『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、16
◆、モリモンド村のお医者さん(7)
かれの働きは、それだけで満足しませんでした。青年会と壮年会の人々のため三日間の黙想会を計画し、かれ自らその会場となったイエズス会の修道院につれて行ったのです。わずかな会費であるにしても、ある貧しい農夫の子どもには払えません、これに気付くと、自分でそれを支払ってやるのが常でした。
けっきょく、パンプーリは、すばらしい教皇ピオ十一世の方針に従って、りっぱなカトリック運動を指導したのでした。
その当時、イタリアでは、ムッソリー二のファシスト運動が始まっていました。この運動は特に田舎の人々の間に拡がろうとしていたのです。かれらファシストたちは、百姓たちを党に引き入れようとして捧で叩いたり、ひまし油を飲ませたりなどして、むりに賛成させようとしていたのです。
はじめバンプーリ先生は、他の医者たちが加入したので良いものと思い、医者の全国ファシスト連合組合に名を届けたのですが、間もなく本当のことが分かりはじめました。それは、ファシストたちは、パンプーリ先生の活動を喜んでいなくて、村長もぐるになってパンプーリ先生の働きを妨げようとしていたことです。パンプーリ先生は、政治問題に干渉はしませんでしたが、ファシスト運動のかくれた弱点に気づいたのです。つまり、ファシスト運動は、愛国主義の名にかくれて一般市民の自由を圧迫していました。それはかりか、この運動は宗教の自由までも圧迫することになると分かったのです。それで、さっそくこのファシストの組合から脱会しました。そればかりではありません。
かれは勇気にみちた手紙をもって自分の考えを示しました。
◆、モリモンド村のお医者さん(7)
かれの働きは、それだけで満足しませんでした。青年会と壮年会の人々のため三日間の黙想会を計画し、かれ自らその会場となったイエズス会の修道院につれて行ったのです。わずかな会費であるにしても、ある貧しい農夫の子どもには払えません、これに気付くと、自分でそれを支払ってやるのが常でした。
けっきょく、パンプーリは、すばらしい教皇ピオ十一世の方針に従って、りっぱなカトリック運動を指導したのでした。
その当時、イタリアでは、ムッソリー二のファシスト運動が始まっていました。この運動は特に田舎の人々の間に拡がろうとしていたのです。かれらファシストたちは、百姓たちを党に引き入れようとして捧で叩いたり、ひまし油を飲ませたりなどして、むりに賛成させようとしていたのです。
はじめバンプーリ先生は、他の医者たちが加入したので良いものと思い、医者の全国ファシスト連合組合に名を届けたのですが、間もなく本当のことが分かりはじめました。それは、ファシストたちは、パンプーリ先生の活動を喜んでいなくて、村長もぐるになってパンプーリ先生の働きを妨げようとしていたことです。パンプーリ先生は、政治問題に干渉はしませんでしたが、ファシスト運動のかくれた弱点に気づいたのです。つまり、ファシスト運動は、愛国主義の名にかくれて一般市民の自由を圧迫していました。それはかりか、この運動は宗教の自由までも圧迫することになると分かったのです。それで、さっそくこのファシストの組合から脱会しました。そればかりではありません。
かれは勇気にみちた手紙をもって自分の考えを示しました。