上の写真は「エコバルブ」。
【電気エネルギー節約バルブ】と銘打った電球型蛍光灯であり、消費電力が電球の約1/4で済むということで結構な人気商品のようだ。とはいえこの商品を単にエコの文脈からのみ見て買う人間ばかりだろうかというのが率直な疑問だ。統計で引っ張り出せるものではないだろうが、明らかなる螺旋構造の美的な心地よさが全面に押し出されているような気がしてならない。螺旋というものはDNAの二重螺旋構造を見ても明らかなように、幾何学的構造であるからこそ大層機能的なのであり、幾何学的だからこそ大層美しい代物だろいうことだ。
DNAの構造と直接結びつくものではないが、螺旋構造の立体性とどこかにあるべき集約点を想起させる形は私の脳の中ではフラクタル理論と結び付けられてしまう。だって、フラクタルと螺旋との組み合わせはこんなにも美しいではないか。
螺旋構造とフラクタル概念を恐らく無意識のうちに融合させた建築物が福島県会津若松のさざえ堂だと思っている。このお堂の内部は独特な二重螺旋構造のスロープで登り下りをするようになっている。尚、その拝観順路に沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂に参拝するだけで三十三観音参りができるというある意味合理的?なお堂だ。因みに、さざえ堂と呼ばれるものは国内各地に見られ、江戸末(1780年台頃~)に流行したひとつの形態であるが、このお堂ほどに典型的かつ見事なものは他に例を見ない。
西国の三十三観音巡礼を一箇所に集約させる試みなのだが、この螺旋スロープという異空間を登り下りしている間に出逢う各観音像はそれぞれの札所に繋がっており、それぞれの札所からはまた別の世界が広がる。更に、三十三観音霊場そのものも国内の各地に存在する。さざえ堂のスロープは西国の各札所に繋がり、それぞれの札所から別の霊場へと観音世界が拡大する。代替の小さな観音像を起点とする目に見えないフラクタルが、二重螺旋という不安定で奇妙なお堂の空間の外へと広がってゆく。モロッコ、フェズのメディナが膨張したフラクタル建築の目に見える形であるとするならばこちらは目に見えぬフラクタル世界。どちらにせよ、自分がぐるぐる廻った訳でもないくせに目が廻る感覚に囚われるではないか。
このさざえ堂の構造と、三十三間堂のそれとは明らかに性格が異なることも付加しておく。ここの千体佛は「無限」を表し、ずるずるとどこか別の世界へ繋がる媒体ではなくひとつの「場」にどどんと溢れんばかりに平面構造で迫ってくるべきものという意味でさざえ堂の観音配置と明らかに異なり、むしろ浄瑠璃寺の九体佛に近い。
螺旋とフラクタルという美しい機能美は建築の世界と仲が良い。
何故なら、幾何学的世界に自分の身体が紛れ込んでしまうことによって感じる非日常の感覚と自分の周囲を取り巻く世界の膨張。フラクタルがラビリンスに応用されるのも、世界の膨張とその中心にいる(物理的には中心と限らないが)自身の孤独感が特筆すべきものだから。
そのような空間は美しく、心細くて、大好きだ。
住んでみろと云われたらノーサンキューなのだけれど。
【電気エネルギー節約バルブ】と銘打った電球型蛍光灯であり、消費電力が電球の約1/4で済むということで結構な人気商品のようだ。とはいえこの商品を単にエコの文脈からのみ見て買う人間ばかりだろうかというのが率直な疑問だ。統計で引っ張り出せるものではないだろうが、明らかなる螺旋構造の美的な心地よさが全面に押し出されているような気がしてならない。螺旋というものはDNAの二重螺旋構造を見ても明らかなように、幾何学的構造であるからこそ大層機能的なのであり、幾何学的だからこそ大層美しい代物だろいうことだ。
DNAの構造と直接結びつくものではないが、螺旋構造の立体性とどこかにあるべき集約点を想起させる形は私の脳の中ではフラクタル理論と結び付けられてしまう。だって、フラクタルと螺旋との組み合わせはこんなにも美しいではないか。
螺旋構造とフラクタル概念を恐らく無意識のうちに融合させた建築物が福島県会津若松のさざえ堂だと思っている。このお堂の内部は独特な二重螺旋構造のスロープで登り下りをするようになっている。尚、その拝観順路に沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂に参拝するだけで三十三観音参りができるというある意味合理的?なお堂だ。因みに、さざえ堂と呼ばれるものは国内各地に見られ、江戸末(1780年台頃~)に流行したひとつの形態であるが、このお堂ほどに典型的かつ見事なものは他に例を見ない。
西国の三十三観音巡礼を一箇所に集約させる試みなのだが、この螺旋スロープという異空間を登り下りしている間に出逢う各観音像はそれぞれの札所に繋がっており、それぞれの札所からはまた別の世界が広がる。更に、三十三観音霊場そのものも国内の各地に存在する。さざえ堂のスロープは西国の各札所に繋がり、それぞれの札所から別の霊場へと観音世界が拡大する。代替の小さな観音像を起点とする目に見えないフラクタルが、二重螺旋という不安定で奇妙なお堂の空間の外へと広がってゆく。モロッコ、フェズのメディナが膨張したフラクタル建築の目に見える形であるとするならばこちらは目に見えぬフラクタル世界。どちらにせよ、自分がぐるぐる廻った訳でもないくせに目が廻る感覚に囚われるではないか。
このさざえ堂の構造と、三十三間堂のそれとは明らかに性格が異なることも付加しておく。ここの千体佛は「無限」を表し、ずるずるとどこか別の世界へ繋がる媒体ではなくひとつの「場」にどどんと溢れんばかりに平面構造で迫ってくるべきものという意味でさざえ堂の観音配置と明らかに異なり、むしろ浄瑠璃寺の九体佛に近い。
螺旋とフラクタルという美しい機能美は建築の世界と仲が良い。
何故なら、幾何学的世界に自分の身体が紛れ込んでしまうことによって感じる非日常の感覚と自分の周囲を取り巻く世界の膨張。フラクタルがラビリンスに応用されるのも、世界の膨張とその中心にいる(物理的には中心と限らないが)自身の孤独感が特筆すべきものだから。
そのような空間は美しく、心細くて、大好きだ。
住んでみろと云われたらノーサンキューなのだけれど。