海鳴記

歴史一般

すべては「生麦事件」から(36)

2008-05-31 17:34:57 | 歴史
 以上、奈良原繁の血を分けた子孫は、嫁に行った繁の長女の家系と幸彦の長女の家系だけで、男系の直系はすべて絶えている、と考えられるが、繁の長女の家系は確認していないので、今も続いているかどうかはよくわからない。
 ただ、これで終わりだとしたら、何も問題なくすべてすっきりしているといえるのだが、奈良原繁の孫だといってはばからない人物がいたのである。
 ブログの(11回)でも触れたが、綱淵謙錠が会った奈良原貢(みつぐ)氏のことである。
 私は、綱淵が雑誌で発表した貢氏の「家伝」や平成7年度の読売新聞での10段抜きのインタビュー記事(注1)を読む限り、かれの周囲は盛り上がっているのかと思いきや、これが妙に冷ややかなので、最初ひどく困惑した。
 たとえば、この事件を調べ出してからすぐ読んだ吉村昭の『生麦事件』(平成10年)などでは、貢氏の「家伝」など全く相手にせずに定説にそった「事件」(注2)を描いていたし、貢氏の縁戚の人物なども貢氏の「家伝」など信じていなかったのである。それゆえ、その後しばらくして会いに出かけた横浜の浅海氏の貢氏に対する反応(22回)なども何となく理解できたのである。
 さらに、奈良原繁の除籍謄本を早くから入手していた平木國夫氏なども、あからさまには言わないまでも、貢氏をいわばペテン師扱いをしているほどだ。
 浅海氏も、当然、繁の戸籍に載っていないことなども知っていただろうから、吉村昭氏が取材で浅海氏を訪れたときには、そのことも話しただろう。記録された歴史事実を重んじる氏は、戸籍にもない子孫の曖昧な「家伝」を信じる気にはなれなかったのかもしれない。

注1・・・貢氏のインタビュー記事は、昭和59年9月のサンケイ新聞・神奈川版にもあり、また同新聞には3回にわたる特集記事も掲載されている。
注2・・・吉村氏は定説どおりに描いたのはもちろん、事件当日、保土ヶ谷に泊まった小松帯刀が、江戸の薩摩藩邸に喜左衛門が斬ったという手紙を送ったと書いている。私がその典拠を吉村氏に問い合わせたところ、失念したので、鹿児島取材で世話になった黎明館の学芸員に尋ねてもらいたいという返事があった。しかしながら、その人物に問い合わせても、よくわからないという返事だった。その後、いくら探しても問題の書簡は見つからないので、この部分は、氏の創作だと思う。

すべては「生麦事件」から(35)

2008-05-30 13:06:11 | 歴史
 非嫡出子である幸彦の生まれた翌年の明治9年12月28日が、嫡男・三次の誕生日である。ところが、明治29年4月4日に、繁は、三次の生年月日を明治10年2月11日に変更している。さらに、同年7月22日、多賀タキの私生児に付き、として幸彦の籍を抜き、三次を次男に訂正し、その3日後の7月25日、一旦、籍を抜いた幸彦を再び実子として籍に入れているのである。
 これは、繁がこの年の6月5日に男爵位を受けたための戸籍変更だと思われるが、三次を次男と訂正したのは、男爵の継嗣等の提出に際し、三次を跡継ぎとして正当化したかったためだろう。要するに、長男・竹熊は3年前に死亡しているし、次男だが、いわゆる妾の子である幸彦の籍を抜けば、戸籍上では三次が繁の一番上の子供になるからであろう。
 ただわからないのは、前もって男爵位の内示はあったにしろ、三次の生年月日を、明治9年12月28日(別系列の戸籍では11月7日となっている)から、翌年の2月11日に変えていることだ。
 戦前の2月11日は紀元節だが、男爵に列せられるお祝いを兼ね、そういうおめでたい日に改めたということだろうか。そのために、戸籍係を呼びつけたか、あるいは人に命じてそうさせたかわからないが、なぜわざわそんなことをしなければならなかったのだろうか。

 これらの詳細がわかったのは、最終的に繁の除籍謄本を入手してからのことだが、最初は、平木国夫氏の三次をめぐる『南国のイカロスたち』や『イカロスたちの夜明け』で知った。平木氏は、これらのことを「いかにも権力によって戸籍謄本の記載事項の改変など意のままだ、といわぬばかりの操作がいたるところで目につく」と表現している。
 全くそうなのであるが、ただ単に力を誇示したいために他人の目に触れない戸籍の操作などする必要はないのである。何か思惑があったのだ、繁本人には。

