あのエリアには菊竹ツリーホテルより高い建築なんて似合わない。

東京国際フォーラム;ガラスホール
 役立たず建築筆頭。空間は無駄に広いし、掃除の費用は想像したくもない。下から見上げても、上から見下ろしても、細部を切り取っても「絵になる」建築だ。特に内部からの視線の設計が素晴らしい。夜には空中廊下がオレンジの光で満たされ、まるで光の廊下を歩んでいるかのようだ。銀座から足を伸ばして、夜の空中散歩に行ってみよう。

東京オペラシティコンサートホール;タケミツメモリアル
 この一点だけは、建築の外皮ではなく内臓部分の紹介となる。一度聴きに行って即惚れてしまったホールだ。木の素材を厳選した音響設計と豪奢なパイプオルガン。ステージに向かって右側の二階、前から1/4~1/3辺りが私の指定席。

東京駅
 云わずと知れた辰野金吾の東京駅。用途やデザインなどの詳細については以前の記事をご参照願いたい。奈良ホテルと並び、帝冠様式とも呼ばれるこのタイプの建築に私はめっぽう弱い。

東京大学赤門
 吾が青春の一頁。赤門の赤にキャンパスを埋める戦後建築の古びたタイルの色、総合図書館の赤絨毯の色とふかふかした感触、さやさやとそよぐ木々の音と瞬く緑。赤門を潜って左脇にある、まだ若い八重桜は今も元気に若い緑の葉を茂らせているだろうか。

【横浜】
横浜ランドマークタワー
 ザ・高層ビル。ドックヤードガーデンの復元保存プロジェクトとともに設計され、オフィスと商業施設、ホテル、ガーデンが一体化する、奇妙にバランスのよい開放的な空間に仕上がっている。用事がなくともなんとなくわくわくしてしまう場所だ。

【京都】
TIMES; Ⅰ,Ⅱ
 高瀬川のせせらぎを取り込んだ安藤忠雄の商業施設。初めて訪れたときにはもうTIMESブームは去っていて、閑散としたビルになっていた。本来ならスタイリッシュなテナントが入ることを予定していたのだろうが、今は淋しい有様だ。それでも京都を訪れたら必ずこのテラスを訪れる。判りにくい動線と無駄な空間を。

好きな役立たず本をただ並べてみた

2005-05-21 | 物質偏愛
 勝手にシリーズ化してしまった。
 好きな本・・を挙げれば数知れず。だから、くだらなかったりただ眺めて愉しむだけだったり、ナンセンスだったり、そういう「何の役に立つのさ?」という本に光を当ててあげたいわけだ。

【写真集】
解剖百科
 AMAZONで調べたら売り切れていてびっくり。ラスペコーラコレクションの初写真集がタッシェンから廉価で登場。一般庶民にも公開された初の博物館として名高い、芸術の域に達する医療蝋人形のエロスと当時の技術と・・全てに驚かされる。
BACK
 女性の後姿のみにこだわったモノクロ写真集。FETISHな感性が満ち満ちている。断じてエロではない。現代に失われかけた正しいエロス。

【海外文学】
泥棒日記
 ジュネを始めて読むのなら、最初にこの門をくぐるのかな。訳がフランス語の余韻を残す美しいリズム。澁澤龍彦の名訳「ブレストの乱暴者」は二番目に、訳がいまひとつの「葬儀」をラストに読むとよいのかも。

眼球譚
 反人間主義と憎悪に溢れた小説。正直、疲れた。「退廃」を通り越しちゃうとこんな危険な世界に行ってしまうので、自分はよくよく注意しよう。と思いました、はい。

1万1千の鞭
 アポリネール万歳。サディズムとマゾヒズムと倒錯が絢爛と織り交ぜられた一冊。大学の2年の頃、最初に読んだ際には驚いて読み終えた後捨ててしまったくらいだ。その後、あの衝撃がどうしても忘れられず改めて買いなおした。もう手放すことはないだろう。

【妖怪】
画図百鬼夜行
 妖怪絵の基本中の基本といえばこの方、石燕!水木しげるをはじめ、現代に受け継がれている妖怪フォルムの機軸をなしているのは彼の絵と云われている。勿論、海洋堂の食玩も。眺めているだけでわくわくする一冊。
 
