海鳴記

歴史一般

奈良原喜左衛門に子供はいたのか(20)

2011-04-30 10:10:03 | 歴史
 「鞍替え」などと表現すると、どうも雅雄氏という人物はひじょうに打算的なように聞こえてくるが、事実はちがった。奥さんの実家の村内ということは、この養子縁組は、奥さんの実家や奥さんが関わったと考えたほうが無理がないような気がするのである。というのは、養嗣子として入ったのだから、雅雄氏は信頼されていたのは間違いない。ましてやたとえよそ者でも、県の役人として、また繁のような大物保証人がいるとなれば、それだけで充分だった。それをむしろ奥さん側がうまく利用したのではないだろうか。奥さんの娘夫婦が近くに生活しているとなれば、実家にとっても心強いのは今も昔も変わりはないはずだからだ。
 そのため、これは繁家には断りなしだった。もっとも、繁家とはいえ、当時、東京在住だったのだから、雅雄氏に関する監督は他の誰かに任せていたはずだが、おそらく最初は彼らも知らなかったのだろう。雅雄氏が他家の養嗣子になっていたなどということは。ところが、これが東京にも知られるようになると、すぐさまそれを解消させ、今度は正式に喜左衛門家を継がせることにしたのだ、と。

 こんなふうに想像してもさほど荒唐無稽な話とは思えないだろう。さらにもっとこれらの話をリアルなものにする材料を提供すれば、鹿児島に現存する墓を踏査した限り、当時繁家ほど勢力のある奈良原家は見出せなかったことが一つ挙げられる。また、実際に雅雄氏を世話する可能性のある人物として、エイさんが養女として入った奈良原喜格家やあるいはまた繁の世話で鹿児島に定住した高見弥一家などを挙げてもいいだろう。
そう、忘れていたが、奈良原繁という人物は、京都薩摩藩邸の長屋に匿われていた旧土佐脱藩士の一人である大石団蔵を、文久3年(1863)末には鹿児島まで連れてきて、薩摩藩士に取り立てられるのを全面的にバックアップしていたのである。これでいかに繁が世話好きな人物だということもわかるというものだろう。おそらく、大石団蔵を藩士にするときも随分苦労したに違いない。いかに久光側近で彼からかわいがられていたとはいえ、よそ者の、しかも暗殺者の一人だった人物の保証人になるというのはたいへんなことだった。
 だが、繁はいわば「義侠心」というか「男気」のある人物だった。優秀で信頼に足ると見込んで鹿児島まで連れてきた人物を投げ出すことはなかった。その結果、高見弥一と名前を変えた土佐脱藩士は、見込み違いどころか、19人の薩摩英国留学生の一人に選ばれているほどなのだ。
 高見は、2年弱で帰国を命じられたが、その後繁の世話で鹿児島の女性と結婚し、教師としてさほど待遇のいい扱い方をされなかったにもかかわらず、雅雄氏が養子縁組をする頃もまだ鹿児島にいた。このことははっきりしている。

奈良原喜左衛門に子供はいたのか(19)

2011-04-29 09:45:25 | 歴史
 明治期でも女性の一人戸主というのは特に珍しいことではない。だが、街中に174坪の土地を所有していたとなれば、当然結婚相手を婿養子として迎え、子供を生み育てるというのが、一番順当な「家」継承法ではないだろうか。それにもかかわらず、35歳のすでに奥さんも子供もいる「養兄」を家に入れ、数ヵ月後には土地も譲っているということはどういうことなのだろうか。
 どう考えてもトミさん側に不利益というか、納得のいく「縁」ではないのではないだろうか。そうだとすれば、何かトミさん側に、そうさせるものがあったのではないだろうかと考えてみたくなる。たとえば、トミさんはもともと病弱だったのではないか、などと。
 仮にそうだとすれば、小さいときからエイさんのように養女にも出せなかった。そのため、土地を与えられ、乳母や使用人に育てられたが、結局、病弱で婿養子を迎えられる体でもなかった。そして、雅雄氏を入籍する頃は、死期も近かった。それゆえ、信頼できる人物に、また戸主が亡くなる前に、喜左衛門の家を継承するという意識をもたせたかった。その結果、何か慌しく縁組をしたのではないだろうか。

