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「法学が経済学を笑う」の図

2008年07月08日 22時10分40秒 | 俺のそれ
自分の専門分野でもないのに、どうしてそんなに自信たっぷりに笑えるのか、私にはよく判らない。ああ、いつも自分でもやっちまっていたかも。ごめんね。

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どうやら、安冨氏の著書についてのお話らしい。それについては、私には論評できるような知識も能力もありません。
一応、公表されている書評では次のようなものがありました。
今週の本棚:山崎正和・評 『生きるための経済学…』=安冨歩・著 - 毎日jp毎日新聞

随分と難しい本のようです。苦手なんだよね…こういう学術っぽい本は。
勇気を持てれば、チャレンジしてみようかなと思いますけど、基礎的な知識がなければ分野が広すぎて自分の手に負えないかもしれないです。


話を戻しますが、大屋氏は法学の専門家ではあるかもしれないが、他人の経済学の著書を『イタイ』と断言できるほどに造詣が深いのか、自分には喝破できるくらいの自信がおありなのでしょう。ひとごとなので、まあ、どんだけ自信をお持ちだろうがどうでもいいんですけどね。
憲法学者とかいう肩書きで経済学分野に首を突っ込んできては過った解説を繰り返し、果ては法学分野についての問題さえも、どうみても無理じゃないのという「憲法違反だ」の論理を展開する、「口は弁護士、心は詐欺師」っぽい法学教授さえも存在するようですので、日本の法学界ではそう珍しいことでもない、ということなのかもしれません。某教授の「違憲だ」を真に受けて訴訟提起した業者がいたというような報道を未だ知りませんが、それは何故なのか不思議でなりません。ひょっとして、敗訴濃厚だからでしょうか?(笑)


話が逸れました。
大屋氏の「メタレベルの研究者は皆わかっている」というような話は、そう簡単に頷けるものではありません。
上限金利規制問題を思い起こせば、例えば金融庁資料には、例の坂野早大教授の提示していた「超過需要」の説明がグラフとして掲載されておりました。どう見ても、現実との適合性について検討された形跡などない、ということは指摘しておきましょう。
堂下先生の示した例の正規分布の図にしても、正規分布であることがそもそもの前提ですが、本当にそうした分布であるかどうかを検討した結果など誰も出していない、ということもあります。


一応、タレブの『ブラック・スワン』という本もあるみたいですので、そちらも読んでみるといいのかもしれません。既存の経済学への批判というのは、様々なものがあるようですからね。何も日本人研究者ばかりではありません。

不思議に思うことは、例えば、「需要・供給曲線がよいモデル」みたいにどうして思えるのだろうか、ということですね。なんというか、「無条件受け入れで当然」と考えているからなのか、「モデル批判するヤツラはみんなトンデモだから間違っている」と考えるからなのか、何らかの理由はあるのでしょう。
でも、モデルへの批判は別にいいと思うし、現実との適合性とか乖離具合を考えるのは全員そう思っているよ、というような確信の源もよく判らない。そんなに個別の修正モデルみたいなものを必要とするのであれば、それは「一般的な理論」ということではないんじゃないか、と普通は考えそうだろうと思うけど(笑)。


理想気体の話が出ているからそれで喩えてみれば、「ボイル・シャルルの法則」が基本的モデルであるけれども、それは「個別の気体ごとで異なる」ということではない。つまり、水素と酸素と窒素と二酸化炭素と…みたいに、個別の気体ごとに「現実と乖離している」とかいう話にはならない。「より一般的」な前提条件で成立しているモデルである、ということですね。経済学の理論では現実乖離があるのは当然で個別に検証するべきことだ、みたいに言うのであれば、水素と酸素では観察結果が違っているモデルであってもよい、というようなことになるだろう。つまり一般性という点において、はるかに劣ったモデルである、ということではないかと考えるのでは。言い換えれば、それだけ「正確性に欠けるモデルに過ぎない」というだけの話ではないか。経験的観測結果で導かれるモデルであっても、「ボイル・シャルルの法則」がダメな理論だな、とは私自身は思わないが(先端研究等を行っている方々であればもっと異なる意見があるかもしれません)、需給曲線で価格決定できるという経済学理論であると「あんまり信頼できないね」としか思いませんね。


いや、それは過去の研究者たちや経済学者たちがバカだな、とか思うというわけではありませんよ。しかし、モデルとして考えた場合には、未だ途上であってそれは他の物理化学などの成果から見れば、「後方に位置しているのではないか」という意味あいのものです。

