海鳴記

歴史一般

老農・塚田喜太郎(7)

2015-01-17 17:01:29 | 歴史
                    (7)
 地元新聞の記事によれば、この再建祭には鹿児島から3人の喜太郎翁の子孫氏が集まったということだった。今、メモ帳の名前を見ているが、二人は男で一人は女性名である。塚田姓が2名と女性は嫁ぎ先の名前なのか塚田姓ではなかったが、わざわざ鹿児島から郡山まで出向いたのだから、翁の子孫氏と繋がっているのだろう。
 とにかく、市長も列席したのだから、それなりに盛大な催しだったようである。ところで、その再建にもっとも尽力した人物が喜久田堀之内在の市会議長も務めたこともある遠藤直人氏だったが、『老農塚田喜太郎翁』という自伝も出していたので、直接訪ねてみることにした。
 そ場所は、翁の顕彰碑からさほどの距離ではなかったが、出向いたときは残念ながら不在だった。というより、近所の人の話によると、ほぼ毎日、デイケア・センターに通っているそうで、それもやや認知症気味だから、話ができるかどうかも危ういということだった。そこで、家族のことを訊くと、息子さんがいて、それも私が何度も行ったことのある安積疎水事務所の職員だということがわかった。そこで、また日を改めて、遠藤氏の息子さんに会うことにした。
 翌日、疎水事務所で働いている遠藤正一氏という息子さんに会って直接話を聞くと、どうやら自伝は、父親の直人氏が書いたという訳ではなく、後記にある編集人のようであった。また、自伝の元になった翁の子孫氏の本は、遠藤家には一冊もなく、その編集人が所有しているということだったので、その住所を聞き、そこを訪ねることにした。
 何とか探りあてた家には、市役所を退職した本人が在宅し、丁寧に応対してくれたが、一冊しかない元本を譲ってくれそうもなかった。そして、奈良原繁と翁がどういう経緯で知り合ったのかもわからなかったのである。とりあえず、鹿児島の子孫氏の住所や電話番号を聞いてそこを跡にした。

 結局、以後の調査は尻切れトンボに終わってしまった。電話で翁の子孫氏と応答しても、谷山地区の誰の仲介で繁は翁を呼んだのか皆目わからなかったのである。それがわかれば、あるいは私が喜左衛門の娘ではないかと推測した奈良原トミと養妹、養兄の関係を結んだ原田雅雄氏が、なぜ一時的にも谷山に住所をおき、同村の橋本セツと結婚したのか等々の糸口が見つかる可能性があったのだから。
 もっとも、鹿児島でもほとんど知られていない、塚田喜太郎という人物を異教の地で発見したことで充分だった。あまりほめられる記事のない奈良原繁やのちに鬼県令と恐れられた三島通庸の記録を読むのは、あまり気乗りするものではない。しかしながら、塚田喜太郎翁はいまだに感謝され、一部の人に語り継がれているのだ。事績の大きさはともかく、これだけで充分だろう。
 もって瞑すべし、である。

老農・塚田喜太郎(6)