 多少、強引なところもあるが、まあ、成り立たない推測ではない。しかしながら、解せないのは、雅雄氏は、奈良原家に入る前に、養嗣子として本田家に入っていることだ。これをどう解釈すればいいのだろうか。
 ここで一つの解釈を試みてみる。まず、雅雄氏は、中山ハナさんとの間に長男・隼雄氏をもうけた後、彼女と別れた。そして、ほぼ1年後の明治19年8月、鹿児島郡塩屋村の橋口平六氏の3女・セツと結婚した。ひょっとすると、ハナさんと死別したための再婚だったかもしれない。この可能性は高いと思われるが、実際はよくわからない。ハナさんという女性については、出身地・年齢等何もわかっていないからだ。
 ともかく、セツさんと結婚した翌年には、彼女との間に男児・輝雄が生まれた。この時点で、雅雄氏はすでに2人の子持ちである。それから2年後の明治22年12月、雅雄氏は、セツさんの実家と同じ村にある本田家に養嗣子として入籍する。そしてその3ヶ月後の3月26日なのだ、奈良原家に鞍替えしたのは。

奈良原喜左衛門に子供はいたのか(18)

2011-04-27 17:47:03 | 歴史
 ところが、のちに私が某弁護士から得た謄本の中で、原田雅雄氏の不可解な行動が浮かび上がり、再び振り出しに戻されたのである。
 雅雄氏の背後に繁が保証人のような立場でいたとすれば、いったいなぜ、奈良原家に入る前に、本田家の養嗣子となったのだろうか。そんなことを、繁が指示したのだろうか。あるいはまた、繁はトミさんを養女にもしていなかったが、そうだとすれば、だれがトミさんや雅雄氏の養親だったのだろうか、などと際限なく疑問が湧いてくるだけなのである。
 ともかく、今これらの問題を「家」を継承していくということがどういうことなのかを中心に再考してみたいと思う。
 まず、トミさんもまた山口家に嫁に行ったエイさんも喜左衛門夫婦の娘であり、繁家が世話していたという仮定の上で話を進めていく。
 さて、トミさんとエイさんのどちらが年上なのだろうか。以前述べたように、トミさんの除籍謄本は廃棄処分になっていたので、彼女の生没年はわからない。わかっているのは、エイさんの生年が、安政4年(1857)12月20日ということである。これは喜左衛門の孫だという山口政雄家の除籍謄本からわかっている。また、エイさんが山口家に嫁したのは、明治31年(1898)だった。つまり、彼女が結婚したのは満41歳だったから、かなりの晩婚だった。それも後妻(継母)として山口家に入籍している。しかし、翌年、政雄氏が生まれると、3男として届け出た。先妻に2人の男児がいたからである。それも、なぜかわからないが、のちに32年生まれを31年生まれと訂正している。
 それはともかく、では、ここで、養兄として奈良原トミさんの家に入った雅雄氏の生年を見てみると、かれは、安政2年(1855)年9月20日に生まれたことになっている。ということは、養妹と記されているトミさんの生年は、これ以降となる。もしトミさんがエイさんより年上だとすれば、安政2年9月21日から安政3年か安政4年の初めごろまでには生まれていることになる。私はその可能性が高いと考えているが、微妙なところもある。
 それなら、年下、つまり妹と仮定すれば、いつ頃生まれたかだが、安政5年(1858)から、母親のひろさんが亡くなったと思われる文久2年(1862)年の間ということになる。
 ところで、喜左衛門はいつ結婚したのだろうか。喜左衛門は天保2年(1831)生まれだから、安政元年(1854)で24歳だった。だから、この頃には結婚していたと想定しても何の無理もない。そもそも、助左衛門家の跡取りだったのだから、それより早くとも何の不思議もない。