【ナンセンス】
ブタをけっとばした少年
 どうしようもない馬鹿げたシュールな物語。極悪非道な少年ロバート・カリガリの諸悪としっぺがえし。後味の悪いイギリス的ファンタジー満開。

【コレクション】
魅惑のフェロモンレコード
 バカレコ(下らないレコード)をジャケ買いして、みうらじゅんが勝手な妄想のもとにそれらを分類、コメントを加えている。やくみつる氏を筆頭に、収集癖を持つ人独特のエネルギーと尖ったアンテナが大好きだ。大学の頃「笑わせ本競争」で私が先輩に勝利したのはこの本のお陰だ。先輩、文化庁で元気にやっていますか。

【木下直之】
ぬっとあったものと、ぬっとあるもの -近代ニッポンの遺跡
 人の名前でひとつジャンルを作ってしまった。木下ワールドがそれくらい好きだ。
「ぬっ」という音が持つどこか妖怪的な響き。牛久大仏や大船観音など、日常の世界の一角にまるでそれを打ち砕くゴジラの如くぬっと立ち現れる近代の産物を検証する。なんにせよ、木下先生の関わる本は表題がキャッチーで堪らない。ツボが同じすぎる。

世の途中から隠されていること -近代日本の記憶
 最近読んだ本の中で最も面白かった本。木下直之ファンとしては欠かすことのできない一冊。
実は、数年前の自分が写ってる写真が勝手に使われたりしていることでも記念的一品。先生、あの頃は自転車の後ろによく乗せてくれて本当に有難うございます。


好きな映画をただ並べてみた

2005-05-20 | 物質偏愛
 借り物競争ならぬレンタタイトルリレー。
同じタイトルのTB記事の連鎖を続けるべく追加参戦。チェーンメール宜しく誰か後を引き継いで下さい。お願い(脅迫でも可)します。

但し、私は映画をあまり観ません。今の家ではビデオも録画・再生できず、DVDはPCで観るよりほかない。研究に打ち込むべく余計な娯楽を揃えなかった訳なのだが、かえって無駄にテレビを付けている時間が長くなった。お陰で妙に昨今の若手お笑いブームに詳しくなってしまった。
さておき、上記のような訳で私の映画ジャンルは非常に偏っていることを予め付記しておく。誰かの参考になるものではなかなかない。

【恋愛】
ブエノスアイレス
 同性愛がテーマでありながら、れっきとした恋愛映画。今は亡きレスリー・チャンのやんちゃぶりと、それに引きずり回されるトニー・レオンの関係は普遍的に微笑ましい。暗い部屋の中でのスローダンスシーンが美しくて堪らない。深い深い蒼色が散りばめられている。

【レジスタンス(戦争)】
砂漠のライオン
 ムッソリーニ率いるイタリア統治下におけるリビアのレジスタンスを描いた映画。アンソニー・クイン演ずるリビアの指導者オマル・モクタールが素晴らしい。しかも似ている。因みにモクタール氏は今でもリビアの父と讃えられる英雄で、紙幣にはその横顔が印刷されている。カダフィ大佐は決して自分の顔をモクタール氏よりも高額の紙幣に印刷することはない。老モクタール氏の騎馬姿が凛々しく、切ない。

【アクション】
LEON
 これは有名なので説明はしない。ナタリー・ポートマン演ずるマチルダの可愛さったら、もう。

【サスペンス】
薔薇の名前
 高校の世界史の授業の際、「アリストテレス議論」の参照のため、授業を2コマ費やして部分的に観たのが最初。その後リピートした。ストーリーは原作を知っていると若干物足りないように感じる人が多いと思うが、修道院付属のビブリオテカの美しさに魅せられた。最近、ヨーロッパ各地に現代まで残っている修道院ビブリオテカがまさに映画の通りの美しさであることを聞き及び、涎を垂らしているところだ。

【青春】
トレインスポッティング
 スコットランドのちょっと暗い社会背景を折々に主張しつつ、麻薬と女と無気力に溺れる若者の、それでも溢れ出して止まらない熱情が、選りすぐりのサントラに載せて描かれる。「1000年後には性別もなくなるだろう、大歓迎だ」