例えば、ワルラスは一般均衡理論に多大な貢献をした。需要や価格の研究を行ったが、その当時の主流派にはなれなかった。だが、新古典派たちは再びワルラスに注目し、経済学理論の中では脚光を浴びることとなった。
ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ - Wikipediaは、限界効用の研究で成果を挙げた。だが、多くの人々がバカにするであろう「太陽黒点説」を出したのも彼だった。これはジェヴォンズがアホだったからではない。十分に賢かっただろう。現代人の圧倒的大多数よりもはるかに「頭が良かった」はずだろう。だからこそ、「太陽黒点説」を出すのだよ。彼らが愚かなトンデモ研究者に過ぎない、とは誰も評価したりはしないだろう。ただ、研究成果は検証に耐えうるものであるかどうかは、当然のことながら問題にされる。それは学問だからだ。


需給曲線と価格の研究に貢献した人たちの出した理論であっても、その理論が始めから受け入れられていたわけではないだろう。研究というのは、そういうことがよくあるものなのかもしれない。
更に、ケインズは古典派経済学を批判し、一般均衡理論も批判対象であった。「現実とかけ離れているから」だ(笑)。新古典派たちが登場するようになってから、ケインズは逆に批判される立場となり復権してきただけだろう。モデルに関する論争というのは、今に始まったことなんかじゃない。数百年来の出来事の一部に過ぎないだろう。一般均衡理論の前に存在していた重商主義だの重農主義だのといった経済理論だって、当時にはそれは流行のモデルであったろう。しかし、時代と共に批判に曝され、一敗地に塗れてしまった理論であろう。

今あるモデルや理論が、将来時点から振り返ってみた時に、こうした重商主義や重農主義とは「絶対に違うんだ」という強い確信というか信念みたいなものの根拠とは一体何なのか、いつも不思議に思うのですよ。自信満々に経済理論が正しい、みたいに言ってる連中を見かける度に、彼らを支えるその信心みたいなものは、どこから湧いてくるんだろうか、と。
葬り去られてしまった旧式の理論に過ぎないかもしれない、みたいな、不安のようなものや疑念のようなものが、そこには存在していないんですよ。それは盲信と一体何が違うのでしょう?(笑)


私から見れば、ワルラスもケインズもジェヴォンズも、或いはケネーさえも、大変頭の良い優秀な研究者であったろうと思いますね。全員、自分なんかよりも百万倍優れていると思いますね。そういう人たちが一生懸命考えたんですから、少なくとも私のショボイ脳みそより賢く考えることができたはずなのですよ。違うのは、持っている情報の質と量(当然人類の経験の量というのもある)が、後世に生まれた分だけ「私の方に分があるだろう」ということくらいです。なので、仮に彼らの考え方や理論なんかに間違いがあったり、現在の先端理論とは合わない部分が含まれているとしても、彼らの功績が揺らぐこともなければ能力に疑問を抱かせるようなことは決してありません。あくまで、「私にとっては」、なんですけどね。優れた立派な研究者たちだったんだな、と思うだけです。


また、喩え話で申し訳ないですが、こちらを。

第1節 神経

生物の研究というのも、かなり昔からありますけれども、多くは間違っているとか理論としてダメなものがあるわけです。
ここの中では、神経の研究の話が出ていて、カエルの実験があったりします(現代の子どもたちと何ら変わりませんね、笑)。イカだのタコだのそういう生物を使って研究なんかが行われていたんですね。面白いですよね。
(以下、引用部は『 』で示す)

古い時代だと、こんなことがあったようです。
『1791年にイタリアの解剖学者ガルヴァーニはカエルの脚標本が2種の金属に触れて収縮するという現象を発表した。彼はこれを筋肉が外側に陽電気を,内側に陰電気を蓄えているために起こり,金属で短絡することで放電が起こると考察した。この生物電気の考察は間違っていたが,社会的には医師の治療に金属弓(銅と鉄で作られた電気ピンセット)が利用されるなどの強い影響を与えた。』

ボルタ電池のボルタさんと論争になったようですね。ガルバニ電池 - Wikipediaも知られています。多分、今で言う「ガルバニー電流」の語源は、多分これではないかと思います。

当時のモデルでは「外側に陽電気、内側に陰電気」ということが考えられていた、ということですね。しかも金属弓が治療に利用されたという「現実さえ」あります。

更に時代が進んで、
『ベルンシュタインは生体膜が陽イオンのみを透過し,陰イオンをまったく透過させない選択的透過性を仮定した。その結果,膜を隔てた分極が発生し,静止電位が生ずる。興奮時には一時的に選択的透過性が消失し,すべてのイオンに対する透過性が増して膜は脱分極して活動電位が発生すると考えた。』
と、モデルは変わるわけです。
約100年後の1900年頃では、「以前のモデルと異なる」という新たな理論やモデルは登場してくるわけです。