 幸彦の話から少しそれてしまったので元に戻すと、幸彦は明治37年に沖縄で結婚し、その後一男一女をもうけ、昭和16年、67歳で亡くなっている。また、その妻は、昭和20年に、長男は結婚もせず、昭和21年に死んでいる。この家系からは、嫁に行った長女の子孫が残っているだけである。


すべては「生麦事件」から(34)

2008-05-29 13:46:04 | 歴史
 奈良原繁の除籍謄本で追える他の子供たちに関していえば、先ず、明治元年生まれの長女・ナカは、のちに東京帝国大学の教授(細菌学)になる田中宏と結婚している。そして、その子供の一人である田中良は、三次の飛行機造りを手伝っていたりしている。良は東京美術学校を出て、のちに画家(デザイナー?)になったとされるが、三次とは従兄弟同士で年齢も近かったからだろう。
 次に明治3年生まれの長男・竹熊は、ドイツ遊学中に病気になって帰国し、故郷の桜島で療養生活を送っていたようだが、明治26年10月に亡くなっている。 
繁は前年の7月に沖縄県知事に任命されていたから、長男が死んだときは、沖縄からやって来たに違いない。この竹熊の墓は、(14回)、(15回)のところでも触れたように、繁や喜左衛門たちが眠っている鹿児島の墓地にある。
 さて、竹熊の翌年に生まれた次女・トキは、明治22年には死亡している。彼女も病弱だったのだろう。この次女の死に際して、しばらく会社(日本鉄道会社の社長だった)へ行けなかったほど悲しんだ、と繁は伊藤博文に送った手紙のなかに書いている。だから、その4年後に亡くなる長男のときもそうだっただろう。ドイツへ留学させたほど期待した跡取りだったのだから。
繁は、生涯を通して評判のよい人物とはいえなかったが、その分家族思いだったのかもしれない。
 これらの子供たちは、三次も含めて正妻・毛利スカ(音はスガか)の血を分けているが、明治8年7月(6日)には、多賀タキを母とした幸彦という次男が生まれている。これは、のちに取得した除籍謄本でわかったのだが、私の墓石調査では、幸彦の母親は奈良原マスだった。というのは、幸彦家族の墓域には、隣り合って、幸彦家族と奈良原マスの小さな墓が二つしかなかったからである。もし、多賀タキが幸彦の母親だとしたら、多賀タキの墓と一緒にあってもおかしくないのだが・・・。
 また、明治41年、沖縄で奈良原繁の銅像が建立される際、その序幕式の出席者として、奈良原マス、幸彦夫婦とその長女の名前があったので、私はマスを幸彦の母親だと思っていたのである。

すべては「生麦事件」から(33)

2008-05-28 13:40:39 | 歴史
 ついでだが、「係累が途切れて、60年経てば、その戸籍は抹消される」法律のことである。どうして、そういう法律が存在するのかわからないがー御存知の方には教えてもらいたい、これもどうにかならないかと思っている。
 寺請制度のあった江戸時代と比べても、資料の保存ということでは、後退しているのではないか。つまり、寺が存続する限り、過去帳が残るわけだから、ある家系が途絶えたとしても、その前の記録は残る。つまり、私の調査の場合でいえば、トミさんの親が誰なのかわかるということである。
 私は今でもトミさんの親が誰なのか知りたくてうずうずしている。たとえ、喜左衛門の娘でなくとも、あるいは繁家とも何の関係がなくとも、全くかまわない。純粋に当時の鹿児島における奈良原家の状況を知りたいのである。

 話をもとに戻そう。喜左衛門の子孫に関することはあらかた述べたと思うが、なぜ、こんなふうにわからなくなったかについては、喜左衛門夫婦が早く亡くなったことにもよるが、おそらく、子供がいたとしても、娘だけだったからだろうと思う。もし男児がいたら、かれが喜左衛門家を継いでいたろう。また、それなりの家として存続しただろうし、跡を追うこともできただろう。だが、不幸にして、男児はいなかった。
 こういう結論も、結局は繁の子孫を追うことで得られたのであるが、では、繁家の子孫はすべてはっきりしているかというとそうでもなかった。
 まず、繁が死んだあと、その家を継いで男爵となったのは、最初の戸籍上では3男の三次で、昭和19年に亡くなっている。そして、結婚した妻との間には1人娘がいたが、婿を迎えるでもなく、男爵家は途絶えたようである。その娘は、昭和の初め、水谷八重子のいる新派の劇団に入り、スキャンダラスに報じられたりもしたが、他に嫁入りすることもなく、戦後いつ頃かわからないが没している。三次も、この娘も東京の品川にある海晏寺に葬られたとされるが、墓は道路拡張で撤去され、今は合祀されているという。