【ホラー】
鉄男
 ホラーは各国に多々あれど(あまり観れないが)日本人の湿った感覚を伴うSF概念、幽霊や残忍な凶行を含まない恐怖、モノクロの押し殺した感じ・・誰がなんと言っても鉄男。朝目覚めたら自分が醜悪な虫になっているというのも恐ろしいが、自分の肉体が徐々に、しかし確実に鉄化してゆく恐怖もなかなか。愛する女性の死体の髪を小さな白い(多分)花で静かに飾り続けるシーンが堪らない。

【音楽】
doors
 ジム・モリソンがただのネジが切れたヤツのように描かれているのがちょっとアレだが、主演のバル・キルマーがよくもあそこまでジムに似たものだ。骨格が似ると声も似る。リアルタイムでのDOORSの活動を知らないので何とも云えないが、DOORSファンの人にもある程度は受け入れられる作品であるはず。

【漫画の映画化】
ねじ式
 つげ義春原作の「ねじ式」「もっきり屋の少女」「別離」「やなぎ屋主人」がオムニバス形式で原作のコマ割りに忠実に再現されている。つげの作品は別のもので豊川悦司が主演するものもあるが、本作の浅野忠信に軍配を上げたい。「ねじ式」に清川虹子が出演しているのにも度肝を抜かれた。オープニングの妄想シーンの強烈さと、「ねじ式」での眼科の看板が立ち並ぶセットが印象深い。加えるなら「網走番外地」シリーズの監督作品という意味でも面白い。
 
【アニメ】
となりのトトロ
 こんなにも邪気や暗さのないアニメはない。人生や世界における負の側面は題材にするのが容易いが、メッセージ性はきちんとある。日本人ならではの妖怪概念をこれほど肯定的に暖かく捉えた作品はないと思っている。全ての子供に観て欲しい。


放火バカ許さじ。

2005-05-19 | 徒然雑記
 今夜は珍しく相当に私はおかんむりである。今は近づかないほうが宜しい。
とはいっても深夜のこんな時間なので誰にも被害を与えることはなくて朝を迎えることができそうだ。 

 おかんむりの原因は藤枝市連続不審火。各現場を結んだほんの狭い狭い円の中が、私の生まれ育ったところだ。だから現場の風景の殆どははっきりと脳裏に描くことができる。現場の近くには牛乳屋の優しい夫妻やマルチーズを連れた口うるさい眼鏡のおばちゃん、相良弁まるだしの綺麗なお姉さんなどが住んでいる。ついでといったらなんだが私の両親も住んでいる。

 深夜の3時や4時台に、東海道の駅や街道がすぐ近くにある「安全」と見なされているはずの場所を自転車で徘徊しながら、適当なゴミ置き場や廃材や車やバイクに次々と火を点けてゆく私と同じ年の男の姿が目に浮かぶ。あの通りを、あの家の前を通って。真ん中に大きな桜の木が一本あるあの公園の角を曲がって。そう、その次に私の家の前を通って、あの角を曲がったのでしょう。そして幼い私が毎日道草をして手に花を摘みながら帰ったあの道で、冬には山茶花が咲くあの場所で、ライターを点したのでしょう。
そして、私がもっと幼かった頃に二階の窓から怖々眺めたあの爆発を伴う火事を、あなたは再現させてしまった。私の家の窓を揺さぶるほどの爆発を引き起こさせて。
あぁ、なんてこと!

 人は火に勝てない。人は火を操ることなんてできない。
自分がもし火を操りたいと願うなら、最初に自分のハンカチやズボンの裾や前髪やカーテンなんかに点けて御覧よ。自分が生んだ火が、自分や他人や愛する人や、そんなもの見境なく呑み込んでゆこうとする正体不明の貪欲さをその目で見て御覧よ。貴方の手から生まれた火が、貴方の欲望を満たす為に燃えてくれるわけじゃ決してないことを。修羅のようなその紅蓮の姿を。

 火の何たるかを知らない者は、人の命の何たるかも、自分の何たるかも知らない。
 自分の大切なものがなんなのかも知ろうとしない。
 火に付け込まれて、ただ惑わされて踊るだけだ。