しかも、『実際には上記のような選択的透過性は人工膜では認められても生体膜では成立しなかった。』ということで、実験観察の結果と生体では異なるということでした。が、
『ボイル(1941年)は筋肉の静止膜はK+とCl-を透過するが,Na+とその他の陽イオンを通さないことを明らかにした。』
ということになり、膜透過性の話はとりあえず実際にかなり近づいたということです。
その後に研究は進み、膜透過性だけではなくチャネル構造や活性・不活性化ゲートというような細かい部分まで明らかにされていくのです。

昔は、ガルヴァーニ先生が提唱したモデルであるところの「外側に陽電気、内側に陰電気」という説(ボルタ先生は違うぞ、と言ったのですけど)があったわけです。別に学問や科学を知らない人間がモデルの提唱をするのではなく、きちんと研究している人が言うわけなんですよ。ボルタ先生の方が正しかったのが判明しますけれど。
それが時代が進むと、陽イオンのみ通すという選択的膜透過性理論が出されますが、実証とは異なり生体膜では観察されませんでした。現実の観察結果とのギャップを埋めるべく研究を重ね、更に実際のモデルに近づいていく、ということです。すると、観察結果との一致の具合はよくなり、適合度が増すのですから、実際のモデルにかなり近いよね、ということが判るわけです。そうして「より一般的な理論」として認識されていくようになる、ということですね。


さて、話を戻しますと、需給曲線と価格というのは、ガルヴァーニ先生の提唱したモデルくらいのレベルでしかないのではないか、という風にお考えになる方々は滅多にいないのでしょうか?(笑)

現実との乖離が著しいのではないか、という疑問は当然に起こってくるわけです。適合度を個別に詳しく検証しなければならんな、ということを全ての研究者が当たり前であるとしているなら、かなり「一般的ではない」理論を用いて考えているのだな、議論しているのだな、という程度の主張しかできないはずでしょう。そんな程度でしか判ることもないし、説明できないんですから。私がこれまでに幾度となく指摘していることというのは、そういうようなことなんですよ。にも関わらず、異常に強固な自信とか確信を持って「経済学的には~が正しい」みたいに、どの口で言うんでしょうか、って話だな(笑)。「理想気体」レベルに届くまでには、まだ早いんじゃないですかね?個別分野での研究だけなら、もうちょっと評価は変わるかもしれませんが。

それがですね、こと経済学の話になると、「いや、既にこの理論は確立されているから正しい、これはみんな正しいと言っている」みたいに、無批判に受け入れる姿勢とかを見るに、「自分だけは本当のことをわかっていると笑っている」のは一体どこの誰なんだろうね、って思うことはあるね。本当にそうなの?という素朴な疑問にすら「答えられない」くせに、理論的に明らかとか経済学モデルでは正しい、みたいに豪語できる奴らのツラを拝んでみたいもんだ、とは思いますな(ダジャレ、失礼)。
少なくとも、ケインズがclassical な経済学者たち―当時では大御所に噛み付く役回りは「異端のケインズ」であったろう―を向こうに回し、何故彼らのモデルを批判する内容の『雇用・利子及び貨幣の一般理論』を著したのかということを考えることは決してない、ということはよく判りましたよ。モデルは進歩しなければならない、とも考えず、学問への新たな挑戦も必要ではなく、当時に主流でありさえすればそれは「最上のモデルなのだ」と考えてしまう人間は多いのだな、ということも改めて判りました。
なんぼ抽象的モデルだから、っていっても、「外側に陽電気、内側に陰電気」みたいな単純モデルにずっと押し掛かるのはダメなんじゃないの、とは思いますけど。もっと完成度の高い理論であれば、そこから先の世界というのは違っているだろうとは思いますがね。

経済学での「○○理論」が間違っている、ということは、私には判りませんが、「現実の説明にはなっていませんね」ということはある程度判りますわな。
それは物理化学的法則の何かがまだ不明の為に、筋肉細胞や神経組織という「システム」の説明ができないのか、物理化学的法則は正しく揃っているけれども筋収縮させる「システム」を構成するどこかのピースが不明なので上手く説明できないのか、そういった違いさえも未だに解決できないでありましょう。


何度も似たようなことを書いてきましたが、超えられない壁みたいなものはあるんだろうな、ということでしょう。



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