くるちゃん

温泉旅行
時事漫歩
趣味悠々

人生激情1464(忘れました)

2012-01-31 07:15:47 | Weblog
 自分がボケてきたなどとは思いもしてないことだが、
記憶力が衰えてきてることは日々の暮らしの中で感じ出している。
たとえば、本棚にあるから一度は読んだことがあるはずの本などでも、
すっかりその内容を忘れてしまって、改めて新鮮な気持ちで読むこととなる。
 一昨日から読み始めた夏樹静子の「訃報は午後2時に届く」などは読んだ
ことがあるはずなのだが、死んだはずの主人公が実は生きていたなんていう
重大なトリックをすっかり忘れてしまっていたのだから、記憶喪失も甚だしい。

 また、最近テレビでの再放送で見た映画などは、過去に一度は見たはず
だが、何と最初に見たときと同じようにわくわくしながら見ることとなる。
「マイ・ボディガード」はデンゼル・ワシントンが実業家の一人娘のガード
を仕事にしてるが、身代金目当ての誘拐事件に巻き込まれ、命を掛けて
その少女の救出に当たるが、非情な結末が待っているというものだった。
確かにところどころは見憶えのある個所はあるけれど、それは断片的であって、
全体の面白さはほとんど覚えていないから、新たに見たときと変わらない
興味で見たこととなる。
「まあ、これも年の功か」
 と最近では得した気分で記憶の衰えを愉しむことにしている。

 つい最近なんかも、久しぶりに出逢った知り合いの名前を思い出せないのは
実につらいものだった。相手はこちらの名前を言ってくれてるのにだーー。
こんなとき、忘れたことを悟られないように取り繕うことは結構辛いものだ。

人生激情1463(犬が笑った)

2012-01-30 07:13:25 | Weblog
 ゆうべ犬を引いてた中年のおばさんが足を滑らし目の前で転んだ。
犬の方はなにが起きたか我関せずの感じでキョトンとして立っていた。
 毛糸のセーターを着こんで大事にされてるようだが、
あんまり利口な犬じゃないな、と思ったものだ。

「馬は笑うぞ!」
 中学生ごろだった思うが、そう言って得意になってた悪ガキがいた。
「まさか!」
 同級生たちみんなは大笑いして否定した。
 そこで確認のため、担任の先生に質問した。
先生の答えはこうだった。
「馬が笑ってるように見えるあれはアクビです。
笑うのは動物のなかでも最も進化したものだけだ。
つまり人間だけがユーモアを解して笑うことができる。
馬は笑わない。カバもネコもネズミも笑わない。
人間の中でも笑いをすぐ理解できない者は、利口じゃないな」
「ほらみろ」
 と、またみんなで笑い飛ばしたものだった。

 さて、犬も一般的には笑わないのだろうか。
今はいないが、4、5年前まで我が家でも犬を飼っていた。
愛すべきあいつだったが、21歳の長寿を全うして老衰死した。
 冬のある日、僕と彼(マルチーズ系でベンジーという名)とが散歩した。
僕はベンジーに綱を強く引かれ雪道に足を滑らして尻もちをついた。
その時ベンジーは一瞬キョトンとして振りかえり、
そして僕を馬鹿にしたような顔をして歯を出して笑ったのだ。
犬は怒るだけでなく笑うものだとこの時確信した。
だが、この話は誰にも言ったことはない。
信じてもらえそうもないからだ。

人生激情1462(タンタン狸)

2012-01-29 07:44:45 | Weblog
 出席した新年会などで特に芸など持ち合わせてはいないけれど、
なんとかその場を楽しいものにしたいと努力する人はいるもんだ。
 人に笑われたり、人にありきたりのお世辞を言うのは別に努力を
要しないが、人を笑わせたり、人を飽きさせないというのはかなりの
努力とかなりの技巧がいるもんだ。
 一方、そんな年寄りにはなりたくないと思うけど、グジグジと他人の
上げ足をとったり、世を呪い人を恨む奴ってどこにでもいるもんだ。
 
