Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

春の口笛

2009-03-30 | 春夏秋冬
 
 今朝、通りがかりに見た桜はまだ五分咲き程度のほころびだった。にも拘わらず、恐らくもっとも最初に花を開かせた枝の先のほうから順に、はらはらと散りはじめていた。一方で花は順繰りに開いてゆき、開いてゆくそばから花は零れ去ってゆく。

その姿は時間の流れを引っかき回すかのごとくに異様で、わたしの知っている桜の咲きざまとは程遠かった。私は背中に鳥肌の立つのを感じたが、多分それは花冷えのせいではなかろう。

 桜はその樹皮から枝の先まで、桜色の樹液をみっしりと溜め込んで、それが飽和したときにようやく花をほころばせる。そうして、1~2週間をかけて華やかなほの白い花弁に枝が包まれ終わるのを合図にするかのように、一斉に散り始める。
 まるで熟した植物の種が弾けるのと同じように、飽和をした瞬間になにか別のものがそこから立ち現れるおどろきと愉しさが、人の目を自分より高いところへと向かわせる。逆に、世間を覆い尽くすのを待たずに入れ替わる、メディアの伝達するところの「流行」だとか、考えもしないうちから導き出される結論だとか、飽和もしないうちにはじまる次の展開に対して、人はきっと現実味や興味を抱けない。


 冬が始まると木の葉が落ちて木々は寒々しく乾く。
 2月も経つと、街を歩く人はみな厚手のコートを纏って、そのうち僅かばかりの人は霜焼けの足指を靴の中に隠している。
 3月めになるとついこの間買ったばかりの冬用のタイツを既にひとつかふたつ破いてしまって、この冬を越せるかしらと心配する人もでてくる。丁度その頃、街じゅうを埋め尽くす冬がようやっと飽和して、代わりに「もうこれ以上冬は要らないよう」という人々の心の声が膨らんでくる。その声が大きくなって天に届こうかというときに、春がすたすたと遠くからやってくる。


 春はすたすたと口笛を吹きながらやってくる。
 口笛は道端の埃を舞い上げ、木々の枝を強風で揺する。
 春がその指先で触れたところに、桜の花がぽろぽろと咲きはじめる。
 うろうろと散歩を続ける春の後ろには、つつじやら雪柳やらがその足跡をなぞるように眩しい花を開かせる。

 そのうち空が春の遅い帰還に痺れを切らして、雨が春を呼び戻しにやってくる。





象徴としての黒部

2009-03-23 | 異国憧憬
 テレビで「黒部の太陽」を観た。
 TV局オフィシャルサイト

私たちの世代にとっては、石原裕次郎の出演した黒部の太陽の記憶は皆無といっていいだろうから、先週末の番組を見て、黒四の土木工事がどんなものだったかということを知った人も少なくないのではないかと思う。

 昨年、仕事で黒部ダムには二回ほど訪れた。同行してくれる関電の社員が、ごく自然な流れで殉職者慰霊碑の周りをささっと拭き清め、手を合わせていた背中が非常に印象的であった。その動作は計1分程度のことだったが、彼らはきっとここを訪れるたびに自然にそうしているのだろう。わたしは彼らと同じ気持ちにはどうしてもなれないだろうから、その社員に続いて手を合わせることが憚られて、やめた。

 大町トンネルは、電力で動くトロリーバスを使って抜けていくのだが、それでも結構時間がかかる。そして、ドラマでは計2時間以上を費やしただろう破砕帯のエリアには「破砕帯ここから」「ここまで」という表示がある。勿論、トンネルとして完成された今では、外見でその区別はつかない。けれど、看板で伝達したいというか、せざるを得ない、いや違う、伝達するのがごく当然のことのように感じられるから不思議だ。

 1950年代の黒部ダム建設は、即ち日本の土木技術の結晶であり、人のこころの強さであり、自然への畏れであり、その後の人の心に響く「黒部」という言葉は、決して単体のダムを示す言葉ではなかった。
人々はその言葉や風景の向こうに、なにかとても大きな人間の営みを感じていた。但し、それは初代の映画「黒部の太陽」の記憶がある世代のはなしに限られる。関電に現在も継承されている「黒四スピリッツ」という言葉は、象徴としての黒部を通じた偉大ななにかが後世で立ち消えてしまうことのないようにという願いや祈りのように聞こえる。


