カトリック情報 Catholics in Japan

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モリモンド村のお医者さん(7)

2017-10-27 03:57:58 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、16

◆、モリモンド村のお医者さん(7)

 かれの働きは、それだけで満足しませんでした。青年会と壮年会の人々のため三日間の黙想会を計画し、かれ自らその会場となったイエズス会の修道院につれて行ったのです。わずかな会費であるにしても、ある貧しい農夫の子どもには払えません、これに気付くと、自分でそれを支払ってやるのが常でした。

 けっきょく、パンプーリは、すばらしい教皇ピオ十一世の方針に従って、りっぱなカトリック運動を指導したのでした。

 その当時、イタリアでは、ムッソリー二のファシスト運動が始まっていました。この運動は特に田舎の人々の間に拡がろうとしていたのです。かれらファシストたちは、百姓たちを党に引き入れようとして捧で叩いたり、ひまし油を飲ませたりなどして、むりに賛成させようとしていたのです。

 はじめバンプーリ先生は、他の医者たちが加入したので良いものと思い、医者の全国ファシスト連合組合に名を届けたのですが、間もなく本当のことが分かりはじめました。それは、ファシストたちは、パンプーリ先生の活動を喜んでいなくて、村長もぐるになってパンプーリ先生の働きを妨げようとしていたことです。パンプーリ先生は、政治問題に干渉はしませんでしたが、ファシスト運動のかくれた弱点に気づいたのです。つまり、ファシスト運動は、愛国主義の名にかくれて一般市民の自由を圧迫していました。それはかりか、この運動は宗教の自由までも圧迫することになると分かったのです。それで、さっそくこのファシストの組合から脱会しました。そればかりではありません。

 かれは勇気にみちた手紙をもって自分の考えを示しました。

政治の目的   聖トマス・アクィナス 

2017-10-27 03:54:56 | 格言・みことば
人間がこの世で善く生きる生活が、目的としては、天上において約束されているところの浄福の生活へと向けられているように、人間に必要とされる何らかの個別的善、例えば富や利得、健康や弁舌の才、学問といったものは民衆の善という目的に向けられているのである。それゆえもし上述のように、終局目的に関する管理を司る者がその目的よりも下位にある目的の管理を担う人びとの上に立ち、その人びとを命令によって指導しなければならないとすれば、そこから明らかとなるのは王は聖職によって司られるところのいわば支配と統治には服従しなければならないが、他方においてすべての人間的職務に関しては、それらを管理し、自己の統治上の命令権によって指導しなければならないということである。

聖トマス・アクィナス 『君主の統治について』

聖フルメンチオ司教    St. Frumentius E.

2017-10-27 03:52:41 | 聖人伝
聖フルメンチオ司教    St. Frumentius E.     記念日 10月27日


 アフリカ北部のアビシニアは、住民いずれもキリスト教を奉じているものの、それは遺憾ながらカトリックでなく、コプトと称する離教である。しかしその地方にはじめてキリスト教を伝えるに最もあずかって力あったのは4世紀のわがカトリック聖人フルメンチオ司教に他ならない。
 彼は小アジアのチルスに生まれ、少年の頃弟エデシオと共に伯父メロピオに連れられ、海路インドまで行ったが、その帰途食糧ならびに土地の産物を積み込む為舟がアビシニアの某所に寄港した所、土着民の襲撃を受けて、二少年を除く外乗り組みの人々はことごとく殺されてしまった。そしてフルメンチオ兄弟は国王の宮殿へ連れ行かれ、奴隷に売り飛ばされたのである。
 しかし国王は利口そうな二人を愛し、兄フルメンチオには書記役を弟エデシオには小姓の役を言いつけたのに、フルメンチオ等はいずれも役目大事と陰日向なく勤めたから、王の信任は益々加わり、次第に位も昇進し、王の崩御に際しては自由の身となる恩典に浴した。
 ところが皇后は彼等兄弟に、幼き太子の守り役たらんことを望んだので、彼等もかかる重任を委ねられた知遇に感激し、滅私奉公、ただただ国の安寧、人民の幸福のみを念として政事を執ったが、小さい時からキリスト信者であったフルメンチオ等はあらゆる福利は宗教からと確信し、その国にもキリスト教を弘布したいものと考えた。そこで彼等は国民をキリスト教に親しませる為、アビシニアの港に来り貿易する外国商人の中、キリスト教を奉ずる者は努めてこれを引き留めるようにし、その為立派な教会を建ててやり、そこで儀式勤行を執り行わせた。
 その中太子も無事成人されたので、二人は暇を願い、エデシオはチルスに戻って司祭となり、フルメンチオはアフリカに於けるキリスト教の本山と称せられるアレクサンドリア市に赴き、総主教アタナシウスにアビシニア布教の為、司教並びに宣教師等を遣わされんことを請うた。かくて各地の司教達が参集したある教議会の席上、アビシニアの布教地として有望な事を説明したフルメンチオの熱心には、総主教も深く感心し「それではお望みに任せてアビシニアに宣教師達を送りましょうが。その総帥として貴方は、勝った適任者はありますまい」と他の司教達とも相談の上、彼を司教に祝聖してアビシニアの布教をこれに委任した。
 それからフルメンチオはアビシニアに帰り、アクマ市に司教座を定め、宣教に活躍し、多大の効果を収め、アブレハ王を始め数多の人々に洗礼を授けたが、彼等の信仰は頗る堅く、やがて東ローマ帝国の後援を恃みに、アリオ派の異端者達がしきりにその謬説へ引き込もうとしても、ついに如何ともすることが出来なかったほどである。
 フルメンチオの終焉は明らかでないが、アビシニア人等は後、不幸カトリック教から離れても、いまだに彼を聖人と崇め、アビシニアの使徒と仰いでいる。


教訓

 我等は聖フルメンチオから布教に対する熱心を学ぼう。彼はアビシニアの人民を幸福にすべく、彼等にキリスト教を薦めた。我等も愛する人に幸福を望むならば、彼等に正しい信仰を与えねばならぬ。