1月12日付読売新聞朝刊に面白い記事が出ていました。以下に抜粋します。
<仏全国紙 部数減で大苦戦――ネット普及、無料紙台頭>
フランス日刊紙は軒並み販売部数を減らしている。パリ発刊の3有力紙は2004年、対前年度比で、ル・モンド(33万7千部)が4.2%、フィガロ(33万4千部)が1.7%、リベラシオン(15万部)が0.1%、いずれも減少した。1950年代に最高140万部の部数を誇ったフランス・ソワールは6万7千部まで低下した。
無料紙が新しい読者層を開拓し、「メトロ」紙55万5千部、「バン・ミニュット」紙75万部と部数を伸ばしているのと対照的だ。経済紙レゼコーから昨秋、フィガロ紙編集局長に転身したベイトゥ氏は「健闘しているのは読者を特化したスポーツ紙と経済紙だけ」と語る。
日本と同列に論じることは出来ないでしょうが、以前から新聞の将来像に危惧しておられる「ガ島通信」さんの主張(特集「ネットと新聞」)が垣間見れたように思います。日本では宅配制度が大きな役割を果たしていますが、今後このような無料紙が登場して発行部数を伸ばしてくることは考えられます。日刊紙の情報の多くはネット上で入手できることも、新聞そのものの価値が低下する要因かもしれません。読者層を特化したスポーツ紙や経済紙が健闘しているということは、有料情報を必要とする特定集団だけを対象に選ぶビジネスしか、新聞に道は残されていないのかもしれません。
「特定集団を対象にする」という意味において、ブログ社会(そんなのがあるかどうか分りませんが)も似ているかもしれません。メジャーなブログには、特定の読者層が出来上がりつつあり、木村氏の記事にも見られる、「ブログはコミュニティだ!」という言葉は頷けるものです。
ランカーブログ(ランキング上位の有名ブログということ)はそれぞれに特定読者層を抱えながら、幾つかの極を形成して、今までバラバラに存在していた個々のブログを多極的に集約し、そこでの意見や議論は概ね一定の方向に収束されていくような現象が起こってきているかもしれません。その極同士は、対立、近似、賛同、参考、等の複雑な関係を持っているようにも思います。
コミュニティのよい所は、その中でのルールや参加者同士の関係維持に、さほどの困難を伴わないことであると思うのですが、コミュニティが異なる極に所属する人間に対してどの程度寛容でオープンであるか、というのはよく分りません。個人的な感想では、所属する極が異なる場合には、特定個人のブログにおいて強烈な事態が発生しかねない危険性も見られると思うのです。
一部においては、弁護士の小倉先生がおっしゃられた「コメントスクラム」(コメントスクラムへの対応)という事態が、個人のブログにおいて発生しうるのも事実です。マスコミバッシングや、イラク人質事件のバッシングなども似ていますね。コミュニティ内での裁定は、主に極の中心を形成するランカーによってなされる(一定の見解を示すことで収束させることができる)と思うのですが、極が異なる場合には、裁定者は存在せず、個人対特定集団ということが起こりえるのです。その時に、中立的裁定者を他のランカーが果たしてくれるか、ということも気になります。
一定のコミュニティが形成されると、ある種の村社会のような状況も想定されるのではないかと心配します。その場合の弊害としては、極の中心者に対立する意見を出しにくくなるような気がするし、その他の参加者から批判を浴びせされるかもしれないと感じてしまうのです。勿論これは、管理者であるランカーの方がそういう風潮を排除したり、適切な管理を行えば問題ないのですが、今までこうした場が存在しなかっただけに、不安要素ではあります。
しかしながら、ブログには優れている点が多いと思いますし、今までの積み重ねをさらに生かす方向に進んで行って欲しいと思うのです。極の形成者は何かの「問題提起」を行い、ある一つの意見を提示する。それについて、コミュニティの参加者は議論を重ね、その結果に基づいて、ランカーの方が意見集約を行い、一つの見解を出すという作業ならば、社会的に非常に有効な意見が出せるようになるかもしれません。そのためには、参加者は、より質の高い議論とか、倫理に基づいた言説とかマナー遵守といった、当然の義務を果たさなければならないことは言うまでもありません。ましてや、特定個人の人格批判などは決して許されるものではない、ということです。
これらが本当に実現し、社会的に信頼される情報発信が可能になるならば、日刊紙の社説を上回る重要な意見となり得るかもしれません。単にA or B の議論の対立の行方を見るよりも、新たに生み出される未知の意見Xに期待したい、というのが私の願いです。