2015-01-15 13:44:31 | 歴史
                         (6)
 喜太郎翁は名頭であるとともに篤農家でもあったらしい。藩からも信任を受け、各地の開田事業にも従事したり、大隅半島の開墾事業にも携わった記録も残っているそうである。そういう人物だったからこそ、「お国」や「郷土」のためというより、個人的な責務や献身的な人柄が福島行きの最大の契機だったと言っていいような気がする。そういう自己犠牲的な性格が強かったからこそ、後々までも語り継がれてきたのだ。おまけに、婿養子の跡取りもしっかりした男でかれに家業を任せても何の問題もなさそうだったし、女房もまだ元気だった。さらに、60歳になっていたとはいえ、まだまだ余力があり、隠退する気になれなかったとすれば、断る理由がなかっただろう。
 喜太郎翁は、喜久田・堀之内に開墾地に5町歩(ヘクタール)の試験場を与えられ、そこではかれの創意工夫を思うままに発揮できた。最初の頃、翁を冷ややかな目で見ていた近隣の開墾士族もいたに違いない。 しかしながら、かれの献身的な努力が実り、2年後には近隣の農民士族がなしえなかった収穫を成功させたのである。開墾者たちは、すぐにかれの農法を取り入れ、何とか農民として生き延びることができるようになった。以後、かれに対する信頼は絶大なものだっただろう。幾たびも感謝の辞を述べたに違いない。それに対して翁は、尊大にふるまうどころか、いつも腰を屈め、
 「おいごつは、鹿児島の平民じゃっで・・・」
 とへりくだったもの言いをしていただろう。そして、「平民」という言葉が、かれの口癖になった。もちろん、これには鹿児島で生活してきた、かれ流の「平民でもこれだけのことはできっど」という自負が込められていたに違いない。あるいはかれの反骨が。
 私は、こんな想像をしながら、東北人の典型のようなへりくだった対応をする住職に感謝し、別れを告げた。

 翌日か翌々日、私は住職より平成9年の喜太郎碑再建時に、鹿児島から子孫氏が出席したという話を聞いていたので、また市立図書館に行き、当時の新聞記事を漁った。すると、やはりあった。もっとも、そのコピーは手元にないが、必要な人名や事項はメモしておいたので、それを元に述べてみよう。また、この過程で、この再建委員会の実行委員長は市会議員の遠藤直人氏という人物が、平成10年に『老農塚田喜太郎翁』という自伝を発行していることも知った。 
 私が自伝と言ったのはこの本のことで、ここで述べられている翁の来歴や事跡はこれを参考にしている。その後、この種本である塚田翁の子孫氏にあたる自伝を求める努力もしたが、残念ながら入手不可能であった。


老農・塚田喜太郎(5)

2015-01-14 09:24:46 | 歴史
           (5)
 私は、以前、西南戦争後の鹿児島では、多くの士族が屈折した挫折感を味わった、と書いたことがある。要約していえば、官軍側にいて維新を成功させた勝者の歴史を、十年も経たずに敗者のそれに変えてしまったということだ。賊軍という汚名を着せられて。そのことによって、精神のバランスを失い、苦悩した。それでも多くは生きて、生活していかなければならない。そのためには、先ず自己正当化する必要があった。その結果、かれらの精神的支柱だった西郷隆盛という人物を「神」に祀りあげなければならなかったのである。そして、その「神」とかれらの接点は、薩摩武士という一点のみであった。つまり、かれらは武士だったというプライドのみで生きていかなければならなかったのである。そういう士族の多い鹿児島で生活する「平民」は、今の言葉を使えば、何かと上から目線でものを言われたり、命じられたりすることが多かった。
 塚田喜太郎翁の自伝では、最初、福島行きに躊躇はあったものの、奈良原繁の「お国のために」という言葉が最終決断を促したように書いている。しかし、果たしてそうだろうか。そもそも明治13年当時の「平民」に、また西南戦争の余燼が色濃く残っている鹿児島で「お国」意識などあっただろうか。それは疑わしいというより、なかったと考えるほうが私にはしっくりする。もしそういうものがあったとすれば、せいぜい郷土(党)意識だった、と。だから、繁のいう「お国のために」という句が、「郷土・鹿児島のため」というのなら、わかるのである。
 塚田翁は、江戸期、「塚田門(かど)」の名頭(みょうず)だったそうである。いわば、他地域における「庄屋」や「名主」に相当する。ところで、この「門」というのは、薩摩藩独特の農民支配構造で、「門割(かどわり)制度」として有名である。今、正確な記述はできないが、要するに、他藩に見られるような村単位の年貢収納ではなく、30石なら30石ぐらいの収穫高になるように農家を集め、それを「門」として年貢を取り立てるやり方である。これはなかなか巧みで効率的ではないか。たとえば、大きな村単位だと、年貢収納がどうしても雑駁になり、収穫高の数値を動かしやすい。つまり、農民側のごまかしや不正が容易であるのに対し、20石や30石というように小さく区割りされると、なかなかごまかしがきかなくなるのだ。それゆえ、薩摩の農民は長い間、苦しい生活を余儀なくされたのである。「八公二民」とまではいかないにしても。

