海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(111) 松方文書について(18)

2009-02-27 11:21:13 | 歴史
 何度も繰り返すようだが、それ以上に奇妙なのは、もし兄喜左衛門の死因が何らかの病気だったとすれば、喜左衛門の後の奈良原家を継いだ繁家からなぜそういう類の手紙なり記録が出てこなかったのだろうか。そういう種類のものだったら、何も処分する必要がなかったではないか。病気などの自然死だったのなら、何もやましいことはなかったのだから。それに、何もやましいことがなかったら、晩年に兄への思いなり感慨なりを語ってもよかったはずではないか。
 たとえば、兄が病気で早く亡くならなかったら、明治後もそれなりの地位を得ただろうに残念なことをした、とか。明治45年の薩英戦争50年祭の新聞記事では、その戦争で「活躍」した兄に対する言及など一切なく、久光へ思慕の念だけが語られているのだ。なぜか墓だけは立派なものを造っているが。

 今度、喜左衛門の消息が亡くなる3ヶ月ほど前までわかったことは、喜左衛門が尋常な死に方をしなかったことを暗示するかのようだが、それが生麦事件の責任を取らされて自刃したからとは今のところ断定はできない。
郎女氏のように他の何かの罪で、自刃させられたのかもしれない。ではそういう形跡が伺えるかというと、どうも3ヶ月前の「空気」からは、それも伺えないように思える。

 では次に、松方と兄・喜左衛門との関係および弟・繁との関係を松方の日記を紐解くことで、何かわかってくることはないか見てみよう。
 ただ残念なことに、肝心の文久2年の部分は欠けているし、他も途切れ途切れで短い期間が多く、特に「何か」を発見するということはなかった。少しだけ救われたのは、大久保日記より具体的でわかりやすく記述していることだった。
 なお、喜左衛門は松方の四歳年上で、繁は一歳年上である。松方の役職もかれらの後を追っているような地位に就いている。少なくとも繁の後を。



続「生麦事件」(110) 松方文書について(17)

2009-02-26 10:57:32 | 歴史
 この間、国許にいた松方はどうしていたかというと、10月22日、幸五郎(繁)とともに、まだ解決をみない長州征討軍の軍監察に任命され、11月1日薩軍総督島津又六郎家老喜入摂津以下、前之浜より汽船に乗り、3日、筑前博多に着いていた。そして11月16日、西郷が広島の征討軍本陣より長州が恭順の意を示したと小倉に報告にやって来ると、松方はそれを鹿児島に伝える使者としてすぐに小倉を出発し、21日の朝、鹿児島に着く。
 しかし、その報告を終えると、また小倉に戻る使命を受け、23日、乾行丸に搭乗して前之浜を出発した。この頃の繁もそうだが、かれらは船の上ぐらいでしかゆっくり体を休めなかっただろう。
 ともかく、松方はその後芦屋(福岡県遠賀郡)に十数日滞陣していたが、12月16日、小倉に呼ばれ、征長軍がすでに解隊したことを鹿児島に報告するように命じられ、鹿児島に向った。それから、12月21日、鹿児島に着き、久光、忠義両公に報告すると、そのまましばらく鹿児島を動くことはなかった。

 松方が、喜左衛門に託して大久保に手紙を書いたのは、霧島の栄之尾温泉からであったが、これは、元治2年(慶応元年)2月18日、藩主・忠義がこの温泉に赴いた際のお供で滞在していたのである。だから、大久保への手紙はその温泉からだった。そうだとすれば、喜左衛門もそこにいたことになる。つまり、喜左衛門も藩主のお供で栄之尾温泉にいたのだが、何かの使命で上京を命じられたのである。松方はその機会を利用して大久保に手紙を書いていたのだ。
おそらく喜左衛門は、前年の征長軍解隊とともに出水隊の物主の任を解かれ、その年のうちに鹿児島に戻っていたのだろう。そして、年明けの藩主の温泉保養のお供に、松方らとともに従いて行くことになったのかもしれない。
 