 火を甘く見るものを私は決して許さない。

眼鏡とビザール。

2005-05-18 | 物質偏愛
 メイストームでクリーニングに出していたスーツを取りにいけません。
 お菓子も買いにいけません。やれやれ。

家に籠っていると身体の活動が制限されるため、妄想でその暇を補うらしい。今日のテーマは眼鏡。

 さて、私は天晴れなくらいの度近眼である。若干先端恐怖症なのでコンタクトなんて怖くてできない。目を開いたまま目薬を点せないくらいなのだから本人が思うより重症かもしれない。だから私の日常は常に眼鏡とともにある。
写真手前のノー芯セルロイド、実は薄っすら向こうが透けて見える黒い眼鏡は佐々木與市のT-408。この中では最も新参者だがもう一年以上のお付き合いである。眼鏡のつるに金属の芯が入っていないだけでこんなにも無骨でなくなるものなのか。黒なのにクリアであるところがちょっと隙があって素敵だ。
奥の柔らかいクリアグレーは泰八郎謹製のT-105。ノー芯の良さを押し出せるフレームの色に一目惚れしたものだ。高品質な昔ながらのセルロイドは日頃のケアをきちんとすれば、通常のポリエチレン製と比較し褪色を遅らせることができる。それでも3年目に突入して艶が失われてきたので、磨きをかけてきたばかりだ。
フレームがワイン色にゴールドパールが艶っぽい度付きサングラスはシャネル。レンズの色も極力フレームの色に近づけて貰った。80年代風グラデーションである。残念ながら日本人顔なので、眼鏡を頬で支えざるを得ない。

 男性フェティシストの世界では、スーツ、靴、時計の次くらいに眼鏡フェチがいる。それだけ眼鏡に掛ける思い入れが強く、裏を返せば男の眼鏡はそれだけの価値を伴って他者から見られているということだ。
女性である私の場合、今までに何百回「コンタクトにすればいいのに(しなさいよ)。」と云われたことか。その後に続く言葉は7割方「眼鏡なければそこそこ綺麗なんだからモテるわよ。」
あーやれやれ。
女は眼鏡を外せというのは、化粧をばっちりした顔を常時むき出しにすることだ。それはミニスカートを履いたり胸元をはだけたりという露出万歳の思考と共通する、甚だ艶も色もない短絡的な嗜好。

 また、アキバ系などの間では「眼鏡っ娘」というフェチジャンルもあるらしい。これは昔ながらの「眼鏡を取って髪を下ろしたら、あら大変。とっても可愛い娘だったのね~」という願望を引きずりつつ、眼鏡=どんくさい。華がない。ださい。でもそこが可愛い・・という屈折したコンプレックスの裏返し趣向であるにすぎない。まぁ確かに少々どんくさい娘は可愛らしいが、そのアイコンが眼鏡であって貰っては困る。個人的に非常にやりきれない。

 無理に定義すれば、私にとっての眼鏡はビザールアイコン。
ビザールの世界では、身体は拘束され絞られ、その結果得られる美しいラインと身体を飾る衣装そのものが美しいとされる。人体の皮膚が表面に現れている必要は毛頭なく、ひたすら美しい人体表現を追求するために衣装に財を投じて最高の素材を投入する。そして衣装そのものが美しく進化する。

 スーツという、明らかに働きにくい戦闘服やネクタイも同じだ。スニーカーでなく、至上の艶を見せてくれる革靴を選ぶ気持ちも同じだ。それらを纏うことによって男性は凛々しくなることを自らも知っているし、女性たちも知っている。

 化粧と衣服と一緒で、眼鏡だって外す時間がある。
それを外す悦びと、それを身に着ける緊張感を知らないで生きている人は少なからず不幸だ。

三種の神葉。

2005-05-14 | 物質偏愛
 ここのところなんだか木の芽ずわりどころではない肌寒い日が続いていて、ちょっと自転車に乗っては気管支炎の発作を起こして自転車を止めて道路端で三角座りしたかと思えば、雨が降りそうで降らないじりじりした時間帯には頭が膨張してパァンと破裂して中身がぶち撒かれるのではないかと疑いたくなる程の偏頭痛。この季節は目にとても優しくて視覚的には大好きな季節なのだけれど、イキモノとして出来損ないである私の身体がなかなか気候の変動に付いていってくれない。人間でなかったらとうの昔に淘汰されて死んでいるに決まっている性能だ。生まれてきたのが人間でよかったのだと思う。