すべては「生麦事件」から(32)

2008-05-27 13:35:39 | 歴史
 そうだとすれば、やはり、奈良原姓の中で、繁家が群を抜いて力があったと思われるのだ。それゆえ、たとえば、繁が東京で原田雅雄氏を知り、自分が父親代わりをし、土地も確保していた喜左衛門の娘の奈良原トミと結婚させたというような推測が可能なのである。繁は兄・喜左衛門に負い目があり、その娘の1人に土地を与え、喜左衛門家を存続させるため、病弱なトミさんに婿を迎えてあげた、と。
 だが、これはあくまで想像であって、何の確証もない。

 結局、奈良原雅雄氏のこともトミさんのこともわからずじまいだった。最終的に、法規的措置で奈良原家関係の除籍謄本を入手したあとでも、トミさん以前を辿ることはできなかった。正確な法律、数字は知らないが、係累が途切れて60年以上経てば、戸籍も処分されてしまうようである。ということは、トミさんは雅雄氏と結婚したわけではなさそうだ。それに、雅雄氏に関しては、また意外な面が現れたが、どうもよくわからずじまいだった。それ以上続けると差し障りが出てくるともかぎらないので、雅雄氏の件を追究しようとすることはあきらめた。第一冊目の『血の迷宮 生麦事件』はともかく、今回の『新釈 生麦事件物語』では、雅雄氏に関しては全く言及を避けている。何か結論を出すにも、状況証拠が少なすぎたのである。

 話は少し横道にそれるが、お許し願いたい。除籍謄本のことである。以前も触れたが、学術目的の条項はともかく、その具体事例の範囲を広めてもらいたいのだ。権威ある書物に書かれた定説が崩れるかどうかが、学術的でないというのならともかく、事件をうやむやにしたおかげで、三代にわたる奇妙な、何か言いようのない「冤罪」のしこりのようなものが生まれ、そしてそれを取り除くことができるのなら、歴史への、つまりは人間への大いなる貢献ではないか。それに「学術」という冠がかぶせられないとしたら、「学術」などたいしたことはないのである。偉そうな、といわれてしまいそうだが、たとえ、そういわれても、訴えたいのである。歴史的に検討の余地のある事例に関して、個人に戸籍の開陳を認めてもらいたい、と。

すべては「生麦事件」から(31)

2008-05-26 14:32:29 | 歴史
 しかし、考えてみると、何かかなり釣り合いのとれない結婚のようである。かたや子持ちの離婚した男、おまけに鹿児島には全く血縁のない、新潟出身の平民である。他方、奈良原トミさんは、180坪ほどの土地の名義を持つ士族の娘である。現在ならともかく、おそらく当時としては、考えられない結び付きといっていいのではないだろうか。
 さらに、それ以前の問題として、なぜ雅雄氏は、地縁・血縁もない鹿児島県の役人などになれたのだろうか。確かに、新潟から鹿児島へ直接やってきたのではなく、東京からやってきている。しかし、上級役人としてではないのだ。あくまでも、地元の人間と同じように、下級の役人として。

 私は、これらのことから、雅雄氏の背後にも、奈良原トミさんの背後にも誰か力のある人物がいると推測した。では、その人物とは誰か。それは、奈良原繁だ、と。

 明治20年代、鹿児島城下―市制はまだ敷いていないのでーには、何軒の奈良原家があったかはよくわからない。ただし、幕末の城下絵図では、3軒の奈良原姓が確認される。そのうち1軒は、繁家(喜左衛門家)である。
もともと奈良原家は土着の武士ではない。11代守護職・島津忠昌に召しだされ、山城国から入国したとされている。そして、永正5年(1508)、忠昌が自刃したとき、その殉死者の1人に奈良原姓が見出され、その後も、秀吉時代の文禄・慶長の役に出軍した者や、島津家中興の祖といわれる忠良に仕え、地頭職に任ぜられた者の記録もあるので、それなりの家系である。
 そして、幕末期のころの奈良原家が最初の一家から出たとすれば、繁家を除いた他の二家は、城下町形成から推定してより古い家であることがわかる。また、それらの家の墓は、現在もっとも古い墓が残っている墓地内にあり、それぞれ本家筋と分家筋のものと推測される墓が存在する。しかし、分家の墓はもちろん、本家の墓の中でも明治29年の碑銘がもっとも新しく、それも女性名なのである。つまり、これらの家は、当時すでに鹿児島を去っていたか、没落していた可能性が高いのである