 今のところ、喜左衛門が何の使命で、またいつごろ京都に着いたのかはっきりしないが、記録に残るような急用ならともかく、鹿児島から汽船で向ったとは考えにくいから、3月の初めごろだろうか。
 問題は、そのおよそ3ヶ月後に亡くなるまで、病気にでもなり、そのまま死んだという可能性は非常に少なくなったということだ。なぜなら、もし急病にでもなり亡くなったとすれば、一切隠す必要もないのだから、そういう記録が出てきてもよさそうなのだが、それがないのだから。
 かれをあれほど褒め上げ、尊敬していた口振りの松方も、亡くなった後の喜左衛門について何も言及していないし、それは他の同僚たちも皆そうなのだ。明治もかなり経ってから、海江田が病気で亡くなったと言うまでは。

続「生麦事件」(109) 松方正義文書について(16)

2009-02-25 11:07:27 | 歴史
 まあ、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。喜左衛門の消息のことについて話を戻そう。
 拙著では、喜左衛門が元治元年(1864)6月19日、出水隊の隊長としてその参謀だった税所篤明の日記に名前を出し、その年の10月末、長州征伐に向うかどうかというところでその日記が終わり、喜左衛門の名前も見出せなくなっていた。だから、翌年の慶応元年(1865)閏5月18日まで空白だったのだ。そして今回、その空白に、私にとっては非常に嬉しい事実が飛び込んできたのである。
私は、この事実が見出される前、第一次長州征伐が中止になり、おそらく出水隊が解散した後も、喜左衛門はそのまま京都に留まり、翌年の閏5月18日の死を迎えたのだと推測していた。それゆえ、たとえば、明治になって海江田が流した病気説も、ひょっとするとこの空白期間にありえたかもしれない、などと考えざるをえなかったのだ。
 しかしながら、今回の『実記』ではいつなのかはっきりしないが、一旦鹿児島に帰っていたことがわかったのだ。それも慶応元年(1865)2月22日までは。
というのは、松方は、この日付で京都に滞在中の大久保に書状を送っているのだが、その書状を喜左衛門に託しているのだ。
 これは、その書の始めに、「依奈喜君啓上仕候愈御勇健被成御座・・・」と書かれているので、間違いはないだろう。『実記』でも松方の日記でも当時の繁は幸五郎と書かれ、はっきり喜左衛門と区別されているから、大久保日記のように判断に悩む必要はないし、中村徳五郎も喜左衛門と記している。

 ところで、しばらく当時の状況を振返ってみると、前年7月19日に始まった禁門の変以降、長州勢は京より駆逐されたが、8月に入ると幕府は諸藩に長州征討(第一次長州征伐)の命を下す。ところが、諸藩の足並みが揃わずもたついているので、最初それを歯がゆがっていた西郷が勝海舟に会って幕府の弱腰をなじると、逆に勝から幕府はすでに政権担当能力はないので、列藩が同盟して事に当たるべきだと説得され、以後西郷の幕府ばなれが始まる。9月11日のことだった。
その後西郷は、長州征討に懐疑的だった総督徳川慶勝を説得し、武力によらない長州恭順に奔走。11月に禁門の変の責任者だった家老3人と4人の参謀の自刃で、その解決をみた。


続「生麦事件」(108) 松方文書について(15)

