「アイドル」を大辞林で引くと ●偶像。崇拝される人。人気者。と書かれてある。
かっては時代のアイドルといえば、石原裕次郎であり、長嶋茂雄であった。
また海外ではプレスリーであり、ビートルズであった。すくなくとも、
その時代の大きな存在であり、得異な才能を持った人気者であった。
しかし、今アイドルと呼べれているのは特別な才能を持った者ではなく、
そこいらにいるごく普通の少年少女である。尊敬の対象ではなく、
、歌の上手い歌手でもなく、演技の達者な俳優でもない。単にアイドルとは
一ぱ一からげの存在でしかない。かれらは時の流れの中でそこに居て、
いつか知らない間に消えてゆく、シャボン玉のようなものである。
偶像であり、崇拝される時の代表者であるはずのアイドルが、
このようにその値打ちを下げたのは、テレビの責任にほかならない。
今はその真の意味を訂正しなければならない状況だ。
無芸な軽輩タレントを軽々しくアイドルなどと呼んで欲しくないと思う。
♪ここで一緒に 死ねたらいいと
すがる涙の いじらしさ
その場しのぎの なぐさめ言って
みちのくひとり旅~~
ご存知山本譲二のヒット曲「みちのくひとり旅」である。
テレビに映る最近の彼が耳に器具を付けてるのに気付いた人が多いはずだ。
突然難聴に襲われた。耳が聞こえない奇病に驚いた。
歌手生活の危機である。いま歌っていても、自分の声が自分で聞こえるのだろうか。
あの屈託のない笑顔の裏に大きな葛藤があるのではないか。
山本譲二は山口県下関高校出身だ。
ここは高校野球でも有名だ。彼も甲子園に出た経験が有る球児だった。
歌が巧くて好きだった。「だてはるき」でデビューした。
この芸名の由来がふざけてる。大すきな「ダーテイ・ハリー」をもじったものだ。
しかし、さっぱり売れない歌手だった。
そこでご存知北島三郎に弟子入りして山本譲二と名を変えた。
そして、ある日知り合いの作曲家の窓辺から聞こえてきたメロデイーに心惹かれた。
それが「みちのひとり旅」の原曲だった。
「この曲を私に歌わせてください」彼は土下座してその作者に頼み込んだという。
その結果、この曲がミリオンセラーとなり、山本譲二は演歌界の売れっ子となる。
耳の病は完治してないが努力でなんとか歌は続けられるという。
「頑張れ」と声援を送りたい。
山本譲二、癖のある演歌だが僕は好きだ。
身体の故障なぞ気持ちで吹っ飛ばせと言いたい。
♪うしろ髪ひく 悲しい声を
せなでたちきる 道しるべ
生きていたなら いつかは逢える
夢でも 逢えるだろう~~
我が札幌の「999人の第九」の演奏会も来月28日と一カ月を切った。
合唱練習も追い込みだ。明日30日はいよいよ梅田俊明指揮者と初対面する。
こちらは300人の合唱団、あちらは一人だから正確には対面とは言わないかもしれないな。
指揮者は小澤征爾や尾高忠明の指導を受け、あの「のだめカンタービレ」で注目された。
N響や新日本フイル、札響などでも指揮棒を振っている。
ドイツでも指揮を執ってたというから、「第九」は得意中の楽曲なんだろう。
どんな新しい指導がされるか、今から楽しみだ。
キタラで「第九」を歌って、今回で9回目だが、何度歌っても新鮮な感動がある。
この感動を味わえるうちは来年も続けられるれかもしれないな。
昭和20年代は娯楽の無い戦後、物資の無い戦後を生きてた頃だ。
何が娯楽かと言うとラジオしかなかったよ。
テレビの「24時間てれび」なんか見ていると隔世の感だよね。
夕方になるとラジオから聞こえてくるあのメロデイーが家路を急ぐ合図だったな。
「カラスが鳴くからかえろ~~」って言いながら帰ったものさ。
「ゆうやけこやけのあかとんぼ~~」も唄ってたこともあるさ。
「さよなら三角、またきて四角~~」なんていうわけのわからないのもあったな。
♪みどりの丘の 赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メエメエ子ヤギが鳴いてます~~
歌の正式題名は「とんがり帽子」、劇の題名は「鐘の鳴る丘」さ。
どこかの少年少女合唱団が唄っていたあれだ。
それが終わると「向こう三軒両隣」。
そんなの聞きながら夕飯にありついた。
ジャガイモや豆腐のみそ汁の香りが今でもホカホカとに匂ってくるようだよ。
巌金四郎や伊藤智子などの声優の声、どっかの児童劇団の子役の声。
顔が見えないで声しか聞けなかったけど、想像力は豊かだったと思うよ。
懐かしく思い出すなーー。
「話の泉」「とんち教室」「20の扉」「日曜娯楽版」「おら~三太だ」などね。
