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マスコミ批判の感想3

2004年11月19日 10時49分05秒 | 社会全般
コメント欄に書くのって結構難しい。短い文章の中で、的確に表現して尚且つ言葉足らずや説明不足にならないような文章は、難しいのです。これも双方の誤解を生む一因になっているんじゃないかと思う。どうしても直接的な表現になり易い。思いが強かったりすれば尚の事気持ちを表す厳しい言葉を選んでしまい、自分の本当に伝えたい意見と少しずつ乖離していくかもしれません。

それと、意見の数がだんだん増えるにつれ、自分と同じ意見だと心の中で「そうだ、そうだ、その通り」と多数派が更に高揚していくように感じ、次々と意見の厳しさがupするような印象です。多数派の心理では珍しくない現象なのかもしれませんが、本題とは離れてしまうんですが、昔の“糾弾せよ!”みたいなのとか“自己制裁!自省せよ!”のようなのが(正確にはわかりませんが、共産系の運動?みたいなのです)連想され、読んでて怖くなります。


確かにマスコミもよくこういうことをやると思う。コメントが発言者の真意とかけ離れて伝えられる、一部だけ公表されて、意味が変わってしまう、などですね。そこから先は言葉の独り歩きで、コメント出した人が攻撃されちゃったりする。これと同じような現象が、コメント欄でも起こってる一面があるのではないでしょうか。


相手が使った言葉を取り上げて、非難することも多いけれど、何だか子供の口喧嘩みたいになってしまって、ちょっとどうかなって感じがします。揚げ足とりみたいで・・・・。定義がきちんとなされていて、使用する人達に共通認識がないと、同じ言葉を言っても読み手の解釈で変わるなら、それを非難対象にしてもしかたがないんじゃないかな。

例えば「今は女性蔑視が少ない社会だから、女性の社会進出は促進される」と言った場合、「女性蔑視は少ない」は違うだろ、とか。書き手は(以前に比べて)を意図してるけど、読み手は考慮せず否定する。単純に自分の周りの実例とかで判断して「少ない」を否定する。「社会進出」とは何事だ、社会に参加してないと言うのか差別だ、とか。法整備がないから「促進」は違う、とか。

要はいくらでも言い方次第で見た目は「批判」風なものですが、本質的議論にはなってないこともあるのではないかと思います。正確な数値データのような明確なものなら、白黒はっきりしますから、問題ないんでしょうけれど。




多くの非難の声があることを伝えるのは大事だと思いますが、それぞれが全部を表現してもかわらないので、そこからは非難があるならどう変えるべきかということの方が有意義と思います。皿を割ってしまった子供に「どうして割ったの!、バカ!」と言っていくら子供を責めても皿が元に戻る訳でもなく、子供は嫌な気持ちになるだけです。皿を割ったことを責める以上に、何故割れたか理解してもらい、今度から割らないようにするには何に気をつけるのか、という視点から教えてあげる方が大切ではないかと思います。

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