2009-02-24 11:31:27 | 歴史
 今回、うっかり見過ごしていた資料を読みながら、誰もが気がつく矛盾と齟齬を、松方の口述だからと言ってそのまま引用している『薩藩海軍史』(昭和3年刊)が、やはりずい分いい加減な記述をしていることが確認できたことだけでも、わたしにとっては大いなる収穫だった。
 と同時に、さらに実証性のない『海江田信義実歴史伝及直話』や『海江田信義口演及実歴史伝』、そしてここでの『松方正義聞書』を参考にして仕立て挙げられた「生麦事件」が、いかに危うい空中楼閣だったことが再確認できたのだから。また、これらを主要資料としてそのまま受け継ぎ、定説として定着させた『鹿児島縣史』(昭和14年刊)の無頓着さを。
 どちらにしても、いつの間にか喜左衛門だけが「殺害犯人」に仕立てあげられたという疑惑は消えないのである。いやむしろ、松方の文書類を紐解いているうちに一層その疑惑が増したといっても言い過ぎではない。

 ところで私は、中村徳五郎の『侯爵松方正義卿実記』の中で、今まで空白だった喜左衛門の消息がわかったことや、文久2年の生麦事件の部分は欠けているものの、松方と繁や喜左衛門の消息や関係がわかる日記が存在することを知って非常に喜んだ。そして、松方文書のコピーを送ってくれて、私の迂闊さを指摘してくれた郎女氏にも大いに感謝した。
 言い訳がましくいえば、私が鹿児島で生麦事件の資料を漁っていたのは、主として県立図書館(市立図書館も)なのだが、そこには「日記」や「実記」が収められている『松方正義関係文書』(大東文化大学東洋研究所編)が所蔵されていなかったのだ。今考えても納得し難いことなのだが。
 ともかく、繁の子孫氏の史料を解読してもらっていた「鹿児島県史料編さん室」で、たまたまガラス書棚の中にある『松方文書』を見つけ、室長の許可を得て、書簡編の奈良原繁のところだけをコピーし、あとは何が収められているのか確認もせず、そのまま返却してしまっていたのだ。書簡を読んで、繁と松方は深い関係にあったことを知ってからも、松方周辺の資料調査を怠っていたのである。何と思慮の足りないことか。
 

続「生麦事件」(107) 松方正義文書について(14)

2009-02-23 10:58:38 | 歴史
 次に、閏8月15日の松方への沙汰書や明後日17日の鹿児島へ出発のことは、どう書かれているかを見てみると、これにも全く触れられていない。
というより、大久保日記には、江戸から京へ、そして京への滞在の間、松方の動静など何も書かれていないのである。他の人物の出府(江戸行き)の御用などはそれなりに書きとめているのに。

 結局、松方の動静に関しては、大久保日記はほとんど参考にならないのだった。だから、私が疑問に思って追い続けた「同役森岡善助名代承り呉候」が何のために書き加えられたのか、あるいは何の意味もないのか、未だに謎のままなのである。

 ただ、ここまで追及したのは、なにも松方が喜左衛門をリチャードソン「殺害」の犯人に挙げているのは、記憶違いだなどと言うためではもちろんない。  
いくら八十翁の記憶があてにならないかといって、私がそこまで疑えば、私のほうがおかしいと思われるだろう。そうではなくて、本当に喜左衛門がリチャードソン殺害に加わったか加わらなかったかは別問題にして、松方の口からはその他に関わった人物たちの名前が一切出てこないことを不思議に思うべきなのである。なぜなら、松方は、久光の駕籠側にいて、喜左衛門だけでなく、何人もリチャードソンらに斬りつけているのを見ているはずなのに、また、最終的に海江田らが留めを指したことを知っているはずなのに、そういうことに一切触れずにいるのだから。
たとえば、松方の口述を主体に綴ったと思われる生麦事件の『実記』の部分では、

生麦ニ到ルヤ騎馬ノ英人其行列ヲ犯シ先駆ノ士之ヲ制スレトモ言語通セス奈良原喜左衛門遂ニ其一人ヲ斬リ二人ヲ傷ク喜左衛門ハ温厚篤実沈着剛毅ニシテ眞勇アルノ傑士ナリ其人格高潔ニシテ節義ヲ尚ヒ・・・