 ただ私には、どちらが姉か妹かということより、トミさんが一人戸主だったことのほうが気になって仕方がないのである。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか(17)

2011-04-26 11:11:04 | 歴史
 とにかく、奈良原喜左衛門が文久2年(1862)10月2日、その妻のひろが慶応元年(1865)5月18日に亡くなったという記載が除籍謄本の中にあったとすれば、一体誰がそれを届け出たのかということだが、これは、弟の繁しか考えられないのである。なぜなら、喜左衛門夫婦は明治以前に亡くなっているのだから、明治になって新しく戸籍法というものが導入されたときに、どこかの戸籍簿に両親や喜左衛門夫婦の生没年を書き込めるのは、繁しかいなかったからである。明治後も繁の両親が生きていた可能性も否定できないが、もし生きていたとすれば、繁の除籍謄本にあってもよさそうだが、それはない。 
 そうだとすれば、両親も早く亡くなり、その後を喜左衛門が継いでいたから、繁の前戸主が喜左衛門となっていたのだろう。
 ただ、やはり気になるのは、繁の実子とはいえ、一旦籍から抜いた庶子の幸彦の系列から出た除籍謄本となるとどうなのだろうか。ひょっとして、幸彦が結婚し、自分の戸籍を作ったときに書き込んだ記録かもしれない。だが、幸彦は喜左衛門の忌日を知らなかったはずがないのである。というのは、繁は先祖の墓地に、喜左衛門夫婦の名前を彫った墓を建てており、そこには喜左衛門が慶応元年閏5月18日に亡くなったと記録されているのだ。ひろさんの没年はなかったけれども。だから、幸彦がその事実を知らなかったと考えるほうが無理なのである。ましてや、喜左衛門の没年を知っている幸彦が、夫婦のそれを入れ替えても何の意味があるというのだろうか。もし何か意味があるとすれば、繁のほうである。繁には、兄夫婦の没年を入れ替える意味が、あるいは必要があった。少なくとも、たとえば、奈良原喜格という別家に預けたと想定可能なエイさんや、一家を構えさせたと想定できる奈良原トミさんたちには。
 そしてそのことに、いわば兄を犠牲にして生き延びた弟・繁の贖罪の気持ちがあったとしても、彼女たちには、兄と弟との真実を知られたくなかったのである。それゆえ、意識的にか無意識的にか、戸籍操作をして彼女たちを韜晦したのだ、と。

 私が最初の本で想定したのが以上のようなことなのである。つまり、原田雅雄氏が養兄となった奈良原トミさんと、山口政雄氏の母親のエイさんが喜左衛門夫婦の娘たちなのだ、と。なぜなら、彼女たちに年齢的な矛盾もなかったし、長々と触れた繁の戸籍操作の不可解さもあったし、それより何より、現実に彼女たちの子孫が喜左衛門に繋がる家系であると言っていたのだから。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか(16)

