カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

そのまなざしを  リジューの聖テレーズ

2017-11-27 07:06:47 | 格言・みことば
どうぞ、御身の聖い御まなざしを、数多くの小さい霊魂にお注ぎ下さい。どうぞ、御身の愛にふさわしい小さいいけにえの群れをお選び下さい!

リジューの聖テレーズ

聖フランシスコ・アントニオ・ファザニ司祭

2017-11-27 07:05:44 | 聖人伝
聖フランシスコ・アントニオ・ファザニ司祭        記念日 11月27日


 1681年南部イタリアのルーチェラ市の貧しい家族に生まれたこの聖人は、若いときにコンベンツァル・フランシスコ会に入会し、そのすぐれた生活のために「よみがえった聖フランシスコ」と呼ばれるようになった。1705年司祭に叙階され、当分の間神学院で教えて、そののち、特に庶民の司牧にあたり、貧しい人、苦しむ人に対して、つきることのない愛を示した。クリスマスに際して、プレゼントを集め、貧しい人に与えるよい習慣を始めたのは、この聖人である。無原罪のおんやどりの聖母に対する信心を人々に教え、今でもルチェラ市に歌われる美しい讃美歌を作曲した。よく説教していた彼のねらいは、一般の庶民にもわかりやすく話し、神とそのおきてに対する愛を人の心に教えこむことにあった。

ポルト・マウリシオの聖レオナルド司祭証聖者  St. Leonardus a Portu Mauritio C

2017-11-27 07:03:48 | 聖人伝
ポルト・マウリシオの聖レオナルド司祭証聖者  St. Leonardus a Portu Mauritio C.   記念日 11月26日