 これでは、まるで喜左衛門一人がリチャードソンやクラークやマーシャルを斬ったことになるではないか。そして、その罪を喜左衛門一人に被せた後ろめたさを糊塗するかのように喜左衛門を褒め上げているのだ。こんな褒め方では、たとえ喜左衛門が示現流の達人だったとしても、一人を斬り二人を傷つけるような無鉄砲なことをしそうもないではないか。評判のよくない弟の繁ならともかくとして。

続「生麦事件」(106) 松方正義文書について(13)

2009-02-22 11:28:15 | 歴史
 さて、結論から先にいえば、8月26日付けには、駿府で幕府からの書状が届き、松方が急使として鹿児島へ出立したなどという記述は一切ない。そういう点では、中村徳五郎先生や徳富蘇峰先生などは正しい判断をしていたことになるが、二人とも大久保日記(刊行初版は昭和2年だが)を参照して判断していたのかもしれない。
 もっとも、最後に少し気になることが書かれているので、それを掲げてみよう。ただ、読者の中には大久保はどんなふうに日記をつけているのか知りたいという方もおられるかもしれないし、私が言った「簡略すぎる」や「こまめに」の意味合いもご了解いただけると思うので、この日の日記を全文掲載してみることにする。

一 七ツ半時(5時頃)  御立興津             一里二丁
  江尻(清水) 御小休 御本亭寺尾與右衛門       一里二十丁
  小吉田(静岡)御小休    稲葉源右衛門        二里余
  弥勒(静岡) 御小休   亀屋五郎右衛門        三十丁
  丸子(安倍川を越えた所で現在は静岡市) 御休     二里九丁
  岡部     御立場 御本亭内野覚兵衛       一里二十六丁
  藤枝     御泊リ
右之通 御通行安倍川御都合克 御渡リ被為在候事
一今晩京師江飛脚差立本田へ御用封仕出候事

 以上が8月26日の大久保日記だが、旅程はその当時の「東海道旅案内」のようなガイドブックを参考にして書いただけのようで、内容は、安倍川もスムーズに渡れ、無事丸子宿で昼食を取れたことと、夜になって京都に飛脚を差し立てた、ということだけのようだ。
 まあ、どうせ書くのならもっと具体的に書いてもらいたいと思うところが多々あるが、これに類する記録もほとんどないのだから、あるだけ感謝しなければならないのだろう。
 ところで、「本田へ云々」というのは、これだけでは何のことかさっぱりわからないが、前日の日記の最後に、京師ヨリ飛脚着本田問合来ル とあったので、京都留守居(?)の本田親雄(弥右衛門)に対する返事を飛脚で送ったということだろう。鹿児島への急使とは全く関係なさそうである。

続「生麦事件」(105) 松方正義文書について(12)

2009-02-21 11:08:51 | 歴史
 それでは、しばらくそのコピーを入手するのに時間がかかったが、これらの矛盾というか齟齬を、昭和10年に刊行された松方正義の唯一の伝記資料とされている『公爵松方正義傳』(乾巻1201頁、坤巻1176頁および年譜89頁)ではどう処理しているのだろうか。
 解題の著者・藤村通氏によれば、この公爵松方正義伝記発行所による『公爵松方正義傳』は、故人(松方は大正13年7月2日没)の偉大な足跡を記念するため伝記を作成して親戚知人に配布したもののようであるが、この伝記の編述者は、徳富蘇峰猪一郎である。
 蘇峰は、その編述者として「本書編纂の根本資料として、公爵が生前において整理された封事、建白、並びに公私文書により口述筆記されたる『侯爵松方正義卿実記』中村徳五郎編輯及び『海東侯傳記資料』西村天囚草稿あり」と述べているようで、特にその台本となったのが、中村徳五郎の『侯爵松方正義卿実記』だったようである。
 ということは、かれの思想・信条はともかく、『近世日本国民史』全100巻のような、膨大な資料を駆使してあくまで実証的に歴史を縷述した蘇峰は、当然、『薩藩海軍史』の著者が採用した、松方の口述などという実証性のない記録は採用していない。つまり、8月26日に駿府から急使として鹿児島に向ったなどという記述を無視している。そればかりか、さもそれがあやまりであるかのように、中村の『実記』にならい、閏8月15日の沙汰書も掲げ、そして、その2日後、京を出発し、西村の『海東侯伝記資料 談話筆記一』にあったような、
心急(せき)なる舟路は知らて 何の恨か向(むき)の風 という「今様」を、また、より正確と思われる七言絶句の漢詩もここに掲載している。
 とどのつまり、蘇峰は、8月26日の急使(注)の件は、松方の記憶違いだとしているのである。