 あのテレビを見た人が、黒部に行きたいと薄っすらでも思ってくれるだろうか。
長い長いトンネルの中を吹き渡る凍るように冷たい風。それを抜けた向こうに壁のように屹立する硬いみどり色の山とそれに掛かる太陽、その手前を埋め尽くす巨大なダム湖を見下ろしてみたいと思ってくれるだろうか。

もしそのままの気持ちで足を運ぶことができるならば、美しい、と放言してしまうには怖ろしいなにか分厚く威厳のある石垣のようなものを、その風景と風のなかにきっと見つけるだろう。




初恋の記憶なんて多分捏造

2009-03-18 | 伝達馬豚(ばとん)
 少々出遅れ感もありつつ、薬が効くまでの暇つぶしにやってみた。
 当初は載せる気なんてさらさらなかったのだけれど、「p.s.」部分にぐっときたので載せることにした。ほんとにわたしがそんなことをやってたら、ちょっと自分のこと好きになれそうだ。

出典:初恋の人からの手紙



【手紙ここから】
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マユ、ひさしぶり。
もうモテる女性を「下品な女」と罵るクセは治りましたか?毎日のように言っていたマユをなつかしく思います。

喧嘩が増えてきて、マユが「もっと大切にしてくれる人と付き合う」と言い捨てたあの日から、もう17年が経ったんだね。月日が流れるのは早いものです。

手紙を書いたのは、とくに用事があるわけではないんです。ただふと思い出して懐かしかったので、思いつくままに手紙に書こうと思って。ふふ。驚いたかな?

今振り返って考えてみると、あのころのマユは、穏やかでかわいい雰囲気をかもしだしていたわりに自由人で手に負えなかったのを覚えています。天真爛漫でおれにも優しかったけれど、どうも自分だけのものにならないような歯がゆさをいつも感じていました。「あっさりした恋愛が理想だよね」ってマユに押し付けられたときには、なんとも言えない切なさがありました。

あ、そうそう、マユからしてみればおれは初恋の相手でしたね。付き合った当初はやけに「恥ずかしい」という発言を連発していて、こっちが恥ずかしくなった記憶があります。今思えば、むしろ恥ずかしいのを好んでいたんですね。

付き合い始めのころは、勢い余って、マユが「いつか結婚してもいいけど」とか言っていましたね。言い方は素直ではなかったけれど、その気持ちは嬉しく思ったものです。後先考えずにそういうことが言えてしまうところもマユらしいですね。

総括して言えば、おれはマユと付き合えてよかったと思っています。振り回されたけど、そのおかげで忍耐力もついたし、言いたいことを封じ込める技も身に付きました。

いろいろ書いたけど、おれはそんなマユのことが好きでした。これからもマユらしくいられるよう、あと、当時本気でやっていた深夜ラジオへの投稿も続けて(笑)、幸せをふりまいてください。

またいつか会いましょう。では。

P.S. マユがクリスマスにくれた観音像、まだ飾る場所が決まりません。



【結果詳細】
http://letter.hanihoh.com/r/?k=090318248549c0615d6420b





色とかたちのかけら

2009-03-17 | 物質偏愛
 小さいときから、図鑑がすきだった。
 それより以上に、地面に這いつくばって綺麗な色をした小石や木の実や種、貝殻なんかを拾い集めるのが好きだった。
幼い頃のわたしにとって、石とか木の実(種)とか貝とかいうもののかたちは、それぞれが持つ方向に向かって完結しているように見えた。


 石はそのコア(というものが実際にはないにせよ)に向かって凝結する方向で、強く硬くより純度を増してゆくようにみえた。そして場合によっては、その表面が面白い色を放つけれども、色だって本来は内部に向かうベクトルに支えられていて(生命体ではない石が色をその身に有することの必然性はない)、わたしは偶然にも本来の営みに付随して与えられたそのきれいな副産物を眺めているだけだ。
副産物でさえこれほどに美しいのなら、石の本質というのはどれだけ手の届かない神秘なのだろう、と夢想した。

