先日の記事 に書いた、琵琶湖疎水の続きです。京都では単に「疏水」 と呼ばれて親しまれている琵琶湖疎水。京都市民に水を供給する他、水辺は憩いの場となっています。哲学の道は有名ですよね。この琵琶湖疎水が作られる事になったきっかけは、明治維新と東京遷都でした。それまでも同様の提案はされていたそうですが、あまりの難航時だった為 実現には至らなかったそうです。しかしこの歴史的な出来事により京都市は人口が減少し、産業も衰退しました。この為、京都復興の大事業として計画されたのが、この琵琶湖疏水でした。
この大決断をしたのが 第3代京都府知事 北垣国道。「疎水の生みの親」 と呼ばれる北垣知事ですが、オットの両親から借りた 「知るを楽しむ」 のテキストには、北垣知事の最大の手柄は若干21歳の東京工部大学校(現・東京大学工学部)の学生、 田邊朔郎 を、設計・建築の責任者として抜擢した所にあるそうです。田邊は旧幕府砲術方の家に生まれ、苦労して大学校に進学しました。そして当時たまたま、琵琶湖疎水工事計画を題材とした卒業論文を仕上げていたそうです。北垣知事は 「全く外国人の手を借りず日本人が学んだ技術を実地に生かす模範を示し、同時に経費削減を図る」 という考えがあり、田邊を知る事となりました。そして直接本人と会い、この無名の学生に大事業を任せる事を即決したそうです。この辺りはまるで映画にでもなりそう。ドラマチックな瞬間ですよね。
ただしこの大事業は京都府に巨額の予算を組ませる事になり、当然批判も多くありました。琵琶湖の水位低下を懸念する滋賀県や大阪府などからも、異議申し立てがあったそうです。しかし反対を押し切る形で、工事は1885年(明治18年)に開始。工事は難渋を極め、犠牲者も出たそうです。しかし、当時の大工事の殆どが外国人技術者の設計/監督に頼っていた中にあって、全て日本人のだけで行った事は驚異的と言えるそうです。
一時、中止の危機にも瀕したこの大工事。第1疏水は1890年(明治23年)に大津から鴨川合流点までと蹴上から分岐する疏水分線が完成しました。この疏水の水は世界で二番目の水力発電所の建設につながり、この電力により日本初の市電が京の町を走る事となりました。琵琶湖から京都への舟運も可能となり、貨物/旅客共に大いに利用されました。当時のインクラインでは、三十石船がそのまま台車に乗せられて蹴上船溜と南禅寺船溜を行き来しました。これが人々の注目を集め、弁当を持っての多くの見物客で賑わう位 華やかなものだったそうです。しかし陸運の発展により舟運は衰退し、1948年(昭和23年)に旅客輸送は廃止。蹴上インクラインも運転を停止しました。
蹴上にはその台車と船が今でも残っています。
美しい桜をバックしたこの風景も、また京都を代表する姿の1つなのかなあ、と思いました。インクラインは停止されましたが、竣工から120年以上経った今でもこの疎水は上水道、防火用水、そして発電用として重要な役割を果たしています。また、東山の社寺等の庭園の水としても利用されています。最初の写真は南禅寺境内を流れている水路。あの有名な水路閣の上です。深い歴史を重ねたこの風景が美しいです。また自分の復習も兼ねて、続きを書きたいと思っています。
琵琶湖疎水とインクライン - Part3
「田邊朔郎と琵琶湖疎水」 (京都小売商業支援センター)
|