             

老農・塚田喜太郎(4)

2015-01-13 12:36:21 | 歴史
            (4)
 翁の墓があるという龍角寺は、すぐに見つかった。翁の碑の近くで聞いた通り、郡山市を横断している国道49号線からさほど離れていなかった。
 除染中の広い駐車場に車を停め、寺を見廻すと、これも再建されたばかりと思える大きな寺だった。後でわかったことだが、平成18年に建替えされたようだから、大地震とは関係なかったようである。その寺の背後の小高い丘陵地帯が墓地のようだった。ちょうど昼飯時だったので、しばらく間をおいてから本堂正面脇にある居住地に向かい、玄関の戸を開けた。最初に出てきたのは、住職の奥さんのようで80歳前後くらいだった。来意を告げると、その話を聞いていたのか小柄で痩せた住職がすぐ顔を出し、これは、これは、というような対応をし、すぐさま墓に案内すると言った。それから、何か準備しているようなので、玄関の外で待っていると、桶に手じゃくと花を持って現れたのである。私は、恐縮というか何か面はゆい感覚にとらわれた。私は、塚田翁の子孫でも親戚でもないのだ。奈良原繁という人物を追っているうちに遭遇した、というだけなのだから。
 さて、住職の後について行くと、やはりかなり広大な墓域だった。これでは、一人で探していたら相当な時間を要していただろう。それはともかく、翁の墓は西側の国道に面した丘の中腹にあった。周りは、ほぼ戦後に建てられたものだろう。新しい墓ばかりであった。それらに囲まれた一角に、翁の墓はあった。当然、周りの墓に比べれば小さいものだが、明治20年代の墓としては、立派とは言えないものの普通以上の大きさに思えた。
 和尚はというと、墓に着くと早速水で清め、花を捧げ、線香を手向け、私と話しをしている間も、周囲のそれほど生えていない雑草を取ったりしている。
 私は、西向きの、故郷鹿児島に向かって建てられたというその戒名等を書き留めてくるのを忘れたが、谷山出身の平民・塚田喜太郎という文字にとらわれてしまってそれどころではなかった。和尚と問答しても、首を傾げるばかりで、この辺でそういう文字を刻むことはないという返事だった。まさか、それを建てたと思われる(注)久留米や土佐や鳥取出身の士族開拓民が、自分たち士族とは違う平民だから、それを刻んだということはないだろう。なぜなら、そんな一段下に見ていたとすれば、語り継がれることもなかっただろうし、顕彰碑を再建するはずもなかっただろうから。
 それでは、どうしてだろう。なぜ、鹿児島出身の平民にこだわったのだろうか。

(注)・・・鹿児島から翁に従ってきた森元山助は、数年で帰郷したという。それも現地の花嫁とともに。そして、その子孫氏もいるらしい。


老農・塚田喜太郎(3)

2015-01-11 18:54:53 | 歴史
               (3)
 (3)
 最後に、翁が明治23年2月21日に70歳でこの地で没し、喜久田町内の龍角寺に葬られた、と刻まれてあった。尚、この建立碑は、平成9年に再建され、藤森英二謹書と当時の郡山市長の名もあった。