 宴会などで、耳障りな演歌でも、ぎこちないどじょうすくい踊りでも、
タネが見え見えの手品でも、やらせ催眠術でも、一夜漬けの小噺でも、
実際に人前で披露してくれる人は、それなりに立派だと思うのだ。
なんにも努力しない奴なんかにとやかく言われる筋合いなんか
絶対ないと思うのだ。
 かって喜劇の舞台で一世を風靡した三木のり平や藤山寛美などはひと舞台
終わるとどっと疲れが出て不愉快になり人がそばに寄ることを憚ったそうだ。
それほどに、人を楽しませることは大変なことだったのだ。

 日本人はユーモアが欠如していると言われる。
笑われることは恥ずかしいことと誤解している。
なんにもしないでいい格好しようと構えたところで、
人はそうは見ないということを知らないようだ。
裸踊りや、へそ踊りなどは場所柄をわきまえるべきとは思うけど、
札幌の狸小路に佇む、腹をポンポンに膨らませ酒徳利をぶらさげた裸の狸は
日本人のオリジナルで、いつ出逢っても楽しい気分になってしまう。
もともとは、日本人にだってそんな人を楽しませる素養はあったのだ。

人生激情1461(夜汽車)

2012-01-28 08:23:33 | Weblog
 他県の人には特に興味はないだろうが、今年の北海道岩見沢市の積雪には驚いたね。
 先週のこと、手前の江別市に所用があったついでに、岩見沢目指してJRに飛び乗った。
 北海道駐屯の自衛隊までが除雪に駆り出されて大変な状況だと連日報道されている。
どんなに大変か見てみようと思ったのだったが、相変わらずの野次馬根性だ。
ところが、一つ手前の駅「上幌向」から先は行かない方がいいと諭された。
岩見沢に辿りついても、戻って来れるかどうかは保証しないぞという。
現地では積雪が2mもあり、市内バスは運休、幹線道路は除雪作業中で車両も人も渋滞状況。
除雪用重機械の応援なら歓迎するが、人手の応援なら、危ないから止めた方がいい。
急を要しないなら邪魔だから戻った方がいい。そんなこんなで戻されたのが午後の7時だ。 
帰りの列車は乗客もまばらで、寂しい風情だったね。

 午後の7時の冬の外はもう暗い。
各駅停車の夜汽車なんて久しぶりに乗った気分だ。
今回は旅なんて気分ではないけれど、街の灯りが飛ぶように移ってゆく。
そんな景色をぼんやりと眺めていると、何やらうらさびしい気持ちになってきたよ。
 僕と同年代の人ならだれもが経験してるはずだ。
 独身時代などは札幌~上野間は一昼夜要したので青函連絡船と夜汽車はつきものだった。
それでも疲れたという記憶がないのは、若かったせいだけではあるまい。
長い時間をかけて雪国を離れて東京へ向かう夜汽車は、孤独とロマンの自由な時間だった。
目的地までの青春回廊の思索の空間でもあった。
だが、文明は旅の道中を省略して目的地に運ぶことを優先にした。
 飛行機や新幹線が旅の味わいを消した。
 窓に流れ飛ぶ灯りを消した。
 頬を撫でる風の優しさも消した。
 旅の情緒を消した。

 一方、旅が人生の柴又の寅さんにとっては夜汽車は胸キューンそのものなんだ。
「いくらも乗っちゃいない、夜汽車の中、
 みんな寝静まって、なぜか俺だけいつまでたっても眠れねえーーー。
 真っ暗な窓ガラスにほっぺたくっつけてじっと外を眺めているとよ、
 遠くに灯りがポツンポツン、汽笛がポーッ、ポーッ、ピーッ。
 そんな時よ、そんな時、なんだか訳もなく悲しくなって、
 涙がポロリと出たりするのよ~~。おい、わかるか~」

