神仏と人の関わりについて綴られている「かむがとおるがとおりごと(神が通るが通りごと)」(光輪出版社)という本に、鞍馬山での出来事が記してありましたので、少し抜粋して引用させていただきます。
師と慕う方と共に経験する不思議な世界が、弟子の方によって書かれています。
彼ら一行が鞍馬山に行ったときのことです。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
この鞍馬山は700万年前に地球の霊王として金星から飛来されたというクラマ魔王尊天(あるいはクマラとも言う《原文》)が鎮座されているという古い霊山である。
この山には有名な牛若丸と鞍馬天狗の伝説が残っているが、実はこの物語は過去に現実にあった話だということを聞いた。
この山に何回か通う中で知らされた事で、牛若丸が鞍馬天狗に剣術を習ったという伝説は伝説として、事実は、義経はこの魔王尊天様の加護を受けて世に出たというのがその明かされた内容であった。
魔王様の後押しで勢いに乗っている間はよかったが、力ある人間の常でそのうち見えない背後の加護力に対する感謝を失い、人間としての豊かな感性をなくして、結局はみじめな人生の幕切れとなってしまったという。
(中略)
この行には、魔王尊天様の縁人(えにしびと)というFさんという人が同行していた。
彼は鞍馬山の天狗と言われるけん族神の流れを汲む人で、寺でたった一人「魔王真言」を唱えることを許されていた。
わたしはぴったりと師に添ってゆっくりと歩いていたのだが、巨大な鞍馬寺の山門をくぐり、魔王堂に向かう山道にかかった瞬間であった。
師が突然身を翻すや、タッとすごい勢いで山を登り始めたのである。
側でFさんが「吉鞍(きちくら)さんだ!」と叫んでいる。
後から聞いた話では、「吉鞍さま」とはこの山を護る高位の稲荷神様で、毎回、師を護りながら様々な奇ずいをみせてくれる方だという。
わたしもすぐに追いかけた。
この山道は杜の木々の根がまるで蛇の群のように這っているきつい道で、足の弱い人は難儀する場所である。
師はその木の根の上を飛ぶように登っていく。
息せき切ってやっと途中で追いついたが、なんと 師は・・いや実はその「吉鞍様」という方が降霊されているのだが、・・息一つ弾ませていないのである。
いくら理論で考えても分からない事は分からない。
人間の理解の及ばない超越した事実が目の前に展開するから奇跡なのであって、それをいちいち人間的理解をしようとするからいけないのだ、と、わたしなりに考えるのを諦めてしまった。
頂上の魔王堂では、何のために使われるのか分からず頼まれて持ってきた人型のパンを出して供え、全員で読経をし、御挨拶申し上げた。
読経が終わるや、突然師が信じられない大音声をあげた。
山中にとどろくほど大きな、いんいんと響きわたる大音声だった。
Fさんは即座にどなたが降霊されたか分かったらしく、地にひれ伏すようにして「魔王様っ」と感激の声を上げていた。
あまりにも難しいお言葉で私の記憶の中には何も残ってはいないが、今日ここに参りし縁をもって皆で魔王真言を唱えてもよい、という意味だけ、かろうじて分かった。
(中略)
不思議な話もあるものだと興奮で頭がボーっとなったまま、皆揃って貴船神社の方向に行く道を降りていったのだが、途中でまた、重ねて吉鞍様の不思議な奇ずいを見せられた。
ふたたび降霊された吉鞍様が、
「そなたらにこの霊山を護るわが力を見せようぞ」と言って、側に落ちていた木の枝を拾って山に向かわれたのである。
と同時に突然山鳴りがするほどの風が巻き起こった。
なにが興るのかと茫然と山の方向を見上げていると、今度は「それっ」と言って枝を右に振るや、ゴ―と山鳴りがして木々が右に流れる。
風が、左から右に吹いたのである。
次に枝を左に振ると、同じように木々が左に流れる。
風を自由に扱っている。
山の風がまったく逆方向に吹いて、まるで山そのものが身をよじっているように見えた。
吉鞍様は、その所作を三度繰り返された。
そして、この夢を見ているような場面は終了した。
われわれ人間は、自然は自然で自由にならないもの、その気ままな自然にどうやって付き合い、けがをしないようにしていくかが、いわゆる人間の智すいであると思ってきた。
しかし今、目の前で見せられたことはまったく人間の常識にない、考えられもしない、自然を自由自在にコントロールできる明らかな存在がある、という証であった。
