弥生時代後半からの倭国(日本)の情報は、中国の文献に記されています。
紀元前2世紀頃から、漢(その頃の中国の王朝)の植民地・楽浪郡を通じて、
漢に朝貢(ちょうこう=貢物をもった使節を送っていた)していたようです。
これらの文献は、文字がなく、独自の歴史書(正史)がなかった時代の歴史を知る、
唯一の文字による史料になるわけです。
「魏志倭人伝」って聞いたことありますよね。
別に「魏志倭人伝」って本があるわけではありません。
3世紀末に書かれた「三国志」という歴史書の中の、
「魏」について書かれた記述のある一部に、「倭」のことが書かれているわけです。
他にも、「後漢書東夷伝」「漢書」など、多くの文献に、
チョコチョコ日本のことが記されています。
倭の国は100くらいの小国に分かれていて、小競り合いをしているとか、
男は入れ墨を入れているとか、風俗・社会生活のことなども記されています。
57年、後漢の光武帝に、奴国が朝貢し、「漢委奴国王」という金印(純金製)を授けられました。
江戸時代に福岡県の志賀島で、水田を耕していた時、ポロッと出てきたとの話です。
107年、倭の師升が生口(奴隷)を160人連れて、謁見を願い出ています。
中国の文献に初めて日本(倭)人の名前が出ましたが、
この人がどこの、誰かは分かりません。
桓帝・霊帝(中国・後漢の皇帝:146-189年)の治世の時代、
倭国では互いに攻め合っていました。
これを「倭国大乱」といます。
何が原因かわかりませんが、土地争奪戦、倭国王位争奪戦、いろいろ説はあります。
何年も主がいませんでしたが、そこに一人の女子が現れます。
名は卑弥呼。年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたとあります。
邪馬台国の卑弥呼の登場です。
現代風に置き換えると・・・・
この時代の「国」とは、政治集団で、「政治政党」と考えてください。
政権をまとめるのは総理大臣、倭国王はこの総理大臣と思ってください。
総理大臣も政党に所属してますよね。
卑弥呼の邪馬台国が、第1党-今で言えば自民党ですね。
話は戻って・・・・
卑弥呼は魏に朝貢し、238年「親魏倭王」の封号(爵位みたいなもの)を送ら、
金印と銅鏡100枚を贈られたと記されています。
しかし240年代、卑弥呼は亡くなります。
その跡を男王が継ぎますが、内乱となり、
台与(とよ)という13歳の卑弥呼の親族が継ぐことで、乱は終結します。
「漢委奴国王」の金印は福岡で出土しましたが、偽モノ説があります。
また「親魏倭王」の金印は発見されておらず、
卑弥呼の墓に一緒に埋葬されたのではないかとも言われています。
また邪馬台国がどこにあったのかも、はっきりとわかっていません。
魏志倭人伝には朝鮮半島からの道のりが記されていますが、
その記述どおりに行くと、海の中になってしまいます。
なので「畿内説」や「九州説」、
「九州にあって、畿内に進み大和朝廷に滅ぼされた」、
「九州から畿内に移り大和朝廷になった」など、
いろいろな説が飛び交い、未だに不明です。
卑弥呼は、径百余歩の墓に葬られたとあります。
奈良県桜井市の箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかといわれていますが、
卑弥呼が誰なのか、邪馬台国がどこにあったのかは推測の域を出ません。
次回は・・・・・「空白の4世紀」です。
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