2011-04-25 11:07:44 | 歴史
 話が変なところへ行く前に、元に戻ろう。幸彦氏とヒサさんとの間には、長女・勝(子)と長男の隼人が生まれた。長女の勝さんは成長して、鹿児島市内の人と結婚し、一女をもうけたが、産後すぐ亡くなっている。そして、戸籍の出所は、この女子の系統なのである。
 ところで、ここで長男の隼人氏の話をしておこう。隼人氏は、繁からかわいがられていたのか、繁名義のほとんど土地がわけのわからない借金の抵当物件に入っていた中で、百余坪の隼人名義の土地だけは手をつけられないままだった。その結果、鹿児島の「奈良原殿屋敷」の土地は、繁の死んだ翌年には、借金のかたとして雲散霧消してしまうが、隼人氏の土地だけはそのまま残った。 
 以後、隼人氏はその土地で両親と一緒に生活していたようだ。しかしながら、父親の幸彦氏は昭和16年、母親のヒサさんが18年に亡くなると、隼人氏もその後を追うようにして亡くなっている。昭和21年、36歳という若さだった。結婚もせず、栄養失調で亡くなったという話が伝わっているが、戦後すぐの食糧難だった時代とはいえ、鹿児島のような農業県で栄養失調というのも何か哀れをさそう話である。
 ついでに言うと、この幸彦親子の墓は、繁の墓地にはなかった。そこからかなり離れた山の頂上付近の、そのまた一番外れに二坪弱の墓域があり、生没年が彫られただけの親子一緒の墓があった。またそこには、もう一基の、大正末年に亡くなった女性名の墓が並んでいた。奈良原姓だが、戸籍上の幸彦の母親の墓ではなく、繁が沖縄県令時代に一緒にいた女性の墓だった。おそらく、幸彦の母親は早くして亡くなっていたのだろう。その墓の女性は、幸彦と沖縄時代も一緒に生活していたようだから、幸彦の育ての親だったのかもしれない。だから、その墓は幸彦夫婦が建てたのだろう。では、幸彦夫婦と隼人氏の墓は誰が建てたのだろうか。たぶん、隼人氏の姉に関係する人たちであろうが、よくわからない。とにかく、かれらは奈良原姓を名乗っていたとはいえ、正統な繁家に繋がる「家族」ではなかった。それだからというわけでもあるまいが、墓も繁家の墓はもちろん、周囲にあるものと比べてもかなり小さく、二坪弱の墓域も寒々とした感じしか与えなかった。私が、最初にこの墓を見出だしたとき、言葉に詰まってしまったのを覚えている。

 正直言って、最初、こういう系列の子孫から、なぜ喜左衛門と妻・ひろの没年が記された除籍謄本が出てきたのかよくわからなかった。しかし、雅雄氏の実家の兄の除籍謄本から、雅雄氏の再婚や2度の養子縁組の記述があったことから考えると、おかしいことではないのかもしれない。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか(16)

2011-04-25 11:07:44 | 歴史
 話が変なところへ行く前に、元に戻ろう。幸彦氏とヒサさんとの間には、長女・勝(子)と長男の隼人が生まれた。長女の勝さんは成長して、鹿児島市内の人と結婚し、一女をもうけたが、産後すぐ亡くなっている。そして、戸籍の出所は、この女子の系統なのである。
 ところで、ここで長男の隼人氏の話をしておこう。隼人氏は、繁からかわいがられていたのか、繁名義のほとんど土地がわけのわからない借金の抵当物件に入っていた中で、百余坪の隼人名義の土地だけは手をつけられないままだった。その結果、鹿児島の「奈良原殿屋敷」の土地は、繁の死んだ翌年には、借金のかたとして雲散霧消してしまうが、隼人氏の土地だけはそのまま残った。 
 以後、隼人氏はその土地で両親と一緒に生活していたようだ。しかしながら、父親の幸彦氏は昭和16年、母親のヒサさんが18年に亡くなると、隼人氏もその後を追うようにして亡くなっている。昭和21年、36歳という若さだった。結婚もせず、栄養失調で亡くなったという話が伝わっているが、戦後すぐの食糧難だった時代とはいえ、鹿児島のような農業県で栄養失調というのも何か哀れをさそう話である。
 ついでに言うと、この幸彦親子の墓は、繁の墓地にはなかった。そこからかなり離れた山の頂上付近の、そのまた一番外れに二坪弱の墓域があり、生没年が彫られただけの親子一緒の墓があった。またそこには、もう一基の、大正末年に亡くなった女性名の墓が並んでいた。奈良原姓だが、戸籍上の幸彦の母親の墓ではなく、繁が沖縄県令時代に一緒にいた女性の墓だった。おそらく、幸彦の母親は早くして亡くなっていたのだろう。その墓の女性は、幸彦と沖縄時代も一緒に生活していたようだから、幸彦の育ての親だったのかもしれない。だから、その墓は幸彦夫婦が建てたのだろう。では、幸彦夫婦と隼人氏の墓は誰が建てたのだろうか。たぶん、隼人氏の姉に関係する人たちであろうが、よくわからない。とにかく、かれらは奈良原姓を名乗っていたとはいえ、正統な繁家に繋がる「家族」ではなかった。それだからというわけでもあるまいが、墓も繁家の墓はもちろん、周囲にあるものと比べてもかなり小さく、二坪弱の墓域も寒々とした感じしか与えなかった。私が、最初にこの墓を見出だしたとき、言葉に詰まってしまったのを覚えている。