 ここで、ふと憶い出したことがある。大久保利通日記の存在である。大久保日記は、簡略すぎて詳しい話はわからないのがほとんどだが、用件はこまめに記載しているので、大久保日記に判定を委ねても遅くはない。

(注)・・・吉村昭氏の小説「生麦事件」では、『薩藩海軍史』の説を採用し、松方は、この日、駿府より鹿児島へ向ったと書いている。


続「生麦事件」(104) 松方正義文書について(11)

2009-02-20 11:42:40 | 歴史
 とんだ割り込みで、流れを中断させてしまったことをお詫びしなければならないが、宜しくご高配のほどを。

 さて、2週間ほどかけて鹿児島に着いたが、そこで使命を果たすと、16日に再び上洛の命が下り、5月18日、陸路、京に向った。
そして肥後(熊本)の川尻に至ると、鹿児島に向う飛脚に遭遇した。聞いてみると、どうやら久光は京を経ち、すでに江戸に向った(5月22日)らしい。それから、急ぎに急いで小倉に至り舟に乗ったが、天候が悪く、舟泊まりするので、再び陸路をとる。結局、大坂に着いたのは6月6日だった。さらにまた、そこから伏見を経由して江戸の薩摩藩下屋敷である高輪藩邸に着いたのは、6月13日の正午ごろだったという。
 つまり、この場合、鹿児島から大坂まで18日、大坂から江戸まで11日かかっていた、ということだ。これで当時の旅程の概略がおわかりいただけたと思うが、どうだろうか。
ところで、松方の口述を聞取って西村天囚がまとめたという『松方正義聞書ノート』やそれらを含めた『談話筆記』では、この寺田屋の変の急使をどう書いているのかというと、事実として中村徳五郎の『実記』を否定していないが、非常に簡単にまとめている。それを掲げてみよう。

 此の夜(寺田屋事変のあった夜)の明方、久光公の御直書を持ちて帰国し、事情を報告すべしとの命あり、帰国一週間にし人心平穏なるを見て、再び入京すれば、久光公は巳に大原卿を護りて江戸に赴かれし跡なり、因て尾して江戸に赴く、

 帰国一週間は、もちろん『実記』にある、5月10日に鹿児島に着き、また命を受けて、18日に鹿児島を出発するまでの一週間を指すのだろうが、80歳前後の松方の記憶とはこんなものだったのだろう。
だからといって、私が8月26日の駿府からの急使を簡単に否定できないのは、天祐丸や他の汽船の存在を考えたからで、この辺りの詳細がわからない限り、8月26日に駿府より鹿児島に急使として向ったのかどうか、判定がつかないのである、私には。

お知らせとお願い(1)

2009-02-19 14:37:24 | 歴史
 突然ですが、悲しむべきか笑うべきか、いや笑われるべき事態が発生してしまいましたので、続「生麦事件」のブログに、お知らせとともにお願いのページを割り込ませざるをえなくなりました。お許し願います。
 一週間ほど前、文春から自費出版で出した拙著『新釈生麦事件物語』の販売期間終了の連絡が入り、へえー、そんな時間が経ったのかという思いで編集人と応答すると、初刷1,000部のうち、半分も売れていない実態がわかってしまいました。え、まさか、そんな、と、いつもの私の能天気な頭に鋭く重い、衝撃的なパンチを受け、一瞬、目の前が真っ暗になってしまいました。そして、私が預けていたことになる200部をすぐにでも引き取ってもらいたいと言われたときは、パンチどころか鉄槌をくらった気分になって、しばらく立ち上がれなくなってしまったのであります。