 私が予想外だったと書いたのは、私がそれまで目を通した資料には、この再建された碑のことなどどこにも記載されていなかったからである。またさらに驚いたことに、その別な一画に新しい碑とともに明治22年に建立された古い碑も存在していたからであった。これは一体どうしたことだろう。招いた奈良原繁の名前があっても、かれの碑などどこにもなく、招かれた塚田翁が未だに顕彰され、この地の人々に記憶されているとは。
 当時、この開墾地には久留米藩士族が多数入植しており、近隣では鳥取藩や土佐藩士族なども耕作に従事していたようである。それゆえ、いわゆる武士の稚拙な農法では、反当りの米作収量は極めて貧弱だった。それを翁の直播法を倣うことによって反当りの収穫量が飛躍的に伸びたのである。もっとも、翁がその技法を直接鹿児島から持ち寄ったということでもないらしい。
 鹿児島との気候風土の大きな違い。また火山灰土と粘土質の固い土壌では、そのまま鹿児島でのやり方を導入しても埒が明かなかったのも無理もない。一緒に連れてきた甥の森元山助とともに、翁がもっているすべての技術を注ぎこんでも初年度の収穫は開拓士族同様で思いの半分にも達しない大失敗だった、とかれの自伝『物語喜太郎翁の生涯』にある。しかしながら、翁は未だにこの地の人々から顕彰される人物なのである。こんなことではあきらめなかった。長い冬の間、思案に思案を重ね、それを翌年の稲作りで試作すると、それが見事に功を奏したのだ。鹿児島の芋づくりでは当たり前の骨粉を使用したことにより。
 かれの自伝によると、士族が入植した当時の反当り収量は、一斗四~五升で翁の農法を取り入れた結果、十倍の四俵にも達したという。一俵を三斗五升とすれば、計十四斗でまさに飛躍的に収穫量が伸びている。 その喜びは、いかほどだったろうか。その地域で翁の恩恵を受けた農民たちが代々語り継いだのも無理もない。その結果が平成九年(1997)の顕彰碑の再建に至ったのだろうから。
 話を若干急ぎすぎたようだ。私は、碑に刻まれてあった翁が葬られている寺を探し、訪ねることにした。これも、塚田喜太郎翁が、この地の人々に敬われてきた証なのだから。

老農・塚田喜太郎(2)

2015-01-11 09:23:38 | 歴史
                (2)
 私は、郡山に着いた翌日から市立図書館に出向き、塚田喜太郎翁の事跡探しに取り掛かったが、最初はおざなりの資料しか見当たらなかった。それでも、翁の顕彰碑が対面原(たいめんがはら?)にあるという記事を頼りに、その地が現在のどこに当るか等、図書館員に探してもらい、訪ねることにしたのである。そして、図書館でもらった地図を頼りに2,30分車を走らせると、田んぼが広がる純農業地帯に入った。やや起伏に富んだ地帯にある田んぼは、大規模な灌漑でも施さなくては、稲作など不可能な土地だったろうと思われた。もっとも私は、当時この不毛な地に猪苗代湖から水を引くという、いわゆる安積疎水という明治の一大事業を知っているから、特にそう思えたのだろう。そんなことを考えながら、それほど迷うことなく目指す場所に至った。
そ こは郡山市喜久田町堀之内にある北原集会所である。ところで、その前というか、道路がY字形になって分かれている先っぽの三角地帯が碑のある場所だった。車を道路脇に停め、その公園風になっている碑のある場所に入って驚いた。新しい、大きな碑があるではないか。それも奈良原繁などではなく、かれが鹿児島から呼び寄せた一農民の顕彰碑なのだ。
 そこに刻字された碑文はすぐに読めた。長文なので要約すると、
 奈良原繁から招かれた塚田喜太郎翁は、骨粉肥料という我国稀有の農法を始めて普及させ、授産開墾の人々の暮らしと心に大きな希望をかき立てた功業を後世まで伝えるために(再度)建てられたと記されている。さらに、明治11年、奈良原繁が授産地業務、猪苗代疎水事務取扱主管として派遣されて以来、諸開墾地の実態に憂慮し、農事練達指導の必要性を感じて郷里の老農を求めて招いたとある。そして、明治14年
(注1)以来、翁はここを居住地にして、直播(じかまき)法によって収穫量を数倍まで上げ、近隣の開墾者もこれに習った。明治22年、帝国憲法発布の祭典に、政府より農事功労を顕彰され、木杯3組を賜った。その際、翁の恩恵に浴した人々が集い、碑を建立したという。その碑文は奈良原繁が認めた。