だとすれば、神様は自然の支配者で、必要があれば自然をいか様にでも変化させることができるということになる。
(引用ここまで)
*****
この本は現代の本で、事実が書かれているものですが、“神仏”という言葉の中には天狗のすがたも含まれているのではないかと思います。
まさに“クラマ魔王”そのものではないでしょうか。
鞍馬に限らず、おそらく今でもこのようなことはたくさんあり、このような世界に生きている山人たちはあらゆるところにたくさんいるのではないかと、わたしは思っています。
WIKIPEDIA「天狗つぶて」より
天狗礫(てんぐつぶて)とは、石が空から突然降ってくるという現象。
まるでどこかから投げられたようでいて、どこから飛んできたのか分からないところから、天狗が投げた石つぶてではないかなどと言われる。
石川県加賀市の怪談集『聖城怪談録』には、大聖寺町(現・加賀市)で大聖寺神社の神主が体験した天狗礫の怪異がある。
空から石が降ってくるが、足元を見ると地面に落ちたはずの石はなく、川に石が落ちたような波紋ができるものの、やはり石自体は見えないという、不思議な現象だったという。
嘉永7年には、江戸の麹町の卵商人の家に盛んに天狗礫が起きたという。
少ないときでも20個から30個、多いときでは50から60個もの小石がどこからか飛んで来るといった有様で、屋根に登って石を投げる者を見極めようとすると、石は背後から飛んでくるので、相手が背後にいるかと思い後ろを振り向くと、今度は反対側から石が飛んで来たという。
さらに不可解なことに、石が人に当たっても、確かに当たった感触があるにもかかわらず、体には一切傷が残らなかったという。
その家は次第に不思議な家として見物人が増え、町方同心たちが見回りを強化すると、次第に飛んで来る石の数は減り、ある日を境にこの現象は完全に消え失せたという。
錦絵新聞『東京絵入新聞』明治9年(1876年)3月14日の記事には、屋外ではなく家の中に天狗礫が起きたという事例がある。
同月10日に中村繁次郎という男の家の中で、正午頃から急に石が降り始め、1時間ほど降り続けた。
繁次郎は驚いたものの、病床にある父を心配させたくない思いと、世間に知られたくないとの思いから、このことを敢えて話題にせず、降ってきた石を神棚に上げ、酒や食べ物を備えて妻とともに怪異の鎮まるのを祈った。
すると神棚の石はいつの間にか消え、さらに激しく石が降り始めた。
繁次郎は刀を振るって見えない敵を威嚇したものの、効果はなく、この日を境に毎日同時刻に石が降るようになった。
やむを得ず繁次郎は警察に届け、巡査が家を訪れたところ、巡査の目の前でも石の降る怪異は起きた。
その内に噂が広まって見物人が押し寄せてきた。
そんな中を小林長永という人力車夫が現れ、自分が狐狸を追い払う祈祷を行い、それで効果がなければ専門の先生を紹介すると申し出たので、繁次郎は喜んで同意した。
この祈祷の効果については、『東京絵入新聞』には記載されていない。
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「天狗」「カラス」「ウエサク」などあります。
師と慕う方と共に経験する不思議な世界が、弟子の方によって書かれています。
彼ら一行が鞍馬山に行ったときのことです。
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(引用ここから)
この鞍馬山は700万年前に地球の霊王として金星から飛来されたというクラマ魔王尊天(あるいはクマラとも言う《原文》)が鎮座されているという古い霊山である。
この山には有名な牛若丸と鞍馬天狗の伝説が残っているが、実はこの物語は過去に現実にあった話だということを聞いた。
この山に何回か通う中で知らされた事で、牛若丸が鞍馬天狗に剣術を習ったという伝説は伝説として、事実は、義経はこの魔王尊天様の加護を受けて世に出たというのがその明かされた内容であった。
魔王様の後押しで勢いに乗っている間はよかったが、力ある人間の常でそのうち見えない背後の加護力に対する感謝を失い、人間としての豊かな感性をなくして、結局はみじめな人生の幕切れとなってしまったという。
(中略)
この行には、魔王尊天様の縁人(えにしびと)というFさんという人が同行していた。
彼は鞍馬山の天狗と言われるけん族神の流れを汲む人で、寺でたった一人「魔王真言」を唱えることを許されていた。