 木の実や種は、きれいな花を咲かせたその翌年に、次の芽や花を咲かせる全ての材料を濃縮させた可能性のかたまりだ。硬い殻に護られた中にすべての「素(もと)」が入っていて、だけれどそれはただの粉のようなものにすぎない。粉が葉や花に変化するためには色々な条件が整わねばならず、外見からはその可能性の差異がわからないまるで「アタリ」「ハズレ」の混在した宝箱のようなものだ。
決して美しい色形をしているのでもない単なる小さな粒のなかに、次元を超えた大木が詰まっているなんてまるでミステリー以外のなにものでもない。

 貝殻は永遠を具現化した生命の抜け殻だ。生命の終わりを記録するように、色彩も大小も様々な抜け殻が浜辺に漂着する。巻貝のうねりは時間の流れと呼応しているように正確で、二枚貝はひとつとして同じ色目というのがなく、宝貝の曲線は鉛筆でその輪郭をなぞれないほどのなめらかさで、浜辺にしゃがみこむわたしを厭きさせない。
生命体というなまなましさを失った炭酸カルシウムという鉱物の冷たさは、やけに幻想的にきらきらと美しいばかりのミイラかお人形のようだ。生命という揺るがない本質とは別個のところに、物質的に美しすぎるという全く別次元の「存在の本質」が確かにある。


 そんなことを考えながら、初春の潮風強い浜辺で無心に貝殻を拾い集めた。
幼い頃の無邪気な疑問や物質のなぞに対する夢想は成長に従って死滅していったけれど、自分の手に触れ、目に見える物質へのまっすぐな憧憬は鮮度もそのままにまだ自分の中にある。

乾かしてポケットに詰めた潮臭いゴミ、下等生命体の骸にすぎない貝殻を「たからもの」だとまだ呼べる。




記念日とかそういうもの

2009-03-14 | 春夏秋冬

 ソウルで見かけた雑誌に、「4月14日は、バレンタインにもホワイトデーにも縁のなかった男女が黒い服を着てブラックな気持ちで過ごす『ブラックデー』です」と書いてあった。こじつけというか、適当にもほどがあると思う。 

 今日はホワイトデーだったらしく、会社の向かいの三越は先週いっぱい、普段なら見かけることのない会社帰りの若い男性がいっぱい居て、非常に居心地の悪いおかしな風景だった。そういえば、バレンタイン前も若い女子でごった返してて、会社帰りに買おうと思ったお惣菜がことごとく売り切れていて、非常に不便な思いをした。記念日は楽しいものだけれど、日常に支障をきたすのは非常に困る。

 個人的には、偶然最寄の駅に来ていた同僚と30分くらいお茶しただけの、なんの変哲もない一日だった。
まあ、ちょっと前に調査会社の人にエルメのマカロンを貰ったり、出張帰りの同僚に花畑牧場の生キャラメルを貰ったりしてお菓子には不自由していないのでよい。

何かで読んだところによると、ホワイトデーにマシュマロをあげるのは「NO」ということらしいが、イレール・ボントンのヌアージュなら私はいくらでもウェルカムだ。
私とお付き合いするなんて決して厭だという方々、イレールのヌアージュを是非ご持参ください。


記念日といえば節句もそれらのひとつのようなものだけれど、海外出張に行っている間にひなまつりが終っていた。一月前に節分を終えたばかりなのに、桃の節句には早すぎると思う。いつも気分がついていけない。
大きな理由は、私の実家のほうではひなまつりを旧暦で祝うため、ほんとうに桃が咲いている記憶があるからだ。当然、ひなまつりだけではない。節分(これはもともと全国的に旧暦だが)、七夕、お盆も全て旧暦なので非常にバランスがよい。
そもそも、まだ雪が残るなかでの桃の節句や7月の雨期まっさかりの七夕だなんて、理屈に合わなすぎる。