すべては「生麦事件」から(30)

2008-05-25 17:10:20 | 歴史
 私は、送られてきた原田家の除籍謄本に対してお礼を言うため、再度、新潟の原田氏に電話をした。すると、また面白い話が聞けたのである。
 一つは、雅雄氏の長男が鹿児島から新潟へやって来たとき、長押(なげし)のようなものを担いだ人夫を先頭に、かつての武士の行列のように仰々しい格好で村を練り歩いたというのだ。それが今でもその地域の語り草になっているというのである。
 もう一つは、新潟の家を継ぐようになった雅雄氏の長男と、その後生まれた雅雄氏の子供たちは交流があったというのだ。というより、かなり財政的な援助をしたというのである。
 そういえば、雅雄氏は、大正元年には、奈良原トミさんより受け継いだ土地を手放している。これも奈良原繁と同様、金貸しの抵当として取られたような形跡がある。それから翌年には、同じ鹿児島市内だが、本籍地を失った土地の住所から、繁が晩年住んでいた「奈良原殿屋敷(ならばらどんやしっ)」のある町内に移している。そして、大正13年には、69歳で東京に移っているのである。雅雄氏には養子に行った長男を除いて、3男2女がいたようだが、どうやら、窮迫して、先に東京に行っていた息子にでも呼び寄せられ、最晩年にもかかわらず東京に移らざるをえなかったのだろう。
 墓石調査をしていたとき、ある墓地の管理簿に、奈良原雅雄という名前があった。そこで、管理人と一緒に墓を探してみたことがあるが、その場に墓はなかった。どうしてこんなことがあるのだろうと管理人に尋ねると、管理人は、生前、ここに葬るつもりで墓域は確保したが、何かの都合でよそに葬ることになったか、建てたことは建てたが、夜のうちに黙って持ち去ったのかもしれない、と事もなげにいうのである。一瞬、耳を疑ったが、墓地が寺ではなく、市の管理下にある鹿児島ではありえないことではないらしかった。もちろん、雅雄氏の場合は、前者だろうが・・・。

 新潟の原田氏の電話での話は、「生麦参考館」の浅海氏が書き留めていた東京の喜左衛門氏の子孫の名前とほぼ一致していたので、それらが本当だとすれば、雅雄氏は、喜左衛門の娘のところに養子に行ったことになる。つまり、奈良原トミさん名義の土地を譲り受ける代わりに、奈良原家に養子として入り、のちにトミさんと結婚したのである。



すべては「生麦事件」から(29)

2008-05-24 16:06:22 | 歴史
 雅雄氏の子孫氏の話は意外な方向に進んだが、それを整理するためにも、できれば、除籍謄本の写しを見せてもらいたいと頼みこむと、意外にあっさりとOKしてくれた。

 さて、私は先を急ぎすぎ、どうも記憶違いのまま、話を進めてしまっていたようである。ここで私の記憶の混乱を整理しておかねばなるまい。前々回(27回)、除籍謄本の取得がままならないまま、『官員録』から奈良原雅雄氏の出身地を辿っていったように書いたが、実際、そこには新潟県としか記録されていなかったのである。では、どうして具体的な場所を確定できたかというと、それは、奈良原雅雄氏の戸籍抄本を入手していたからなのである。ではどうしてその戸籍抄本を入手できたかというと、これはあまり大っぴらにいえない方法だった。法にふれるほどのことでもないが、あまりほめられた方法ではないことも確かなので、おそらく私の記憶から消えていたのだろう。
 ともかく、やや強引に雅雄氏の戸籍抄本を入手していた。それを入手したときは、してやったりとほくそえんだが、それもほんの一瞬だった。
 雅雄氏が入手した土地の住所は、もと奈良原トミという女が戸主(持ち主)で、奈良原トミは雅雄氏の養妹となっていたのである。とすれば、誰が養父母だったのか、戸籍抄本では、それはわからなかった。わかったのは、雅雄氏の当時の出身地住所と、このトミとの関係だけだったのである。

 このあとは、ほぼ前回(28回)の通りだった。もちろん、驚いたのも同じだが、雅雄氏に子供がいたことも電話で初めて知ったことである。

 新潟へ電話した数日後、原田家の除籍謄本の写しが送られてきた。それを見ると、確かに雅雄氏は明治18年に長男をもうけていた。そして、いつ頃離婚したのかわからないが、子供は雅雄氏が引き取っている。なぜなら、雅雄氏の実家と養子縁組した長男の住所は、雅雄氏が入手した土地の住所になっていたからである。つまり、雅雄氏が長男を連れて奈良原家と養子縁組した3年後の明治26年、長男は新潟の実家へ養子に行ったのである。