 今では、こういう状況を笑えるぐらいに回復しましたが、「自費出版本など売れるわけがないだろう」と釘をさした友人に、「いやこれは違う」などと大言壮語した自分がいまだに情けないし、また、ネットで本を探してもほとんどの本屋が売り切れ状態だったので、アマゾン(最初から最後までプレミアがつき定価では買えなかったようです)から高値で購入したなどという友人にどう言い訳したらいいか、などと考えると憂鬱で仕方がありません。
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メールアドレス:shounai@marine.odn.ne.jp


続「生麦事件」(103) 松方正義文書について(10)

2009-02-19 10:55:59 | 歴史
 私が最初に考えたのは、松方が駿府より早駕籠で大坂に至り、もしそこから天祐丸(英国汽船)にでも乗って直接鹿児島へ向っていたら、閏8月15日ごろまで京都に戻れる余裕は充分にあったのではないかということだった。そして、何かの都合でその日は京都藩邸にはおらず、代わりに同役の森岡善助が松方への沙汰書を一時的に受け取っていた、と。
 もちろん、私は、久光が下関から乗船した汽船・天祐丸が、そのとき大坂港に停泊していたかどうかは知らない。また、翌年7月4日、鹿児島湾でイギリスに拿捕された天祐丸以外の汽船である青葉丸や永平丸が、どの港に停泊していたのかも知らない。しかしながら、往路か復路でこれらの汽船を使えば、考えられうるということなのだ。
 もっとも、もしそういうことが事実としたあった場合、そういう汽船を使うなどという急使としては当時まだ稀なことでもあったろうから、晩年の松方の記憶にあったとしてもおかしくないのだが。あるいは、何かの記録にでも。

 松方はこれ以前、つまり生麦事件の急使としての前に、同年4月23日起った「寺田屋事変」のとき、それを鹿児島へ伝える急使としても京と鹿児島を往復している。ちなみにこのときの旅程を、まず『侯爵松方正義卿実記』を基に述べてみよう。
 さて、海江田や喜左衛門の後続として、松方は有馬らの過激攘夷派の説得などにも送られていたが、この事件が起った日は、その使いも終えて京都に戻って来ていた。ところが、大山格之助らが(奈良原繁の名前は出していない)が公命を帯びて、伏見の寺田屋へ向ったと聞き、久光に自分もその任に当たりたい、と願い出る。久光もそれを許すと、足軽10人を率いて伏見に向った。だが、松方らが伏見に着いたころには、事件は終わっていて、その惨状を目にしたあとは、負傷者らを京都に連れて戻るだけだった。そして久光に復命すると、今度は、大坂にいる大目付菱刈杢之介に内命の伝達を命じられ、すぐ大坂に向う。それも終えて京都に戻った25日、今度は、鹿児島に急行し、事件の真相と京・大坂の形勢を忠義らに伝えるようにとの沙汰が下った。そこで、その日の黄昏どきに京を経ち、大坂に向った。まさに、息つく島もない忙しさだった。
 おそらく翌日(26日)に大坂から舟に乗ったが、天候不順のため舟足が遅く、5月4日に備後の鞆津に舟泊まり(着船)してしまった。そこで、鞆津に上陸し、昼夜兼行、5月10日の薄暮に鹿児島に着いたという。鞆津という港が現在のどのあたりかわからないが、岡山周辺だとしたら、この昼夜兼行は、小倉から鹿児島まで昼夜兼行で6日ほどかかった記録もあるのだから、驚くべき早さだ。