そんな情けない日々だったので当然のことながら思考もぼうっとして、大したことが考えられない。痛いとか眠いとかスケジュールの確認したりとか、そんな程度のこと。もう一歩頑張れば廃人になれそうだ。
というわけで、今日は常に机上にある日々の友についてちょっとだけ記して退却する。

私は、常に手の届くところに飲み物がスタンバイされていないと駄目である。保温されたお湯があるだけでは駄目で、机上には必ずコップとティーサーバーあるいは珈琲カップ、ペットボトルなど既に完成された状態で何かがなければどうにも落ち着かない。夜中に目を覚ました場合などは、眼鏡もなく電気も付けずにサーバーからお茶をコップに注いで飲むことができるよう、それぞれの低位置を定めてある。

体質上、酒を飲むとこれまた救急車の騒ぎになるので最上の嗜好飲料は珈琲なのだが、これはちょっと置いただけですぐに酸化してへんてこな味に変わってしまうので、家では客人でも来ない限り殆ど珈琲を淹れることはない。因みに、淹れるときにはネルドリップであるが。

すると消去法で茶類になる訳だが、茶処で生まれた割には緑茶はあまり淹れない。もう間もなく送られてくるであろう新茶の季節には嬉しくてがぶがぶ飲むけれど、食事と一緒の緑茶ならともかく、珈琲のように緑茶のみで何時間も過ごすわけにはどうもいかない。そして新茶は翌年まで持ち越されてしまうこともしばしばだ。
そこで現在ローテーションしている茶葉が3種類ある。

1) ジャンナッツアールグレイ
2) ルイボスティー
3) 白毫銀針(はくごうぎんしん)

お茶好きな方の中では、上記セレクトを見て「うえっ」と思う方も多いはずだ。
どれもこれも香りが強いうえに存在感があり、癖があり、強烈に官能的だ。そのくせ上品だったりもする。
どれも冷めても味が大きく変質してしまう訳でないので1リットルのティーサーバーに作ったまま机上に放置し、半日~1日の間に消費する(夏場注意)。

アールグレイは夏場のアイスが格別なのだが、ジャンナッツのそれに勝る芳醇で貴族的でデカダンな香りを私はまだ知らない。それほど多く試している訳でもないが。
ルイボスは、南アフリカを訪れた際に適当な土産として余り金で買ったものでそれが初体験だったのだが、茶とは異なる渋みのない丸い香りと、その紅い液体の余りの美しさに惚れた。
白毫銀針は、北京の空港で名前に惹かれて買っただけのもので、中国語を一切知らない私はその名に「白毫」とあっただけで仏像のおでこにあるアレを思い出し、可笑しくなって購入決定。後にして思えば白毫とは単に白い毛の意味であった。その名の通り白い産毛が品の良い白茶で、清涼な初夏の香りがする。

仕事や勉強のお供に、このうえなく優雅で官能的なお茶たちは欠かせない。
例えるなら、アングロサクソンと黒人と中国人のそれぞれ極上ないい女を日替わりで秘書にしているようなものか。
上記のセレクトから類推して私の琴線に響きそうな一品があったら是非ご教示願いたい。

会津若松紀行(2)。

2005-05-06 | 異国憧憬
 宿の近くを散歩することにした。宿の場所は七日町駅のすぐ近く。ここは景観配慮のため、古くからある蔵や近代洋風建築を活かした商業施設が多く見られる心地の良い通りである。通常は車が行きかう主要道路の一本で、地元の人もよく使う通りであるため、観光客だらけのアミューズメントパークまがいのチープで嫌味な感じはそこにはない。生活の空気と観光地の活力とがマイルドに溶け合っている。

 まずはまっすぐ歩いて野口英世青春通りへ。野口英世が左手の手術を受けた会陽医院の建物は今も残っており、1階は喫茶店に、2階が資料館になっている。因みに、野口英世が手術を受けた診療室は現在喫茶になっている1階奥の部屋だそうで、折角なのでその部屋に陣取って連れに隠し続けていた煙草をおもむろに取り出し、テーブルの上の徳用マッチで火を点ける。珈琲1杯に20分待たされたので少々興冷めするが、田舎なのでこんなものだろう。珈琲じゃなくてインカコーラにすればよかったかな。