すべては「生麦事件」から(28)

2008-05-23 13:33:05 | 歴史
 現在でもそうだが、明治20年代でも、高い地位の役人として鹿児島にやってくるならともかく、最下級の役人として記録されているのである。それも新潟のある郡部の出身者として。
 これらのことから、奈良原雅雄氏がもう喜左衛門の子孫だとは思えなかったが、養子として入った人物とも考えられるので、まだまだ追う必要があった。 
まず、その郡部の中心都市と思える役所に電話をし、現在の住所がどうなっているのか確認したのである。それを確かめた後は、図書館にある電話帳で、その地の原田姓にあたった。すると、4軒見つかった。そのうちのどこかの家に鹿児島に渡った者と関係する家があるはずなのである。
 すぐにでもそこに出向き、聴き取り調査をやりたかったが、鹿児島からでは遠すぎるし、それより何より、大きな地震からそれほど月日を経ていなかったので、こんなことで訪問するのははばかられることだった。地元でもそれどころではなかっただろう。
 それならと、4軒に同じ手紙を出し、その返事を待つことにした。もちろん、お見舞い品として、鹿児島産の茶を送ることも忘れなかった。
 数日後、早速ある原田姓の人物から電話が入り、「それは、誰それの家のことではないか」と言ってきたのである。電話の主は、その家と親戚関係にあったが、直系ではないらしかった。また、当時の大臣云々という話もしていたが、ややなまりが強くて、私にはもう聴き取れなかった。隣県の山形に生まれ、10歳までそこで育ったので、何とか聴き取れるだろうと思ったのだが・・・。

 とにかく、聴き出した電話番号の家に連絡すると、またまた奇妙な話を耳にした。というのは、そこの当主は、奈良原雅雄氏の直系で、その4代目だというのだ。私は一瞬、狐につままれたような気になったが、電話の主は、ほとんどなまりがなかったので、それは一体どういうことか問い質した。すると、雅雄氏の長男が、養子に入った先の奥さん、つまり継母のいじめにあい、周囲が見かねて、たまたま雅雄氏が出た長男家に跡取りがいなかったこともあり、その養子になったというのである。
 要するに、新潟の原田家の次男として生まれた雅雄氏は、鹿児島の奈良原家に養子に行ったものの、そこで一緒になった奥さんと原田氏の連れ子の長男と折り合いが悪く、雅雄氏は実家にその長男を養子に出したということのようだった。

すべては「生麦事件」から(27)

2008-05-22 20:39:03 | 歴史
 しばらくして、平木氏より返事が届いたが、謄本はどこにしまっているのかもうわからないということだった。それより、鹿児島に住んでいるのだから、何とかなるだろうといわれると、それ以上頼み込むことはできなかった。一度、市の戸籍課に出向いたとき、親族の方ならともかく、他人には無理ですね、と簡単に断られていたが、何とか別の方法を見つけるしかなかった。
 そこで、法務局の戸籍課に行き、どうにかできないか頼みこんだが、これもどうにもならなかった。ただ、学術的目的の場合は例外があるというので、店の常連の1人である鹿児島国際大学の中村明蔵(あきぞう)氏(隼人研究者)にその話をすると、一緒に市に掛け合ってくれることになった。だが、私が約束の時間を違えて、店を不在にしていたため、氏1人で市役所に出掛けていたのである。もっとも、私が一緒に行ったとしてもどうにもならなかったが、よく知られた氏でも埒が明かなかったようだ。どうも例外事項の学術目的というのは、裁判で医学的証明書か何かに必要な場合だけのようだった。
 しかし、法律の建前は建前として、何か抜け道のようなものがあるはずだと、法務局でねばると、基本的に戸籍は地方自治体の管轄だから、という言い方をした。つまり、市に顔が利く人がいればどうにかできるということらしかった。
 そう言われても、具体的に顔の利く人は思い浮かばなかったし、誰なのかもわからなかった。そこで、仕方なく知人に相談すると、かれは有力だといわれている市会議員を紹介してくれたが、ちょうど選挙前でタイミングが悪かったのか、ケンモホロロに断られてしまった・・・。

 こうしている間に、鹿児島大学の丹羽謙治氏より、奈良原雅雄の名前が載っている『官員録』の存在を教えられ、それをチェックすると、また奇妙なことがわかった。奈良原雅雄氏は、かなり低い地位でありながら、鹿児島人ではなかったのである。