人生激情1460(蛍雪との別れ)

2012-01-27 08:12:09 | Weblog
 もうすぐ卒業シーズンがやって来る。
この度卒業する小6と中3の孫娘が身近にいるせいか関心を抱く。
いつの時代もこの時は、不安と期待が交差する。
口にこそ出さないが、それぞれにとって大きな出来事のはずだ。

 ところで、最近の卒業式では「仰げば尊とし」や「蛍の光」が
歌われなくなっているそうだ。J・POPが多いと言うから驚きだ。
そんな古い歌は時代遅れだということなのか。
 僕たちが経験した卒業式では、まず卒業生が「仰げば尊とし」
を歌って先生や学び舎に感謝したのち、全校生徒の「蛍の光」の
合唱で送り出されたものだった。実に美しく感動的な時間であった。
特に「♪蛍の光、窓の雪、文読む月日重ねつつーー」と哀愁漂う名曲
を涙ながらに歌ってくれる後輩たちの小さな顔、顔、顔にどうにも
止まらない涙で卒業生みんなも顔をくしゃくしゃにしてたもんだった。
涙は魂を洗うと言われる。あの涙の思い出は永遠に残っている。

「蛍の光 窓の雪」とは考えてみれば妙な話かもしれない。
今では自然が変化して、蛍を見たこともない子供が多いのかも知れない。
温暖な所では雪などに触れたこともない子供もいるはずだ。
蛍や雪の光で勉強ができるはずもない。苦労して学ぶことの例え話だ。
「蛍光灯」とか「雪灯篭」なら判るというものだが、これは理屈の外だ。
 デパートの閉店時間に流される「蛍の光」を耳にすると名曲だな~、
と思わずにいられない。映画「哀愁」の中で、ロバート・ティラーと
ビビアン・リーが出逢うクラブで流される曲も「蛍の光」であった。
あの曲を背景に、ビビアン・リーの美しさ悲しさがより醸しだされていた。
スコットランド民謡が原曲だが、名曲を捨て去るのは惜しい話だ。

人生激情1459(仏花を買った)

2012-01-26 07:29:19 | Weblog
 仏花を買った。冬は花は高値だが月に一度は買い替えてやる。
白、黄、ピンク、紫などの小ぶりの花を付けた5本の茎で398円也。
水はこまめに取り換えながら、なんとか一か月持たそうと思うが
しおれて枯れて哀れな姿になると見るに忍びず半月程で役目を終えてもらう。

 札幌の街中はまだ雪の中だし、来月には雪祭りが待っている。
今から花を恋い思ったとしても無理なことだが、やはり花の季節が
待ち遠しい。温室育ちの花は花でも、やっぱり高値の割りには輝きに乏しい。
 正月に訪れた沖縄は早や桜が咲いていた。
マンションの窓下には名の知らない真っ赤な花が咲いていた。
 東京はこぶしが咲いてるはずだ。
 やがて梅が咲き、桜が日本列島をなめるように北上してくる。
さすがにこの季節ばかりは気もそぞろになり、日頃花に関心がない人でも、
我が家の小さな庭に咲く花が気になりだし、通り道にたまたま見ることが
できる他人の庭の花さえも愛おしく思えたりすることってあるもんだ。

 花は一人で見るのが一番いい。
誰も関心がない駄木の根元にひとりうずくまって散りかかってる花でも、
眺めてるだけで心が満ち足りる。
 生き別れ、死に別れ、大切なものを捨てたり壊したり、蹴っ飛ばされたり、
優しさや憎らしさや悔しさや醜さや、ごちゃまぜのこれまでであったけど、
花はわずか数日の命で人の心を満たしてくれる。
 でも、高値の花には手が出ない。
ひと束千円とか、2千円のより高価な花を買う人はどんな人なんだろう。
 売れ残った花の運命は安い仏花より哀れであろう。

人生激情1458(過去のひと)