わたしはぴったりと師に添ってゆっくりと歩いていたのだが、巨大な鞍馬寺の山門をくぐり、魔王堂に向かう山道にかかった瞬間であった。
師が突然身を翻すや、タッとすごい勢いで山を登り始めたのである。
側でFさんが「吉鞍(きちくら)さんだ!」と叫んでいる。
後から聞いた話では、「吉鞍さま」とはこの山を護る高位の稲荷神様で、毎回、師を護りながら様々な奇ずいをみせてくれる方だという。
わたしもすぐに追いかけた。
この山道は杜の木々の根がまるで蛇の群のように這っているきつい道で、足の弱い人は難儀する場所である。
師はその木の根の上を飛ぶように登っていく。
息せき切ってやっと途中で追いついたが、なんと 師は・・いや実はその「吉鞍様」という方が降霊されているのだが、・・息一つ弾ませていないのである。
いくら理論で考えても分からない事は分からない。
人間の理解の及ばない超越した事実が目の前に展開するから奇跡なのであって、それをいちいち人間的理解をしようとするからいけないのだ、と、わたしなりに考えるのを諦めてしまった。
頂上の魔王堂では、何のために使われるのか分からず頼まれて持ってきた人型のパンを出して供え、全員で読経をし、御挨拶申し上げた。
読経が終わるや、突然師が信じられない大音声をあげた。
山中にとどろくほど大きな、いんいんと響きわたる大音声だった。
Fさんは即座にどなたが降霊されたか分かったらしく、地にひれ伏すようにして「魔王様っ」と感激の声を上げていた。
あまりにも難しいお言葉で私の記憶の中には何も残ってはいないが、今日ここに参りし縁をもって皆で魔王真言を唱えてもよい、という意味だけ、かろうじて分かった。
(中略)
不思議な話もあるものだと興奮で頭がボーっとなったまま、皆揃って貴船神社の方向に行く道を降りていったのだが、途中でまた、重ねて吉鞍様の不思議な奇ずいを見せられた。
ふたたび降霊された吉鞍様が、
「そなたらにこの霊山を護るわが力を見せようぞ」と言って、側に落ちていた木の枝を拾って山に向かわれたのである。
と同時に突然山鳴りがするほどの風が巻き起こった。
なにが興るのかと茫然と山の方向を見上げていると、今度は「それっ」と言って枝を右に振るや、ゴ―と山鳴りがして木々が右に流れる。
風が、左から右に吹いたのである。
次に枝を左に振ると、同じように木々が左に流れる。
風を自由に扱っている。
山の風がまったく逆方向に吹いて、まるで山そのものが身をよじっているように見えた。
吉鞍様は、その所作を三度繰り返された。
そして、この夢を見ているような場面は終了した。
われわれ人間は、自然は自然で自由にならないもの、その気ままな自然にどうやって付き合い、けがをしないようにしていくかが、いわゆる人間の智すいであると思ってきた。
しかし今、目の前で見せられたことはまったく人間の常識にない、考えられもしない、自然を自由自在にコントロールできる明らかな存在がある、という証であった。
だとすれば、神様は自然の支配者で、必要があれば自然をいか様にでも変化させることができるということになる。
(引用ここまで)
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この本は現代の本で、事実が書かれているものですが、“神仏”という言葉の中には天狗のすがたも含まれているのではないかと思います。
まさに“クラマ魔王”そのものではないでしょうか。
鞍馬に限らず、おそらく今でもこのようなことはたくさんあり、このような世界に生きている山人たちはあらゆるところにたくさんいるのではないかと、わたしは思っています。
WIKIPEDIA「天狗つぶて」より
天狗礫(てんぐつぶて)とは、石が空から突然降ってくるという現象。
まるでどこかから投げられたようでいて、どこから飛んできたのか分からないところから、天狗が投げた石つぶてではないかなどと言われる。
石川県加賀市の怪談集『聖城怪談録』には、大聖寺町(現・加賀市)で大聖寺神社の神主が体験した天狗礫の怪異がある。
空から石が降ってくるが、足元を見ると地面に落ちたはずの石はなく、川に石が落ちたような波紋ができるものの、やはり石自体は見えないという、不思議な現象だったという。
嘉永7年には、江戸の麹町の卵商人の家に盛んに天狗礫が起きたという。
少ないときでも20個から30個、多いときでは50から60個もの小石がどこからか飛んで来るといった有様で、屋根に登って石を投げる者を見極めようとすると、石は背後から飛んでくるので、相手が背後にいるかと思い後ろを振り向くと、今度は反対側から石が飛んで来たという。
