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オール人力狙撃システム試作機

アマチュアらしさ?

2006年12月04日 19時22分47秒 | おかしいぞ
私には全く無縁であったオーマイニュースであるが、ふとした記事を発見したので、感想を書いておこう。

OhmyNews佐々木俊尚さん、本当にそれでいいんですか?

OhmyNewsオーマイニュース批判を考える


どうやら書き手は、ネット世界ではちょっと名の知れた人であるようだ。私は全く知らなかったし、元々の論争の根本原因にも興味はないが、書き手の気持ちが分らないではないな、とは思う。ただ、違和感は確実に残るかな、と思った。



『君たちは、自分たちを批判する声は耳をふさぐか茶化すかして、自分たちの自尊心を甘やかしてくれる声には犬みたいにしっぽを振る。それでいて自分たちのことを「新しい人」だなんて思い上がって、それで本当に恥ずかしくないのか?

君たち、つまり「2ちゃんねらー」だけでも、「ブロガー」だけでもない、「新しい人」たちすべてに問うてるのだ。』




音羽氏はこのように問いかけているようです(リンクの下段の方の記事)。
私は少なくとも「新しい人」でもないし、よく分っていないので返答にはならないかもしれないが、一応書いてみる。


誹謗中傷や罵倒系のコメントが大量に書かれ続けると、私もやっぱり頭にくるし、ウンザリだと思ったりするし、マナーも何もあったものではないなとか思ったりするだろう。それは多くの人が同じようなことを思うだろう。匿名の陰に隠れた卑怯者(by小倉先生風)たちが大量に発生し、そういう連中に荒らされるのが我慢ならない、ということも、そういうことは「止めるべきだ!!」ということも、そうだろうなと思う。


特に個人のブログなんかでそうした事態が発生するのは、「守ってくれる盾」が全くないので、より一層怖い感じがするだろうし、「そゆことはヤメレ」と考える人たちの方が多いと思う。それが一般的なんじゃないのかな、と。ネット上で「炎上・点火をどんどんやっていこう」と呼びかけるような人たちは見たことがないが、「コメントスクラムはやめましょう、マナーを守りましょう」と呼びかける人たちの方が圧倒的に多いと思うけれど、それでも中々炎上現象はなくならないのですね。この理由は分りませんが、何かの心理的なものとかなのかもしれません。普段ネット上に存在していて、何もないのに「炎上狙い」で点火して歩く人たちというのは、その絶対数として多くは存在していないのではないかと思います。


一般人のブログとは異なり、「オーマイニュース」という看板で記事を出している以上、個人のブログなんかとは「一線を画す」という姿勢とか考え方というのは、書き手に求められてしかるべきなのではないかと思います(これには賛否があるかもしれませんが)。しかも、コメントスクラムの参加者たちからは、「書き手」は「オーマイニュース」という「看板の盾」によって一応はディフェンスされており(本当に防衛力が機能しているのかどうかは知らないのですが)、オーマイニュースがその看板の下に「書き手の記事を掲載しておく」という手続きを経る事で、タダの一般個人ではなく「オーマイニュースの記者」が書いたもの、という風になると思います。これは一般個人のブログなんかとは全く異なるものであろうと思います。「1人でも多くの人たちに見て欲しい」ということで記事を出しているわけで、「オマエらなんかには読んで欲しくない」という書き手側からの読者の選別はできないのです。更に、どんなに批判を受けたとしても、それはそれで一つの意見表明であり、大抵はもっと多数の周囲の人々(所謂サイレントマジョリティですか)が「判定」を下しているのではないかと思います。「誹謗中傷や罵倒」の意見に「大賛成だ」と感じる人は実際には少ないだろうし、逆に嫌悪感を抱く人の方がきっと多いと思います。記事の良し悪しや中身は別として。


凄く不味いラーメン屋があるとして、毎日食べに来ては「今日の日替わりラーメンも、今までで最悪の出来栄えだな」「もっとマシなラーメンくらい出せよ」「ラーメン屋止めた方がいいんじゃないか」などと貶すお客たちがいるとして、この方々はラーメン屋の経営にとっては「プラス」なのであり、どんなに「あー、不味い、不味い」と言いながらも「毎日食べに来てくれる」というのは、逆に「店を愛して来てくれる客」と何ら変わらないんですよね(笑)。これはこれで、意味がある、というものです。一番普通の反応は、「誰も食べに来なくなる」というのが多いのではないかと思いますよ。


ちょっと立場を変えて考えてみましょう。
例えば、陸上自衛隊の定数・基地削減問題というのがあるとします。で、「平和を守れ」とか「自衛隊は即刻なくせ」とかの運動を行っている方々なんかがいると思います。彼らの実際の活動状況は分りませんが、時々報道されたりする映像やニュースなんかを見た印象を言いますと、次のような感じです。