青春通りは今一歩だったので、もと来た道を辿って宿へ。途中、骨董屋に骨董市、和菓子屋、木地屋、会津塗の店、駄菓子屋、水産問屋などをはしごしつつ戻る。所々でお茶を戴き、飴をいただく。連れに無断で買い物すると叱られる怖れがあるのを言い訳に「明日寄るね」の言葉を残して宿に戻る。「明日寄るね」が本当かタテマエか、それを決めるのは自分自身。

 宿の夕食には会津の郷土料理が並んだ。にしんの山椒付け、にしんの昆布巻、棒たら、こづゆ、会津牛、季節の天麩羅、そば粥などなど。海から近い場所で育ち、鮪に鰹、鰻が特別なご馳走料理でも何でもなかった自分にとって、海からたった100キロ離れただけでこんなにも異なる食文化に箸を止めた。ことごとく乾物になってしまっている魚たちと、そこまでしてタンパク源を確保しようとする努力。そして、その貴重なタンパク源に精一杯の手間をかけて惜しげもなく振舞うというご馳走料理の姿。海の近くで育った自分にとっては手放しで「美味しいねぇ」とは決して言えるはずもなく。しかしゆっくり噛んで味わうことを余儀なくされる風情がそこには確かにあった。
 
因みに、食事を頂いた部屋の隣は三島由紀夫によって「憂国の間」と名付けられた部屋で、4人以上が食事できる座敷となっている。2.26事件に唯一の民間人として加わり死刑となったこの家の渋川善助が、少年時代を過ごした部屋として保存されている訳である。

さて、前日の記事の写真に使っている湯呑みであるが、漆の素塗りで木目がいい。軽い。熱くない。といいとこ尽くしで、渋川問屋で出されて一目惚れしたものである。頼み込んで販売店を教えて貰い、翌朝早速鈴木屋利兵衛にて手に入れたものだ。長い付き合いになりそうな湯呑みである。
その他、水産問屋のおじいの店で棒たらやにしんの昆布巻、豆麩や貝柱などを買い込むと、スチロールの箱に入れてくれた。「化学氷入れといてやるから。」70歳を越えるとドライアイスのことを化学氷と云うものなのか?3度ばかり聞き直してようやく解読できたその言葉はなんとなく可愛らしくて、好きだ。おじい、またね。

 一人旅は得意だ。
「有難う。また、来るね。」その言葉に添えられる互いの笑顔を、その後どうしたい?
「また来るね。」の不安定極まりない約束の結果は旅人に掛かっている。約束を破っても誰も傷付かないし怒らない。されど、約束を形にした時の驚きと喜び、偶然の点を自らの意思で線と繋げる意味を知るのは約束を守ってみたことのある者だけ。「また、来たよ。」たった2度目の出会いは最早偶然でなく、その日を起点として旧知のように紡がれる様々な言葉と笑顔と、新しい約束。今度の約束は期待と実体を伴う、血の通ったなにか。

旅人の来訪をずっと待っているはずはないのだけれど、いざ顔を見るとなぜかその人をずっと待っていたような錯覚に囚われる。訪れる者も、ずっとここに戻って来たかったような気がする。
だから、旅は二度目以降がすきだ。

会津は、私をもう一度呼んでくれるだろうか。

会津若松紀行(1)。

2005-05-05 | 異国憧憬
 常磐道からいわき経由で磐越道へ。初めての東北である。
高速道路から眺める景色は関東平野を抜けて徐々に山がちになり、様々な緑色とその間を埋める淡い山桜の色がほわほわとした柔らかい質感と相まって、初夏の兆しを見せるパッチワークとなっている。雑木林の美しさは紅葉の時期に限らない。初夏の雑木林がとりどりな色をして、まるで笑いが弾けるように陽光を反射する気配の美しさは手入れのされたどんな庭園にも優る。近くに見える木々の枝に山藤のつるが絡み付き、小ぶりな紫色の花房を風に揺らしてなどいればなおいい。

磐梯山はまだほんの少しだけ山頂に雪を頂いている。
会津村の慈母観音像が右手に見えてきたら目的地はもうすぐ。会津若松インターを降り、名の通り「観音前」交差点を左折すれば目指す市外へもう少し。