さらに不可解なことに、石が人に当たっても、確かに当たった感触があるにもかかわらず、体には一切傷が残らなかったという。
その家は次第に不思議な家として見物人が増え、町方同心たちが見回りを強化すると、次第に飛んで来る石の数は減り、ある日を境にこの現象は完全に消え失せたという。
錦絵新聞『東京絵入新聞』明治9年(1876年)3月14日の記事には、屋外ではなく家の中に天狗礫が起きたという事例がある。
同月10日に中村繁次郎という男の家の中で、正午頃から急に石が降り始め、1時間ほど降り続けた。
繁次郎は驚いたものの、病床にある父を心配させたくない思いと、世間に知られたくないとの思いから、このことを敢えて話題にせず、降ってきた石を神棚に上げ、酒や食べ物を備えて妻とともに怪異の鎮まるのを祈った。
すると神棚の石はいつの間にか消え、さらに激しく石が降り始めた。
繁次郎は刀を振るって見えない敵を威嚇したものの、効果はなく、この日を境に毎日同時刻に石が降るようになった。
やむを得ず繁次郎は警察に届け、巡査が家を訪れたところ、巡査の目の前でも石の降る怪異は起きた。
その内に噂が広まって見物人が押し寄せてきた。
そんな中を小林長永という人力車夫が現れ、自分が狐狸を追い払う祈祷を行い、それで効果がなければ専門の先生を紹介すると申し出たので、繁次郎は喜んで同意した。
この祈祷の効果については、『東京絵入新聞』には記載されていない。
関連記事
「天狗」「カラス」「ウエサク」などあります。
興味深く拝見いたしました。
私も数年前に鞍馬の大魔王様に導かれ、
お屋敷に入れていただくという夢を見ました。
この方のご本地を知りたいというのが長年の修行の
目的であったことを自分でもつい最近はたと気が付きました。不思議なものです。
sasura様
はじめまして。
コメント、どうもありがとうございました。
鞍馬山の大魔王様とご縁がおありなのですね。
わたしは、日本の天使=天狗ではないか?と考えておりますが、もっと偉いインド系の神様である、という説もあり、判断しかねております。
神智学では、とても高い位についておられるようですよね。
もともと、インド方面での、古い強い神様だったのかもしれません。
その方が、なにかの事情で、鞍馬山においでになり、日本に、古いインドの魂が降ろされたということなのだろうか、、と思います。
鞍馬山で修行された臼井ミカオ氏のレイキの由来もよく分からないし、鞍馬山については、謎がふくらむばかりです。
ただ、臼井氏は、神道系の家系の方ですよね。
だとすると、古神道と、古代インドが交わったということになるのでしょうか。。
古神道(縄文神道)は皇家神道に滅ぼされてしまい、古インドの神々は(日本では)仏教によって隅の方に追われてしまいました。
日本人的な潜在意識の中ではなかなか魔王様を理解することができません。
この潜在意識をぶち破るのが(苦行)大変に骨の折れることでございます。
sasura様
コメント、どうもありがとうございました。
“魔”王という言葉が、少しおかしいのでしょうね。
今、当ブログで扱っているゾロアスター教にしても、西洋からは、完璧に「魔」と映っていました。
しかし、なにをもって善となし、なにをもって悪となすのか、という問題は、おっしゃるとおり、一人一人の潜在意識との格闘であろうと思います。
ユングなんかが看破していたように、無意識の世界は意識の世界より、はるかに広大で、強力なのであろうと思います。
”古日本”に、本当に辿り着くことができれば、その先がどうなるのか、わかりませんけれど、、本源の強力な磁場の在りかに辿り着くことになるのだろうと予感しております。
正しい神には人間が考えるような善悪はなく、ただただ”役割”というものがあるのみです。
どの神様も、粛々とおのが役割をお果たしになっておられるようでございます。
sasura様
コメント、ありがとうございました。
なるほど、真王だったんですね。
気高(けだか)きわが故郷よ
響(ひび)け 歓喜(かんき)の歌
神の加護(かご)は われらとともにあり続けん
ガーレ=ガミロン*1
讃(たた)えよ 祖国の勝利を
気高(けだか)きは勝利の意志
示せ 遍(あまね)く宇宙に
理想 貫(つらぬ)く愛
神の加護(かご)は われらとともにあり続けん
ガーレ=フェゼロン
誇りある鋼(はがね)の国家