「基地はんたーい!米帝の手先は出て行けー!戦争を進める軍国主義者だー!真っ先に基地が攻撃目標にされるー!我々市民の安全を守る為に、自衛隊は出て行けー!」

実際にこの通りには言ってないと思いますが、反対派の方々のデモとかで拡声器を用いたりなんかして、大音量で「攻撃」するわけですね。自衛隊や米軍の基地に行ったり、取り囲んだりして、抗議行動などの「現実的行動」をやっているわけです。冷静に見てみると、そうした運動家たちの抗議行動も、誹謗中傷や罵倒の類と本質的に余り違いがないようにも思えます。


自衛隊駐屯地が存在する地域の住民たちにとっては、別な意見があるかもしれないし、複雑な事情というのがあるかもしれないですよね。たとえ少数派であるにせよ、当事者たちにとっては、もっと別な見方もあるのです。人口の少ない町村であれば、駐屯地があることで住民の1割とかそれ以上かもしれませんが、大きな収入源になっていることもあります。駐屯地があるからこそ、道路や町の施設整備関連の予算を毎年貰えるかもしれませんよね。地主だった人たちにも、何らかの借地料だか地上げ料金だかが入ってくるかもしれない。基地関連の働き口が増えるかもしれないし、人口が若干増えるので他の需要(小売・飲食・娯楽等)も増加するかもしれない。そういう利害関係だってあるので、一概に基地や駐屯地があるからといって「はんたーい!!出て行けー!!」とはならないんじゃないでしょうか。反対じゃない当事者たちは、じっと静かに見守っているのに、どこからか現れて大袈裟なデモだとか反対運動なんかを展開された日にゃ、「いい加減にしてくれ」「たまったもんじゃない」「うんざりだ」(笑)と思っているかもしれません。それに賛成派であれば現実行動の意味があまりないので、「賛成ー!賛成ー!」などと反対派のデモ隊みたいな活動はしないでしょうね。賛成の数が多くても少なくても、そうだろうな、と思います。


要するに、こうした反対運動の方々の行っている「抗議行動」というのはある種の「闘争」活動みたいなもので、これと、オーマイニュースの記事に「誹謗・罵倒」を投げつける活動と、本質的に異なることというのは何でしょうか?私には、あまり違いがあるようにも思えないんですよね。


自衛隊反対派とか基地反対派の意見が少数派だとしても、それを「無視していい」とは思っていません。意見表明なのだから、それを「止めろ」と禁止することは難しいのではないかな、と思いますけれども。これに似た構図は案外と色んなところにあるんじゃないかな、とも思いますね。なので、オーマイニュースの記事に、簡潔に表現すれば「はんたーい!!」を連呼する人々がコメントに参入してきたとしても、これを止めるべき理由というのはないように思えます。勿論、法的に問題のあるようなものについては「定型的な基準」とかで削除できるのは当然であるし、更に管理側の基準として「一定のルール」を周知し、それに違反するような場合には「削除」という措置を取ることも可能であると思います。ドレスコードのあるレストランに行って、「お客様の服装では入店できません」と断る場合には、店側に判断の基準があるのは普通なのではないでしょうか。そういう作業で済むようなものではないでしょうか。それ以外については、反対意見ばかりが大量に出されようとも、そういう意見なのだな、と考えるしかないように思います。


プロの書き手とか、プロの漫画家でもいいのですけれども、そういう人たちはどんなに「駄作だ」「つまんねー」「こんなのアホしか書かない」だの罵倒されようとも、黙々と書いていくのではないでしょうか。実際どうなのか知らないのですが、プロの書き手が読者全員に「つまらん誹謗はやめろ」と言ってみたところで、仕方のないことのようにも思えます。ネット世界が「理想郷」であればいいのかもしれませんが、逆に、過度にそういう「理想」を追い求めすぎることの危険性というのも潜んでいるかもしれないな、と思ったりもします。音羽氏のちょっと「選民思想」がかったような(これはあくまで私個人の印象ですけど)文章を読むと、そうした潜在的危険性をちょっと感じます。


音羽氏の記事(リンク上段の方)から一部引用しますと、次のような記述が見られます。


「日本のネット文化」において冷笑的な罵声を浴びせかけるような「2ちゃんねる的なもの」はマイノリティだったわけである。というより、「日本のネット文化」は、家庭にパソコンがあり、さらにそれがインターネットにつながるという環境がごく少数派だった地点から始まっているのだ。我々は誇り高き少数派であった。自分たちが「ごく普通」であることなど夢見たことがなかった。

 「2ちゃんねる」のような冷笑的な態度というものは鬼子ではあるが、それは我々「誇り高き少数派」から流れる「文化」なわけである。なぜ、そんなものを「ごく普通」などと安易に一般化できるのか。

 だいたいにして、聞くに堪えない罵声が「ごく普通」である文化などに、可能性などあるのか。

(中略)