(注1)・・・塚田喜太郎の子孫氏が現在も鹿児島に居住し、その子孫氏の一人
     が翁の伝記を出版している。そこでは、明治13年秋に郡山に着いたことになっている。
                      

老農・塚田喜太郎(1)

2015-01-09 14:25:19 | 歴史
             老農・塚田喜太郎
 新年あけましておめでとうございます。
 昨年6月、除染作業員として再度福島の郡山入りした際、一週間ほどの待ち時間があった。待ち時間というのは、除染現場へ赴くまでの待機期間のことである。それ以後もとんでもない面白いというか破目茶目というか滅茶苦茶というか、今振り返れば、5年なり10年の時間経過を半年間で集約したような身体なり心の起伏を味わってきた。つまり、福島以外では経験しえない経験をしてきたというわけである。今もその余波が静まらないのだが、ここは歴史ブログなので、その一週間の待ち時間内で私が出合った人物のことを話しておこう。勿論、実際に生きている人物ではない。過去の、あるいは歴史上の人物といってもいいだろう。少なくとも郡山では。
 表題の塚田喜太郎翁のことである。この人物名は、初出ではないと思うが、前回の「奈良原家の怪」にも登場している。だから、気にはなっていたが、前々回の福島入りでは、足がなかったため断念していた調査であった。今回は、車で福島入りをしたので、その点は申し分なかった。郡山周辺だけでなく、阿武隈山中や、いわゆる浜通りまで自由に走り廻れたのだから。
 ところで、「奈良原家の怪」の最初は舌足らずな表現で、私が読んでも分かりにくい章だった。奈良原雅雄氏の谷山入りを強調する余り、塚田喜太郎翁が谷山郷の出身だったことを曖昧にしていたのである。一因には、確信が持てなかったこともあろう。
 私の「奈良原繁年譜」の明治13年の項には、
5月、繁の尽力で大蔵壇原や対面原開墾地に老農招聘と試験田設置のための予算(一二四一円)が付き、繁の郷里鹿児島(谷山)出身の塚田喜太郎および久留米出身の鳥越円作二人の老農が招聘される。塚田喜太郎は対面原の勧農局試験場で、鳥越円作は大蔵壇原で農事指導に当った。(『大久保利通と安積疎水』・・・立岩寧)
 と、括弧付きの谷山だったからである。私は、実際、『大久保利通と安積疎水』の著者である立岩寧氏(注1)にも会ったが、典拠は聞き忘れてしまった(注2)。しかしながら、今回の調査ではかなりのことがわかってきた。それに予想外のことも。

(注1)・・・立岩氏は、大半は東京の自宅住まいらしいが、年に何度か郡山の別宅に滞在するという。なお、安積疎水の実質的推進者であった中條政恒が郷里・米沢から呼び寄せた第一の部下に立岩一郎という人物がいた。寧氏はその直系子孫氏である。余談だが、中條の孫に宮本百合子。一郎の孫に久米正夫がいた。
(注2)・・・その日は、雨で仕事は休みだった。言い訳がましくなるが、夕方の訪問時はかなり激しい雨になり、借りてきた8人乗りの車を立岩氏宅の駐車場に入れるのはなかなか大変だった。その際中、これまた狭い裏道に入ってくる車があり、一旦それを通そうとやや勢いよく駐車場を出たので、向かいの家の塀にぶつけてしまった。その結果、スモールランプを壊してしまい、明日の通勤時まで修理しなければと、立岩氏との話も気がそぞろだったのである。