 正直言って、最初、こういう系列の子孫から、なぜ喜左衛門と妻・ひろの没年が記された除籍謄本が出てきたのかよくわからなかった。しかし、雅雄氏の実家の兄の除籍謄本から、雅雄氏の再婚や2度の養子縁組の記述があったことから考えると、おかしいことではないのかもしれない。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか(15)

2011-04-24 09:48:02 | 歴史
 この明治29年に3回戸籍変更した中で、7月22日の3男三次を2男にしたのは、男爵の跡取りになるはずだった長男が明治26年に亡くなっていたからだろう。つまり、私生児だった2男を籍から抜き、正妻の3男を2男にすることで、三次が男爵位を継ぐことを戸籍確認したわけだ。しかし、どうもわからないのは、なぜこの三次の生年月日を変えなければならなかったか、ということだった。私はこのことに随分悩んだ。3男だった三次の生年月日をなぜ年度も月日も変更しなければならなかったのか、今でもよくわからない。つまり、のちに知った太吉少年も戸籍に入っていたから、その関係だとしてもどうも納得がいかない。というのも、明治17年に入籍した太吉少年の生年は明治8年9月12日となっているが、そもそも太吉少年は前年の明治28年4月10日時点で離縁されているのだから。それでは、一旦除籍されることになる幸彦の生年月日はというと、明治8年7月6日であるから、跡取りになる3男の三次の生年が明治9年12月29日だとしても、何の矛盾もないし、おかしくもない。

 何度もしつこくて申し訳ないが、繁は、男爵位を受ける2ヶ月ほど前に、どうして3男の生年月日を明治9年12月29日から明治10年2月11日に変更しなければならなかっただろうか。どなたかこの謎を解ける人がいたら、ご教授願いたい。納得できるご回答をお寄せ戴いた方には、賞金を差し上げたい、と思うほどである。
 もっとも、2月11日は紀元節の日で、めでたい日だったからそうしたとするのはだめです。私は、苦し紛れにそういう推測をしているのですから、最初の本で。

 では、最後の戸籍操作に移ろう。一番問題となるのは、この操作になるのだが、私は実際にその除籍謄本類を見ていないので、それを見て奈良原家の系図を作った生麦事件参考館館長である浅海武夫氏を信じるしかない。むろん私は、喜左衛門の死んだ日と奥さんのその日を入れ替えたのは繁だと想定して疑っていない。浅海氏がこのことをどう考えているのか知らないが。
 ところで、その戸籍の出所を見てみると、一度繁の戸籍から抜かれ、3日後に庶子として実子登録された2男の幸彦氏の系統であった。幸彦氏は、繁の沖縄県知事時代も繁に従って沖縄に住み、明治37年7月、そこで佐賀県唐津士族の娘である太田ヒサさんと結婚している。この結婚式には、当時岡山の第六高等学校に在学中だった跡取り息子の三次も夏休みを利用して出席している。
 日本民間航空の黎明期を描いた平木国夫氏の『イカロスたちの夜明け』では、三次が、のちに日本で初めての飛行機作りをするに至る原点を、この沖縄への船旅に見出していてなかなか興味深かった。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか(14)