2012-01-25 06:30:06 | Weblog
 古い友人にしろ、かっての恋人にしろ何だか知らないが縁遠くなっちゃった
ということが、ここ最近では多くて、老齢化が進む歳頃だからというわけだろうと
納得して過ごしているが、たとえば、年賀状の数が少なくなってくると、これで
いいのだと喜んで、もっと減ることを望んでいる自分がそこにいたりして。
 恋心なり、友情なり、およそ愛情の濃淡にかかわらず、ずーっと手を携えて
来た人と袂を分かってしまっても、「ヨシ!」とするのは一体どうしたわけなんだろう。
 年賀状の懸賞当選番号を見出しながら、来年分の差出人予定を整理していた。

 つまり、恋人の場合は離れて暮らすことが多くてなんだか知らないが、「冷めちゃった」
と言うことであったり、友人の場合は、それまで「ツーカー」の間柄だったのが、
どこかですれ違いの思惑が生じてきて「なんだかつまらない奴」に思えたりして、
自分もそうだが、相手の方も同じ考えになってきた結果、お互い流るる雲のごとく
過去の人になってしまっている。このことは、いとこや伯父叔母などの親類縁者にもいえる
ことで、思い返せば結構多くの思い出がありながら親近感も希薄になってることがある。
 よくよく考えてみると、これは縁だの運命だのというものではなく、あ互いが逃避し
あった結果であるのではないかと思うのだが、止む負えないことと納得してる現在がある。
 幸い人間は、過去の経験に人生を惑わせられることはないので、
別れた人や、去っていった人の記憶にさいなまれることはほとんどない。
 だが、冷めちゃった相手でも、つまらなくなった相手とでもお互いに文句を
言いながら、いつまでも続いている人達がいるが、いわゆる「腐れ縁」のことで、
これはこれで、どこかでつながってる不思議な間柄なのだと思うのだが、
燃えカスは燃えカスなりに炭になってでも永続きすることもあるのかもしれないな。
 今年の年賀はがき懸賞では下2ケタの切手が4枚当たっていた。

人生激情1457(プンプン寿司)

2012-01-24 06:54:23 | Weblog
 独り暮らしで冷蔵庫の中をひっくり返して名の付けようも無い
料理に舌つつみをうつのも飽きてくる場合もあるわけで、
たまには、くるくる寿司なんぞ食べてみたくなって外へ出たのでした。
話相手のない一人カウンターでの生寿司のつまみ食いは何かとお隣さんが
気になるわけで、右隣の青年の皿の数を眼で数えておりましたら、
そこへ、妙齢のご婦人がひとりで空いていた左隣にお坐りになって、
妙齢はいいのですが、ミンクか鹿の毛皮のコートを羽織ったままで、
香水プンプンで寿司をつまみだしまして、場違いな感じがしたものですから、
こちらの方は食欲も失せて参りました。これはけっして高価なコートへの
偏見なんかではなく、毛皮のコートが回転寿司に立ち寄ってはいかん
というわけではなく、それよりも香水の匂いがとてもお寿司に合って
なかったということで、このプンプン香水がとても鼻につきまして、
僕は六皿でおあいそうにして早々に退散したのでありました。
お値段の方はシニア料金と言うことで1000円札でお釣りを頂いて
店をでたのですが、気のせいか、お腹の方が納得してないようで、
途中たこ焼きを一人前買い込みまして帰宅の途に就いたのでした。
今朝方はそのたこ焼きが余分だったようでいささか胃の具合が重たくて。

人生激情1456(伊達者)