いまじゃあ、ラジオ番組など何があるのかよく知らないよ。
せいぜい、テレビに映らない野球を聞いてるぐらいだものね。
そうそう、「三つの歌」はなくなったが、「のど自慢」はまだ続いてるね。
歌の世界でも、芝居の世界でもなぜか三人ひと組が売り出しに便利らしい。
古くは佐分利信、佐野周二、上原健とか、長谷川一夫、高田浩吉、坂東好太郎
などが松竹三羽烏といわれて売り出されていた。その後、当時は若手の
三羽烏が佐田啓二、高橋貞二、鶴田浩二だった。彼らの映画は人気抜群、
どれも封切りすると、すぐ大ヒット間違いなしだった。
また歌の世界では、美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみが三人娘で映画や
歌謡の世界を闊歩していた。そのあとを受け注いだ、三人娘が、今も現役の
中尾えみ、園まり、伊東ゆかりはスパーク三人娘と呼ばれている。男性では、
橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫の御三家と呼ばれていて、今も歌や芝居に健在である。
映画の中でも清水港の三人衆が大政、小政に森の石松だった。
一人で客を呼ぶことが大変なら三人纏めてうまくいくなら便利だ。
それがだめなら五人とか、七人とか考えられるのが自然だ。
だからどうだろう。
今48人も集団で売りだしてるグループがある。
同じ化粧だから、誰が誰やら年寄りには判別が困難だ。
若い人ならそれが苦にならんというから参ってしまう。
白波五人男とか、七人の侍などという少人数のグループでは
もう売りこみはむずかしいということなのかな。
♪あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる~
僕がニキビ盛りの中三の頃だった。(昭和33年頃)
フランク永井の唄った「有楽町で逢いましょう」はこれからやってくるだろう
青春の始まりを予感させる歌だった。なんたって、スマートで粋だった。
そして、「♪ABC…XYZ…これがおいらの口癖さ…」の「西銀座駅前」は
何ともやるせない情感を漂わせて都会のムードに僕達を引き込んだ。
あの頃中学を卒業したばかりで北海道から集団就職した同級生達がいた。
かれらにとって、憧れの東京は夢と希望の世界だったのだろうか。
それとも夢破れ挫折して帰るに帰れないその後の人生だったのだろうか。
その後、彼らに再会することはなかったので、知らない。
特に仲良しでアヒルの茹で卵をよく呉れた、水口君はどうしてるだろうか。
抜群に成績優秀で孤高の雰囲気を醸してた曽根君はどうしているだろうか。
55年間も音信普通なので、その消息は分からない。
現在が充実していりゃ、過去も未来もそれほどの悩みもないだろうが、
現在が不安だったり、不愉快だったりすれば、「思い出酒」に浸りながらも、
未来に期待もするものだろうが、期待や希望の何にもない人が
ただ漫然の生きてるだけだったら、それは哀しすぎるというものだ。
それまでが、たとえ「傷だらけの人生」だったとしても、
今も苦しい日々が続いていても、自ら命を絶つなんて、思っちゃいけないよ。
藤圭子の死があまりにもショッキングだったので、
彼女と共有していた甘くもの悲しい青春時代につい思いが飛んだね。
あの頃は、今以上に若者が必死に生きてた時代だったと思うのだ。
何の取り得のない僕でさえ、頑張って生きてたことだけは自慢できるのさ。
いますぐに思いつく北島三郎(函館のひと)にしても、細川たかし(浪花節だよ人生は)
にしても北海道出身の男声歌手は威勢がいい。
だが、牧村三枝子(みちずれ)やこまどり姉妹(ソーラン渡り鳥)などの道出身の女性歌手は
どこかもの悲しい。そして、先日死んだ藤圭子(夢は夜ひらく)も、道出身者でいつも悲劇を
背負ってるようにおもえて、その歌声も、日常も暗く見えてしようがなかった。
今の世は情報化時代である。芸能人の生い立ちや、その日常の幸不幸の出来事が、
あからさまにされる。藤圭子もその恵まれなかった少女時代や、歌の大ヒットで
華やかだった青春時代、そして結婚、離婚、引退宣言後の海外移住、また人知れず
日本国内での静かな人生を送ってたと思っていたが、実は悩みの中にあったのだそうな。
その全盛期があまりにも華やかであっただけに、その突然の死に方が悲劇すぎる。
それは、平凡のままに市井に埋もれて生活してる我々には想像できない
大きな悩みもまた抱えていただろうと思いつつ、その死を悼むことしかできない。