 ポルト・マウリシオはイタリアのジェノヴァ地方の海に臨んだ一小都市に過ぎないが、大聖レオナルドを出したことによってその名を全世界に知られている。
 この聖人は1676年同市に産声を挙げた。両親は共に善良な人々であったが、わけても船長の父親は信心深く、その界隈の模範人物と仰がれていた。レオナルドも祈祷や善徳を愛する心を、この父から受け伝えた。一二、三歳になると彼はローマに遊学したが、師友は彼を目にするに第二のアロイジオを以てしたという。彼はその頃から既に、余暇を利して大人子供の誰彼に教会に参詣して天主の御言葉を聴聞するよう奨めなどしたのである。
 彼はそれから医学研究の目的で大学へ入った。けれども間もなく修道者となる事に天主の召し出しを感じ、何れの教団に加わるべきか思い惑うている中、或る日途上で二人のフランシスコ会修士を見かけ、深い感銘を受けた。で、彼は相手に知れぬようこっそりその後をつけて彼等の修道院まで行き、その付属聖堂に入った所、ちょうど修士達が「ああ天主よ、我等をして主を仰がしめ給え」と祈っていた。彼は之こそ主の己を呼び給う聖言と思い、早速同会に入会することとした。彼の寄寓先なるローマの伯父はそれと知るや烈火の如く怒り、すぐ様甥を自宅から追い出したが、敬虔な父はわが子の修道を喜んで許してくれた。それは1697年のことであった。
 彼は入会の第一日から一切の戒律規則を綿密に遵守実行し、毎週何か一つの徳を特別に目ざして之を完全にわがものとするよう努め、いやしくも心を許して退転することはなかった。
 その頃彼も他の宣教師達と同様殉教の誉れを望んで、中国に派遣されん事を願い出た。しかし不幸種々の妨げがあってこの志は実現されなかった。彼はそれを一方ならず遺憾に思ったらしく、後にしばしば「私はキリスト様の為犠牲となる資格がなかったのです」とさも悲しげに言ったとの事である。
 レオナルドは司祭になると、哲学の教授に任命された。しかし間もなく健康を害し、医師に診て貰うと肺患という診断である。彼はそれからローマ及び故郷のポルト・マウリシオで二、三年もあらん限りの手を尽くして療養したが、病勢の快復は一向はかばかしくない。で、彼自身も医者や薬に見切りをつけ、今度は天主の御母に依り縋って、もし幸いに全快したら、余生を罪人の改心に献げましょうと誓いを立てた。すると不思議にもさしもの難病もめきめきとよくなって、以前に優る健康体に帰る事が出来たから、レオナルドは誓いの実行に取りかかり、まず自分の修道院の聖堂で説教したり、十字架の道行きの信心を始めたりした。それはまだよそで説教する許可を長上から貰えなかったからであるが、いよいよそれが与えられると、或いは二、三日から一週間に亘り、日に数回説教して華々しい活躍を始めた。人々は之を黙想会と名付けたが、その名は今なお用いられている。
 レオナルドの試みは大成功であった、最初の年はジェノヴァ地方の町々村々で説教したが、1709年から40年間は、イタリアの他の諸地方で之を行った。彼は至る所で歓迎され、聴衆は潮のように押し寄せた。説教がすむと彼は告白を聴いた。勿論そんな夥しい人々の告解は彼一人で聴き切れる訳のものではない。長上は彼に幾人かの助手を与えた。彼はこれらの助手を引き連れて諸所を巡回、黙想会を開いた。彼等はレオナルドの計画に従って働き、厳格極まる生活を営み、殆どたえず大斉し、唯人の施しによってのみ生計を維持し、自分等に肝要欠くべからざるものの他は、悉く貧者に分け与えた。そして病人の見舞いを除いては人を訪問せず、他の司祭達と心を合わせて祈った。彼等の説教が常に多大の効果を挙げ得たのは、一にかかる苦行生活の賜物であったのである。
 彼が黙想会を開く度に、わけても力を込めて説教するのは、キリストの御受難に就いてであった。その時彼の言々句々は異常な熱を帯びて人々の肺腑を抉り、聴く者いずれも涙せぬはなく、罪人は断腸の思いで改心するのであった。そしてその主の御苦難を深く肝に銘じさせる為に、彼は黙想会の終わりには必ず自分の考案した十字架の道行きの勤めを行うのを常とした。
 レオナルドはまた聖母に就いても説く事を怠らなかった。前記の通り彼は聖マリアの御助けによって病魔を撃退する事が出来た。故に感謝報恩の一念から至る所にその崇敬を奨め、聖母讃頌の行列を催し、その聖像を捧持して全市を練り歩きなどした。なお彼は煉獄に関しても度々煉獄に関しても度々語り、そこに苦しむ憐れな霊魂達の為に数多の御ミサを献げて熱心に祈った。
 1740年教皇ベネディクト14世はレオナルドをローマに招き、その五つの教会に於いて黙想会を開かしめられたのに怒濤のような大群衆が殺到して到底聖堂内に入り切らぬ為已むなく彼が戸外で説教したことも一再ならずあった。ジェノヴァその他の所に於いても同様の盛況を呈した。レオナルドは遂にコルシカ島にまでも乗り出し、説教や島民の紛争の和解調停を試みるという風で、彼の足跡は殆どイタリア全土に及んだのである。主もこの彼の寧日なき活動を深く多とされたのであろう。しばしば奇蹟を行って彼を嘉賞し給うこともあった。
 1749年教皇はまたまた彼をローマに呼び戻し、1750年の聖年に対し、信者に心の準備をさせられた。その説教も多数の聴衆を吸収し、野外で行われねばならぬ有り様であったが、それには教皇も再三親しく臨御あらせられた。
 翌年彼はローマの修道院で黙想会を催し、その時は嘗て幾多の殉教者が信仰の為に血を流した闘技場で、始めて大規模に十字架の道行きを勤めた。それからレオナルドはなお数カ所で説教し、翌1751年11月、教皇の御望みで三度ローマに帰った。時に彼は早75歳の高齢であった。
 その旅路に於いてレオナルドは病を得た。同行の人々は彼がミサ聖祭を立てる事も控えて徹底的に休養する事を望んだ。しかしレオナルドは言った。「一つの御ミサは地上の宝すべてに優る価値がある」と。
 死期の迫っている事を感じた彼は、自分が始めて修士となったローマの聖ボナヴェンツラ修道院へ帰る事を希った。天主は彼の願いを許し給うた。彼は11月26日の夕方6時頃、思い出深いその修道院に帰着した。そしてその晩の11時頃には既にこの世の人でなかった。彼の霊魂はその豊かな勲功の報酬を受くべく主の御許に至ったのである。
 全生涯75年の中、修道者たる事54年、その40年以上はイタリア全土の説教行脚に費やされた。彼の遺骸は今ローマの聖レオナルド聖堂に安置されている。その列聖式は1867年、ピオ9世の御代に行われた。

教訓

 聖レオナルドの生涯は一つの説教である。天主の聖母、及び受難のキリストに対する尊敬を彼に学ぼう。また十字架の道行きも熱心に勤めよう。日曜日の御ミサの後とか、午後などはそれに適当な時間である。聖レオナルドは毎日度々「我がイエズスよ憐れみ給え!」と祈った。彼はそれに由って自分並みに他人の罪の赦しを主に求めたのである。我等も心から之に倣おう。そうすればイエズスは必ず御慈悲を示し給うに相違ない。

アレクサンドリアの聖カタリナおとめ殉教者 St. Catharina de Alexandria V. M.