2011-04-23 09:54:50 | 歴史
 そんなふうに考えていくと、2系統の奈良原家から喜左衛門の子孫だという人々が現れたら、喜左衛門には娘がいたと仮定して調べていくのが、ごく正統な方法だろう。
 さて、次に繁がした戸籍操作というのは何だったのだろうか。明治17年8月9日、繁が静岡県令だったとき、櫻田太吉という10歳の少年を養子にしたことは、繰り返し述べているが、その1年前の明治16年11月13日に西洋人との間に出来たといわれる子供を、奈良原家の家僕(使用人)の戸籍に入れているのである。むろん、西洋人の子供だったとか、奈良原家の使用人に預けたとか、という直接的な証拠は何もない。いわば、状況証拠の累積で言っているのであるが、私が声を大にして言いにくい個人的な資料、つまり現に生存している子孫氏の戸籍や聞き取り調査をあげなくとも、最初の本であげた状況証拠でも充分納得してもらえるはずだ。だから、ここではこれ以上このことは言及しない。
 とにかく、あと2点ほどの戸籍操作を概観しよう。
 明治29年6月5日、奈良原繁は、男爵位を授けられている。4年前の明治25年7月20日に沖縄県知事に任命され、そのままその地位にいたが、何の勲功により男爵位を授けられたのかよくわからない。幕末維新期の勲功でないことは確かだろう。たとえば、海江田信義などは、明治17年に子爵に列せられているが、明治以降の功績などはほとんどないから、幕末維新の働きからだろう。繁も幕末維新に功績があったらすでにその時男爵か何かをもらっていてもいいからだ。だが、その年にもらっていない。とすれば、明治11年以降、明治政府に仕え、安積疎水事業の現場責任者として奔走したことや、明治16年から17年にかけての静岡県令、その後、上野・青森間の鉄道敷設会社である日本鉄道会社社長を足掛け8年ほど務めことなど総合的な働きによってだろう。
 まあ、こんなことはどうでもいいが、華族さまとなれば、身辺はきれいにしなければならなかった。その年の4月4日、もうこの時点で男爵位の内示があったのかどうかよくわからないが、3男だった三次の生年月日を明治9年12月29日から明治10年2月11日に訂正している。 
 また、男爵位を受けた1ヶ月以上もあとの7月22日、明治8年7月6日生まれの二男幸彦を私生児につき除籍とし、3男三次を二男に訂正している。そしてその3日後の7月25日、除籍にした私生児を不憫に思ったのか、庶子としてだが実子であることを認めて再び奈良原家に戻しているのである。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか(13)