<仏全国紙 部数減で大苦戦――ネット普及、無料紙台頭>
フランス日刊紙は軒並み販売部数を減らしている。パリ発刊の3有力紙は2004年、対前年度比で、ル・モンド(33万7千部)が4.2%、フィガロ(33万4千部)が1.7%、リベラシオン(15万部)が0.1%、いずれも減少した。1950年代に最高140万部の部数を誇ったフランス・ソワールは6万7千部まで低下した。
無料紙が新しい読者層を開拓し、「メトロ」紙55万5千部、「バン・ミニュット」紙75万部と部数を伸ばしているのと対照的だ。経済紙レゼコーから昨秋、フィガロ紙編集局長に転身したベイトゥ氏は「健闘しているのは読者を特化したスポーツ紙と経済紙だけ」と語る。
日本と同列に論じることは出来ないでしょうが、以前から新聞の将来像に危惧しておられる「ガ島通信」さんの主張(特集「ネットと新聞」)が垣間見れたように思います。日本では宅配制度が大きな役割を果たしていますが、今後このような無料紙が登場して発行部数を伸ばしてくることは考えられます。日刊紙の情報の多くはネット上で入手できることも、新聞そのものの価値が低下する要因かもしれません。読者層を特化したスポーツ紙や経済紙が健闘しているということは、有料情報を必要とする特定集団だけを対象に選ぶビジネスしか、新聞に道は残されていないのかもしれません。
「特定集団を対象にする」という意味において、ブログ社会(そんなのがあるかどうか分りませんが)も似ているかもしれません。メジャーなブログには、特定の読者層が出来上がりつつあり、木村氏の記事にも見られる、「ブログはコミュニティだ!」という言葉は頷けるものです。
ランカーブログ(ランキング上位の有名ブログということ)はそれぞれに特定読者層を抱えながら、幾つかの極を形成して、今までバラバラに存在していた個々のブログを多極的に集約し、そこでの意見や議論は概ね一定の方向に収束されていくような現象が起こってきているかもしれません。その極同士は、対立、近似、賛同、参考、等の複雑な関係を持っているようにも思います。
コミュニティのよい所は、その中でのルールや参加者同士の関係維持に、さほどの困難を伴わないことであると思うのですが、コミュニティが異なる極に所属する人間に対してどの程度寛容でオープンであるか、というのはよく分りません。個人的な感想では、所属する極が異なる場合には、特定個人のブログにおいて強烈な事態が発生しかねない危険性も見られると思うのです。
一部においては、弁護士の小倉先生がおっしゃられた「コメントスクラム」(コメントスクラムへの対応)という事態が、個人のブログにおいて発生しうるのも事実です。マスコミバッシングや、イラク人質事件のバッシングなども似ていますね。コミュニティ内での裁定は、主に極の中心を形成するランカーによってなされる(一定の見解を示すことで収束させることができる)と思うのですが、極が異なる場合には、裁定者は存在せず、個人対特定集団ということが起こりえるのです。その時に、中立的裁定者を他のランカーが果たしてくれるか、ということも気になります。
一定のコミュニティが形成されると、ある種の村社会のような状況も想定されるのではないかと心配します。その場合の弊害としては、極の中心者に対立する意見を出しにくくなるような気がするし、その他の参加者から批判を浴びせされるかもしれないと感じてしまうのです。勿論これは、管理者であるランカーの方がそういう風潮を排除したり、適切な管理を行えば問題ないのですが、今までこうした場が存在しなかっただけに、不安要素ではあります。
しかしながら、ブログには優れている点が多いと思いますし、今までの積み重ねをさらに生かす方向に進んで行って欲しいと思うのです。極の形成者は何かの「問題提起」を行い、ある一つの意見を提示する。それについて、コミュニティの参加者は議論を重ね、その結果に基づいて、ランカーの方が意見集約を行い、一つの見解を出すという作業ならば、社会的に非常に有効な意見が出せるようになるかもしれません。そのためには、参加者は、より質の高い議論とか、倫理に基づいた言説とかマナー遵守といった、当然の義務を果たさなければならないことは言うまでもありません。ましてや、特定個人の人格批判などは決して許されるものではない、ということです。
これらが本当に実現し、社会的に信頼される情報発信が可能になるならば、日刊紙の社説を上回る重要な意見となり得るかもしれません。単にA or B の議論の対立の行方を見るよりも、新たに生み出される未知の意見Xに期待したい、というのが私の願いです。