母が幼い子を抱えて満州を脱出する決心をした昭和20年8月、
その頃既に関東軍は日本の一般人を見捨てて逃亡し始めていた。
「いざとなったら軍隊なんか頼りにならない」
これが母の口癖だったし、実感だったのだろう。
そして、満州居住団の集団引揚げが始まったのだ。
関東軍の戦車が目の前を通りすぎるのを見た。
関東軍が日本人を助けに来たと思って、みんなが家にあった有りたっけの食料を
持ち寄って、「兵隊さん頑張ってください」と言いながら、提供した。
食料と言っても、カボチャか大根ぐらいしかなかったのだが。
すると、戦車の兵隊たちが上半身を出して敬礼しながら通り過ぎていく。
みんなは拍手と歓声でそれを見送った。
ところが、それは日本の一般人を見捨てて逃げるところだったのだ。
要するにあの敬礼は、「お先にごめんね」と言う意味だったのか。
残された日本人たちは虚しさに立ちつくすしかなかった。
あの頃大人たちは喰い物が満足になくても、
子供にだけは喰い物をなんとか調達しようと努力してくれてたようだ。
そのなかでも、未だに記憶にあるのが、カボチャのたねと豆かすのおやつだった。
沢山の子供たちが均等に分けられたカボチャのタネを剥いて食べるのだ。
今では見向きもされないものだろうが、あの味は忘れることができない。
あの時一緒だった連中が、今は日本のどこかに生きてるのだろうが、
どうか幸せな後半生を送っててくれてることを祈るのだ。
物ま芸人のコロッケが得意にしている歌手の一人が淡谷のり子だ。
淡谷はブル-スの女王と言われ、「雨のブルース」「別れのブルース」を
ヒットさせた。だが、これらは戦前戦中の作品だったが、退廃的で戦意を
高揚させないとして、禁止されたものだった。
男女の恋愛や、情緒的な歌詞には軍隊が目を光らせていたのだった。
しかし、一般国民や戦地の兵隊などは、盛んにこの歌を唄っていた。
淡谷は青森出身で我の強い人だった。道理の通らない事には納得しなかった。
彼女が戦地の慰問で唄ったことがある。
兵隊たちのアンコールに応えて淡谷は思いっきりブルースを唄ったという。
舶来の香水をつけ、黒いロングドレに濃い化粧で歌う彼女には軍が驚いたそうだ。
質実剛健の時代だ。総てが倹約の時代だ。派手な格好は許されない。
あるとき、コンサート会場で軍刀を突き付けられたことがある。
しかし、彼女は、
「このドレスが私の軍服です。気に入らなければ、どうぞ殺して結構です」
開き直った彼女に、その軍人はすごすごと引き下がったという。
戦時中は、芸能人であろうと、命がけだったのだということだ。
ふるさと歌謡を唄っていた「明月赤城山」の東海林太郎や「誰か故郷を思わざる」
の霧島昇でさえ、いやいや軍歌を唄わされていた時代なのだ。
この民主主義、自由主義の世を大事に育てていかなければならない。
戦後すぐに流行り出した曲がハワイアンだったり、ウエスタンだった。
それも戦時中は敵国語だとして禁止してた英語を駆使してのびのびと
歌われていた。誰もが敗戦後の平和を喜んでいたのかもしれないな。
アフリカの奴隷たちがニュー・オリンズに連れて来られて、故郷恋しや
悲しい定め、の気持ちが歌になり「ブルース」が生まれ、モダンジャズに至る。
そのブルースとロックを融合させてロカ・ビリーを創り出したのがご存知
エルビス・プレスリーだった。晩年は薬漬けで早や死にしちゃったがね。
やがて、ジャズ喫茶時代となり、小坂一也とワゴンマスターズとか、
寺本圭一とカントリージエントルメンなどの活躍を見、ウエスタンが
最盛期を迎えていた。裏声のきれいなウイリ―沖山もいたな。
その頃の僕はまだ少年時代で、あの不良っぽい輩には遠い存在だったよ。
むしろ、マヒナスターズや、フランク永井、フランキー堺とシテイースリッカーズなどの
しゃれた音楽やステージに心わくわくだった。妙に垢ぬけていて都会的だったからね。
そういえば雪村いずみや江利チエミはアメリカ進駐軍回りの歌い手だったな。
芸能に限らず、政治も経済も、アメリカの影響を受けて今日があると思うのだ。
マッカーサー元帥が厚木に降り立ったその時、日本はアメリカナイズされたのさ。
いまさら、あの憲法はアメリカが勝手に押し付けたものだと言ったところで、
納得しかねるね。それより、アメリカに頼らないで自立できる方策でもあるのかな。
なんたって、食料の自給率が39%じゃ餓死者が出てもしくない国の状況だ。
「TPP」にしたっって、最後はアメリカの思惑通り、言う通りになるのじゃないかな。
日本はアメリカのもう一つの州だって、皮肉った人もいたね。