2011-04-22 10:54:58 | 歴史
 ただ、そうだからといって、山口政雄氏が喜左衛門の孫ではないとも言い切れなかった。なぜなら、政雄氏が騙(かた)り屋で大風呂敷を広げるようなタイプにはどうしても見えなかったからである。むろん、それだけではない。子供の頃、母親から「弟・喜左衛門は兄・繁の犠牲にになって死んだ」と聞いたという奇妙な話もその一つだった。 これでは、兄弟の順序が逆になっている。そのことをある郷土史家から指摘され、最終的に自分の記憶ちがいだったと「あとがき」で訂正しているが、私には、これが逆に「家伝」としてのリアルさが伝わってきたのである。なぜなら、政雄氏が意図的に嘘をつこうとするなら、本文の母親の話を訂正するだけで充分なのに、自分か母親の「記憶違い」を訂正せず、そのままにして恥じていなかったからである。
 私も、この人はどうも嘘をついているのではないか、あるいは何か大きな勘違いをしているのではないかという思いがあった。いや、正直いえば、今でもほんの少しそういう疑いがないわけではない。しかし当時私は、トミさんや政雄氏のような不可解な2系統の子孫が、喜左衛門の子孫だと名乗っている以上、何かそこに「もの言わぬ真実」のようなものが隠されているのではないか、と切り捨てることができなかったのである。
 そして、こういう私の信念を支える最大の根拠は、鹿児島の奈良原家で唯一明治後も名前を成し、それなりの力というものを振るえる立場にあった奈良原繁という人物の存在であり、具体的には彼の奇妙な戸籍操作という事実があったからである。
 それゆえ、もう一度、かれの戸籍およびその操作というものか振り返ってみよう。
 まず、某弁護士による奈良原繁除籍謄本で新しく確認できたことは、櫻田太吉とのわけのわからない養子縁組もそうだったが、「明治5年以前」に繁は前戸主・奈良原喜左衛門の跡を継いで、奈良原家の新戸主となっていることである。
 私は、最初の本ではこのことを想定して話を進めていた。だから、この事実を確認してやはりそうだったのかとほっとしたところもあったが、改めて、これはどういうことなのだろうか。繁は、幕末期には、家老の下に位置する側役まで出世していた。そして、明治元年に生まれた長女がいたのだから、当然、別家を構えることはできた。あるいは、すでに構えていたのかもしれない。しかし、明治政府の下の新戸籍制度が導入されると、長男・喜左衛門が継いでいた家を継ぐのである。
 くどい言い方になるが、兄弟の父親である助左衛門家を守るためだったのだろう。そうだとすれば、兄・喜左衛門に跡取りになる子供はいなかったことになる。少なくとも、男児がいなかったことはかなりの程度確からしく思える。なぜなら、男児が生存していたとしたら、のちのち問題となってもおかしくないからだ。実際、そういう問題があった形跡はなかった。
 だが、女児がいたとなれば、どうだっただろうか。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか(12)

2011-04-21 11:32:29 | 歴史
 奈良原家の墓で、私が最初に見出したのは、当然、繁が葬られている墓だった。それ以外、2箇所の墓地に奈良原家と刻まれた墓があった。
 
 ここで話は幕末の鹿児島城下絵図から入っていく。そこには、繁家の他に2家、つまり合わせて3軒の奈良原家が記載されていた。1軒は、上町(かんまち)と呼ばれる上級武士が多く住む地区にあった。それから判断すると、そこが奈良原家の本家筋といっていいと思う。 
 もともと奈良原家は土着の武士ではなく、戦国期の11代守護島津職島津忠昌に見い出され、山城国(京都府)から入国したとされている。だからおそらく、奈良原家の先祖はその最初に拝領した上町地区に住んでいたに違いない。それから時を経て、一分家が生まれた。城下絵図では、鹿児島城下の北西部、城山の後背地にあった。そこは現在、草牟田(そうむた)と呼ばれる地域である。そして最後に、喜左衛門や繁の先祖が分家した家があった。そう推測できるのは、繁の家は、城下を二分する甲突川の西側、つまり城下が拡大するにつれてのちのち発展した地域にあったからである。
 さて、本家筋の墓は、興国寺(跡)墓地という、鹿児島でもっとも多く古い墓が残っている墓地にあった。島津家の分家筋の墓が多い由緒ある墓地である。
 そこに、奈良原本家の墓域と分家筋の家の墓と思われる墓域があった。前者には、奈良原家の由緒を彫った墓があったものの、一番新しいのが、明治30年の没年が刻まれた女性名の墓で、それ以外はほぼ明治期以前の墓のみであった。また後者は、墓地の端の山側にあって、明治以降新しく建てられた墓は一基もなかった。おそらく、後者は江戸期のどこかで絶えた分家筋の家だったのかもしれない。
 それでは、喜左衛門の孫である山口政雄氏が喜左衛門の別名だと思った奈良原喜格の墓はどこにあったのかといえば、この興国寺墓地ではなかった。
 幕末城下絵図の二つ目の奈良原家があった草牟田墓地にあったのである。

 私はこれらのことから、奈良原喜格は、興国寺にも墓のあった分家筋につながる出ではないかと考えるようになった。要するに、奈良原喜格は、喜左衛門の別名ではなく、まったく違う人物であると結論づけざるを得なかったのである。