2012-01-23 14:55:41 | Weblog
 先月の19日のことだからもう一ケ月が過ぎた。
宮城県の岩沼市での第九の演奏会で歌った帰えりの日、
仙台出身のY子さんの誘いで、仙台在住の彼女の妹さんにある場所に案内された。
青葉城跡の山頂から仙台市内を見渡すことできるが、ビル群の中にひと際高く
真っ白な観音様が胸から上を見せて立っているのが目を引く。
「ありゃあ、何だ?」
 誰もが不思議に思うのだが、地元のガイドさんでも説明できない。
その場所に案内しようというのだ。
そのついでに、彼女たちのご先祖様の墓参りをさせられて後、曲がりくねった
細道を通り、かの観音様の足もとまで案内してもらった。
なんでも、バブルの頃、土地の「伊達男」が金に任せて建てたものだが、
当初は珍しもの好きの観光客も立ち寄ってたらしいが、今では訪れる人もなく、
枯れ草が生い茂り、つわものどもも夢の跡のごとき佇まいであった。
取り壊すにしても大金が掛かるだろうし、このまま寂しく立ってるのだろう。
帰りしなに野良猫が3匹ひと恋しさに寄って来たので手持ちのチーズを置いてきた。

 格好つけたい男のことを昔から「伊達男」という事を知らない人はいない。
身なりに金をかけてる男も「伊達男」という。悪い意味では外見にこだわることを、
「ダテや粋興で何々してるわけじゃない」などと言ったりする。
度の無い眼鏡は「ダテメガネ」だし、カッコよさを誇張する奴は「大ダテ者」だ。
 仙台といえば、伊達藩62万石の城下町である。江戸幕府下にあって、藩祖は
有名な独眼竜政宗だ。なんでもこの人は、戦国武将でありながら、相当なお洒落
だったらしい。殿様がお洒落だと、家来たちも町人も右習いするのは当たり前だ。
「伊達羽織」や「仙台平」なる袴が当時の先端をゆくフアッションだったらしい。
だから、地方のよそ者の集まりで出来た江戸の町の中でも、江戸在住の仙台藩士
は特に目立ったそうで、それを称して「伊達男」とか「ダテっぷり」などと
言われてたそうだ。その子孫が住む仙台は現代でもオシャレを自認してるという。
 かの仙台出身Y子さんの衣装への何気ない気遣いも「ダテっぷり」というところか。

人生激情1455(似顔絵素材)

2012-01-22 15:34:51 | Weblog
 地下鉄電車に乗ってるときが実に楽しい。
みなさん暇でつまらなそうにしてますが勿体ない時間だと思う。
乗客一人一人がひとつとして同じ顔がない。
これらを眺めているだけで実に楽しい。
一番に目に入るのが前の席の人だが、しげしげと、しかし、あまり
見つめないふりをしながら、よーく見てると面白さに飽きない時間が
すぐ去っていく。似顔絵描きを趣味にしてから、そんな感じで他人さま
の顔を眺めて過ごすようになったものだ。
携帯ゲームに興じてる若者は無視してる。これは無表情で仮面のようだから
面白くない。耳にイヤホーンを差し込み音楽を聴いてるのも除外だ。
心ここにあらず、いささか呆け顔に見えて生活感がまるで感じられない。

 前の座席に夫婦子供三人が坐ってる。
こちらの方は見るともなし、見ないともなく、見てるのだが、あちらはこちらに
目をくれることはない。早い話が、普通の人は他人の事には関心がないものだ。
旦那のほうは丸顔に小さな目と小さな口、それに小さく丸い鼻が特徴だ。
やや野田総理の顔に似てるがそれよりは小ぶりだ。野ダヌキっぽいかな。
口をへの字に閉じてるので何か不満があるのだろう。奥さんの方は美人だな。
女優で言うなら飯島直子風だ。野狸には不釣り合いだな。大きなお世話だが、
どういうことで二人は一緒になったのかな。男は顔や体型ではないよ。
案外に顔が粗末だと優しくて誠実な人って多いと言うから、そんな良さに
惚れたのかな。真ん中にニコニコして坐ってる女の子は可愛らしい。
久しぶりの親子三人でのお出かけで嬉しいのだろう。母親似でよかったな。
 そんなどうでもいいことに思いを巡らせてるといつの間にか目的の駅だ。