ちょっと歴史入門<10>白鳳文化

2013-04-11 21:39:12 | ちょっと歴史入門

大化の改新から平城京遷都までの期間を白鳳文化といいます。

仏像が伝来し、法隆寺などが建てられた時代を「飛鳥文化」、

そして平城京に遷都し、唐風の建築物、東大寺や唐招提寺が建てられた時代を「天平文化」といい、

白鳳文化はその通過点。

なので、古来の大和の文化と、唐の文化が混ざり合った華やかな文化で

初唐文化の影響や朝鮮半島、インド、西アジア、中央アジアの文化も影響しています。

 

この白鳳文化の時代、

時の天皇は第40代・天武天皇

壬申の乱で、大友皇子(弘文天皇)を討ち、飛鳥に都を移します。

天武天皇は、斉明天皇の皇子で、兄に天智天皇、妹に孝徳天皇の皇后・間人皇女がいます。

皇后は天智天皇の皇女・鸕野讚良皇女でした。

天武天皇が吉野に退いた際、多くいた妃の中で、一緒に動いていたのは鸕野讚良皇女だけでした。

 

天武天皇は一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務を取り、

要職に皇族を付ける「皇親政治」を行います。

天皇の権威を高め、権力は天皇個人に限られます。

 

天武天皇の時代から「天皇」の名称が使用され始めたといわれています。

 

686年、天武天皇が崩御。

皇太子には鸕野讚良皇女との皇子・草壁皇子が立っていましたが、

その弟で、鸕野讚良皇女の姉である大田皇女との間の皇子・大津皇子が謀反が企てます。

大津皇子を支持するものは多く、大田皇女が健在ならば、皇后についたのは鸕野讚良皇女でなく、大田皇女。

皇太子の地位についたのも、草壁皇子でなく、大津皇子の可能性があったわけです。

草壁皇子より少し遅れて生まれ、母が亡くなったことで、皇位継承順位は草壁皇子より下に成りましたが、

母親が同母姉妹、父は天武天皇、祖父は天智天皇であったこの2人の皇子の命運は、

太田皇女の死で定ったのかもしれません。

大津皇子は捕らえられ、処刑。

斎宮として伊勢に下っていた同母姉・大伯皇女は、任を解かれ大和に帰還します。

 

誰もが草壁皇子が皇位につくと思っていた矢先、皇子は亡くなります。

母后の嘆きは激しく、まだ幼い皇子の遺児・軽皇子に皇統をつなぐべく、中継ぎとして即位します。

第41代持統天皇の誕生です。

 

天武天皇が進めていた律令が制定・施行され(飛鳥浄御原令)、

新都の造営も完了し、遷都します。

藤原京です。

 

697年、成長した軽皇子の皇位を譲ります。

第42代文武天皇です。

持統天皇は「太上天皇」(上皇)となり、文武天皇を支えます。

上皇の誕生は持統天皇がになります。

 

そして701年、大宝律令が制定され、

中国大陸の高度な文明制度を取り入れた本格的な国家が誕生します。

 

 

次は・・・・「藤原氏の台頭」

 

 

<白鳳文化 関連記事>

ゴメンナサイ・・・・・-岡寺-

真の天皇陵-中尾山古墳-

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<歴史入門シリーズ>

ちょっと歴史入門<1>先史時代

ちょっと歴史入門<2>倭国大乱

ちょっと歴史入門<3>空白の4世紀

ちょっと歴史入門<4>倭の五王

ちょっと歴史入門<5>古代国家の成立

ちょっと歴史入門<6>豪族の台頭

ちょっと歴史入門<7>乙巳の変

ちょっと歴史入門<8>大化の改新

ちょっと歴史入門<9>壬申の乱

ちょっと歴史入門<まとめ・1>

 

 

 

 



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