まず最初は、今回のメイン「さざえ堂」のある飯盛山へ。午前10時前でそれなりに人も出ているが、混雑という程でもない。山を登るための参道(階段)の脇にエスカレーターが設置してあるのだが、その麓にエスカレーター乗車券売り場の窓口が4つもあった。「歩いて登ると本とぉ~ぅに大変です。途中でへこたれても途中から乗ることはできません。是非こちらでお買い求め下さい・・」という肉声アナウンスが流れる。実は正面階段を登らなくとも裏参道として緩やかな坂道がある。裏参道経由では疲れたという自覚もないくらいだったので、あのアナウンスはちょっと脅かしすぎではないか。

白虎隊についてはさしたる思い入れがないので、礼儀程度に墓前参りをし、さざえ堂へ直行。入場券売り場のおばさんの口上が堂内までも響き渡り、田舎の観光地ならではのアナログ性と暖かみがとても心地よい。さざえ堂は上のURLをご覧頂けば判るように、かなりぼろい。いつ壊れるか判らないから、という理由で今回の旅の目的地になったくらいだ。二重螺旋構造のスロープで堂内を登り下りするわけだが、どうやら床にオイルを塗りこめてあるらしく、革靴で滑って慌てて手すりにしがみ付いた。全体的に華奢な構造になっているので摑まった手すりも派手な音を立ててきしみ、あまり助けになってくれないことが判った。格子から堂内に差し込む光線と堂内の暗さのコントラストが激しく、手狭な空間。極めつけに平らな床の一切ない空間。客がもし居なければ、不思議な光線の中で下りスロープに横になって天井の千社札を見上げながらぼんやりと時間を過ごすこともできようか。平らでない床は、歩くためでもなく眠るためでもなく、ただそこに暫くの時間ハタと留まるためにあるものだ。

ちょっと休憩して、予定していた土産の調達へ向かう。8年前に友人に貰ってからずっと忘れられずにいた飴、それだけを買いに長門屋へ。母親と同じ年のおかみさんと話が弾み(捕まった、という方が正しいか)お抹茶2杯とお茶うけのもてなしを受けた。次の観光までに腹ごなしを・・のつもりだったが余計に腹一杯になってしまった。旅行というものはなかなか予定通りにゆかないものだ。

 さて次は鶴ヶ城。「荒城の月」のモデルがここと青葉城であるらしいことは有名だが、昭和の大修理を経た城は荒城の面影もはやなく、凛とした鉄筋コンクリートの威容を呈している。今では、加藤氏時代の白壁5層天守閣だが、それより以前の蒲生氏の天守閣は7層の黒壁に、秀吉の影響を受けた金瓦葺きであったと推測されている。蒲生期の野面積みの石垣の上に立つ黒天守閣。あぁ、こちらのほうが見てみたい。
隅櫓はひとつだけが復元されている。この地域では赤瓦が主流なようで、調査の結果近年になって復元された隅櫓と腰櫓は赤瓦となっている。加藤氏の天守閣も恐らく赤瓦であったのだろう。
ここは、ボランティアガイドに案内をお願いした。地域を愛するガイドによる説明はあたたかく、教科書的でなく、隔てのある歴史でなく今に繋がる時と土地の息吹。長谷川さん、ありがとう。

御薬園に寄ったあと、早めに宿に入る。渋川問屋別館は蔵を改造した宿とのことだが、大改造の結果であろう、まるでセミスイートのようなモダンな部屋となっていた。妙に気合が入りすぎて揃いも揃って笑顔の引きつっている女性スタッフを早々に振り切って部屋で一休みしながら、夕方の散歩のコースを練る。
一人旅に慣れきっていたので、連れのいる旅は不思議に疲れの度合いが違う。二人旅で二人ぶんの愉しみを得るのは難しい。しかも今回は旅に不慣れな連れが相手なので、私の気まま一人旅ペースにもう一人が巻き込まれている形だ。とはいえ連れを安心させる為に今回は事前計画を立て、計画の変更やアレンジも随時伝えつつ旅を進行させている。2人旅パックツアーといったところだろうか。

さて、夕方の町中散策は連れを差し置いて一人旅の本領発揮といこう。