というわけでいつも東京でのひなまつりは気付かぬうちに過ぎてゆき、誕生日とひなまつりと花まつりをがっさり纏めて祝う来月の初旬を心待ちにするわけなのだ。



台北再訪 - 春のおわり -

2009-03-04 | 異国憧憬
 記号だらけで文字が全く班別できない国では、日本語で全て通しきった。
どう見積もっても日本人よりは明らかに英語が堪能な人々の多い国なので、文字が読めなくてもあまり困ることはないだろうと想像していたが、日本語で乗り切れるとは思っていなかった(※言葉が通じるとは限らないが気持ちは概して通じる)。

 本日、ようやく漢字が読めて暖かい国に到着して一安心。
田植えは済んで若い稲が水面に小さく刺さっているのが見える。高速道路沿いのつつじや街路のブーゲンビリアが咲いている。既に春が通り過ぎた後のようだ。約3ヶ月前に来たばかりなので、なんだかこの国に対しては妙に馴れ馴れしい気分になる。

 前回滞在したのと同じホテルに泊まる。
そこで、重大事件発生。1ヶ月前から、台湾の全てのホテル館内での喫煙が法律上禁止されたとのこと。
それだけではない。レストランも全館禁煙、スタッフが3人以上のオフィスでも漏れなく禁煙。こないだまでは吸い放題の印象を受けていたが、いかんせん極端にすぎる。
 しかも、「密告制度」まであるようで、禁止区域での喫煙を密告されたら日本円にして約35,000~40,000円程度の罰金が科せられ、密告した側は数千円相当のお手当てが頂けるらしい。なんたること。

 あれまあと思いながら、気を静めるためにお茶でも買おうとコンビニに行った。
「フクロ、イル?」
「いる。」
「イル、1エンネ。」
 煙害防治法とエコはどうやらセットメニューのようだ。

 ホテルまでの戻り道で見かけるのは、排ガス除けのマスクをしたスクーターの車列と、信号が変わるのを待ちながら煙草に火を点ける人々といういつもの光景。
手の触れる距離にあるどんな姿も等しくその国の文化というものであって、それぞれの姿がいちいち調和するとは限らないのが常だけれど、自分にとってより生々しく見える姿のほうがやっぱりすきだ。ほんとうは、異国人のわたしの目に映るそのいずれもが、幻想に近いものなんだってことくらい判っているけれど。






ソウル雑感 - 感慨がないということ -

2009-03-02 | 異国憧憬
 私が極度の冷え性で寒がりだということをご存知の方には、なにかの罰ゲームだと思ってほしい。

 いま、十年ぶりのソウルにいる。
 

 かつてのソウルではコンビニでも、さかさくらげのネオン煌く安宿でも日本語どころか英語さえ通じなかったというのに、今日の夕方到着してからこのかた、私はまだ日本語以外の言語を喋っていない。高速道路にはETCがあるし、道行く人は小奇麗だし、スタバは日本よりも密集しているんじゃないかというくらいにあるし、車の運転もみんな穏やかだ。十年はひと昔、とはよく云ったものだと思う。

 ただ、これらの感想は新聞記事のように客観的なもので、記憶と重ね合わせたときになにかじんわりした感傷じみた気持ちを生み出すことはなかった。こんなにも心に響かない再訪というものをこれまで経験したことのない私は、新宿歌舞伎町と池袋サンシャイン前の通りを足して2で割ったような明洞の街を歩きながら静かに驚いていた。

 とはいえ、過去の訪韓の記憶が曖昧だとか忙しかったとか、嫌な思い出ばかりとかいうのではない。加えて、いまの私の心が途方もなくささくれだって無感動になっているというのでも多分ない。

 
 どんな街でも、いくつもの情報や人やできごと(総じて文化と呼ぶところのもの)が目に見えない音波のようなものを発しているとして、私にはこの街が奏でるいくつもの周波数に合致する受信機が偶然にも備わっていなかっただけのことだと思う。
多分ほかの人にはくだらないと思われる風景やできごと、会話、それらがときに一個人にとって重大な意味をもたらすのは、個々人がもっている受信機とその場面から発せられた周波数との相性に拠るだけのことではないかと。

 残念ながら私はこの街と共鳴したり、この街の風景の中に私が溶けている絵を後日想像したりすることは多分できない。
辛いか甘いかしかない食事に舌が耐えかねて本能的に涙腺が緩んだとき、心の底からそう思った。