2017-11-25 03:54:35 | 聖人伝
アレクサンドリアの聖カタリナおとめ殉教者 St. Catharina de Alexandria V. M.   記念日 11月25日


 シナイ山は天主がモーセに現れ十戒を授け給うた場所として知られているが、8世紀に至りそこに至りそこに或る聖女の墓が発見されるに及んで更に有名となった。その聖女とは誰であろう、本日記念されるアレクサンドリアのカタリナに外ならない。
 彼女の一生を語るに当たり、遺憾に堪えぬのは、歴史的記録の憑るべきものが堪えてない事である。しかし6世紀の始めシナイ山の麓にユスチアノ皇帝が建立した聖カタリナ修道院の童貞達は、聖女に就いて数々の麗しい話を伝えている。
 それに由ればカタリナはエジプトの都会アレクサンドリアの裕福なローマ人の娘と生まれ、立派な教育を受け、さまざまの哲学をも修めたが、ある時母と共に一人の隠修士からカトリックの話を聞き、これこそあらゆる地上の学問に冠絶する天来の真理であると喜び、早速洗礼を受けたばかりか、自分の装飾品や財産一切を売り払って質素な修道生活に入った。
 しかるにガレリオ皇帝と共にローマ帝国を治めていたマクシミアノ・ダジャはキリスト教を撲滅すべく残忍極まる迫害を始めた。その迫害は3年に亘ったばかりであったが、犠牲は殊の外多く、その血は河となって流れるほどであった。そして聖女カタリナもその時アレクサンドリアに於いて殉教致命したのである。
 伝説によれば彼女の審判は皇帝マクシミノ自身の面前で行われた。根がイタリアの無学な百姓で、後軍隊に入り一介の兵卒から次第に出世して遂に帝位に即いたマクシミノは、カタリナの美貌とその学識の深さとに驚嘆し、数多の大学者達を呼び集め、之と討論させたのに、いずれも彼女の明快な答弁鋭い質問の前には兜を脱ぎ、却ってキリスト教の真理なる事を認めたから、皇帝は大いに怒って彼等をことごとく死刑に処した。
 マクシミノはそれからなおもカタリナを威かしたりすかしたりして頻りに棄教させようとしたが、もとより彼女はこれを峻拒したので、今はこれまでと同じく死刑を申し渡した。しかもそれに用いられる方法は、この上もない残酷なものであった。というのは、多くの鉄鈎を植え付けた車を廻転させ、之に彼女の身体を触れて寸断しよういうのである。ところが之も天主の御加護であろうか、いざという間際になって、どうした訳かその車が壊れて用を為さなくなった。で、刑吏は已むなく剣を以て聖女の首を打ち落としようように処刑を終えたとの事である。
 アレクサンドリアで殉教した聖カタリナの遺骸が、どうしてシナイ山に葬られるに至ったかは明らかではないが、多分同じ迫害中追放流罪に処せられた信者が、その地にもたらしたものと思われる。

教訓

 聖女カタリナは時の大学者連を相手に堂々議論を闘わし、遂に之を説服、聖教の真理なる所以を立証した。この故に彼女は哲学神学の特別な保護者と仰がれているが、我等も聖教の知識をいよいよ深め、彼女同様、あらゆる禍、不幸、艱難の中にも飽くまで信仰を立て通す堅忍の徳が与えられるよう、その取り次ぎによって天主に願おうではないか。

◆5-2、聖体拝領の方法

2017-11-24 06:41:00 | 典礼
アロイジオ・デルコル神父『信仰の道 ー 秘跡について』

◆5-2、聖体拝領の方法

 聖体拝領の伝統的な方法は、司祭が信者の口にさずけるという方法です。しかし、教皇パウロ6世の時からとくに北ヨーロッパのプロテスタント環境の国にいる司教団から願われて、手にわたすことも許可されるようになりました。

 信者には、ご聖体を手に受ける権利があるという人がいます。しかし、その権利は全くありません。ただ、教皇が、そのようにする権利ではなく、ただ許可をお与えになるだけです。

でも、この許可のためには、教皇が定めた条件をきびしく守らねばなりません。

 では、その条件とは何でしょう。それは、聖体拝領を立ってするか、ひざまずいてするか、口でするか、手に受けてするかを、聖体拝領をする信者自身が選択し、司教も司祭もそれを決めてはならないという条件です。もし、かりに、これをきめて無理じいするとするなら、教会内の暴力団となり、神のみ前に大きな責任を負うようになります。

 手をもってこ聖体を受ける許可を、ほとんど、すべての司教団に聖座は与えましたが、その時に、説明書がついていました。

 その説明書によれば、教会の望みは、ご聖体を伝統的に口で受けることであると明らかに示されています。ところが、この説明書にかかれていることと、先にのべた条件は、残念なことに無視された場合がよくありました。