オピニオン会員の間に発生したのは「新しい文化」などでは決してない。それには人数が少なすぎた。オピニオン会員の間で発生したのは、このような「腐った内輪」である。

 例えば、少ないながらも「ひと言」欄については、ぼくが書いたような冷めた意見(=ひと言欄などなくてもいい)もあったわけである。しかし、それに関しては佐々木さんは考慮にも入れてくれないのだ。それはなぜか? 佐々木さんは「空気」を「集約」するとおっしゃられるが、オーマイニュースは「ひと言」欄だけの場所ではない。

 「ひと言」欄での上記の出来事のような「内輪受け」の雰囲気を嫌うぼくのような記者や、「内輪」での集団的誹謗を怖がる記者もオーマイニュースの一員である。

 佐々木さんはどのような権利でもって、「内輪を拒否する我々」を「排除」しようとするのか?




こうして見ると、「誇り高き少数派」とか「内輪を拒否する我々」とか、結構刺激的な表現が並ぶのですが、これこそが音羽氏の非難している「内輪」であるようにも見え、誹謗や罵倒を繰り返す少数の人たちと同じく「腐った内輪を拒否する、誇り高き少数派」(=ある種のコミュニティかな?)を形成していて、「自分たちを批判する声」に耳を塞いでいなと言えるでしょうか?「出て行けー!」とけたたましくシュプレヒコールを繰り返す反対運動の少数活動家たち(の意見)を排除することが、果たして理想的でキレイな世界なのだろうか?「腐った内輪」を取り除けばよい、というのは、まさしく「選民的」発想に繋がってないだろうか?その危険性を自ら感じ取ったりしているだろうか?


自分たちに何かの信念があり、不当な誹謗中傷などには断固として対抗せねばならない、と考えているのであれば、その信じるところに従って書き続けるのが「書き手」の役割ではないでしょうか。ルールを無視するような「コメント」については、そのルールを明示して機械的にどんどん「削除」すればいいのです。ペインティングなんかの「悪戯書き」も同じです。書き込んでも「ソッコウで消される」となったら、段々と書くのが減ってくるのだそうです。それを積み重ねていけば、次第に悪質な罵倒や誹謗中傷を書き込む雰囲気ではなくなるでしょう。それが可能になるのは、やはり「記事の内容」によるのではないかと思います。質を高めること、自分たちの意図を正しく伝える努力をすること、そういうこと以外にはないと思います。先のラーメン屋の例ではありませんが、いつまで経っても「不味いラーメン」しか出されなければ、どんなに自分たちが「誇り高き少数派」と自認していても「不味い」と言われてしまうかもしれず、そうであればいずれラーメン屋は潰れてしまうと思います。


デモ隊のシュプレヒコールの自由を完全になくすことを目指すよりも、「なぜそのように考えるのだろうか?」「どうして、反対と言っているのだろうか?」ということに目を向け、考え方を理解してもらう努力をするべきなのではないか。大量に投げつけられる反対意見の裏側に何があるのか考え、それを説き伏せるような記事を書くことも必要なのではないだろうか。


「ミサイルの追尾レーダー基地が攻撃目標として狙われる」と信じていて、その為に「基地反対!」と言っているのであれば、その可能性がいかに少なく、もしも万が一攻撃を受けた場合にでも、住民に被害が想定されるような攻撃手段がどれほど限られたものか、その実行可能性がどうなのか、というようなことを平易に説明することも必要なのではないかな、ということです。これを説明せず、ただ単に「基地反対というのは間違っている!反対のシュプレヒコールは不快だ、そういう腐った活動グループは排除され、消えればいい」と言うだけでは、あまり理解は得られないのではないでしょうか。説明しない、ということを選択するのは自由ですので、それでもいいでしょうが、双方ともに前進はなく、紛争はただ続いていくだけのような気がします。

この様子を黙って見ている人たちは、どのような評価をして、どのように考えるでしょうか。


プロの書き手はそういう色んなことを考えるし、読者から自分に向けられる批判も、著名人からの辛辣な批評を受けることも、全て予め「起こりえる」ものとして書いていくのではないでしょうか。それを受容できず、下らない批判は許容できない、とするのは、単なる同好会的なアマの書き手の集まりみたいな感じがします。参加者同士で「キミの詩は~が素晴らしいね」「いやあ、アナタの方こそ○○の表現が最高だね」なんて具合に、慰めあうのを「よし」とするなら、それでもいいでしょう。その選択は自らが行うのであり、それが「我々記者が作っている『オーマイニュース』なんだ」ということであれば、所詮「アマの同好会」なんだな、と思われても止むを得ないのではないでしょうか。


<全然関係ないのですが、今シリーズで書いてる中で、「洗練」ということを取り上げてますが、今回の記事にもちょっと関連するので、いずれ触れたいと思います。>



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