ちょっと歴史入門<20>寛平・延喜の治

2013-10-25 21:18:59 | ちょっと歴史入門

生後3ヶ月で立太子し、876年に9歳で即位した第57代 陽成天皇

のちに武家の棟梁となる源氏の祖・経基王(源経基)は、

陽成天皇の皇子・元平親王の子ともいわれ、

「清和源氏」でなく、本当は「陽成源氏」だといわれています。

(ちなみに清和源氏説の場合は、経基王は清和天皇の第六皇子貞純親王の子

これは陽成天皇が「暴君」であったため、1代前の清和天皇の子孫を名乗ったというのです。

 

暴君・・・・乳母の子を、宮中で殴殺し、17歳(満15歳)で退位した・・・・ってことですが、

摂政・藤原基経が、自分の意のままに操れる天皇を擁立させるため、

陽成天皇を廃位させるために作り上げたとも言われています。

 

そんな基経に擁立されたのが、従兄弟にあたる第54代仁明天皇の皇子・時康親王。

第58代・光孝天皇、即位は55歳の時でした。

天皇はその擁立に報いるため、太政大臣である基経に全てを委ね、

皇嗣も定めていませんでした。

 

887年、天皇が病にかかり、基経は天皇の第7皇子・源定省を皇嗣に推挙します。

定省はすでに臣籍降下し、源姓を受けていましたが、

幼い頃より基経の妹・淑子に養育されており、藤原氏とも無関係ではなかったのです。

定省を親王に復し、天皇が崩御。

第59代・宇多天皇が即位します。

 

宇多天皇も先代に習い、基経に全てを委ね、

「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのにち奏下すべし」との詔を発します。

基経も儀礼的に従い、辞意を乞います(2回辞退し、3回目に受ける)。

ここで初めて「関白」という言葉が使われるようになりました。

天皇が再び、「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との詔を発したことで、

事件が発生します。


阿衡・・・中国の故事ですが、この言葉には位は高いが、権力はない・・・と文章博士が、

基経に伝え、政務を放棄してしまったのです。


そんなつもりはなかった天皇ですが、基経は納得せず、

詔を起草した橘広相を罷免し、誤りである詔を発し、事件は終着します。

これが「阿衡の紛議(阿衡事件)」です。

藤原氏の力が天皇より強いことを、世に知らしめた事件でした。

 

そんな基経も891年に亡くなると、天皇は摂関を置かず、

源能有、藤原時平、菅原道真、平季長等の近臣を重用し、政治改革を行います。

天皇親政で行われ、「寛平の治」と言われています。

 

寛平の治は、王臣家が諸国富豪と直接結びつくことを規制することで、

権門(有力貴族・寺社)を抑制し、小農民を保護するというもの。

また天皇直属機関の強化も行われました。

 

その寛平の治を引き継いだのが、897年に譲位された宇多天皇の皇太子、

敦仁親王第60代 醍醐天皇)です。

醍醐天皇も同じく、菅原道真を起用。

出家した宇多法皇も、道真に政務を委ねます。

 

これが面白くないのが、基経の子・時平

時平は、道真の娘が天皇の弟・斉世親王に嫁いでいることから、

天皇の廃立を狙っていると讒言。

それを醍醐天皇が信じてしまい、大宰府に左遷されます。(昌泰の変

道真は2年後、大宰府で亡くなります。

 

時平は道真を追放して政権を掌握。意欲的に政治改革に着手し、

この治世を「延喜の治」といいます。


醍醐天皇は時平の妹・穏子を女御として迎え、

第一皇子・保明親王を皇太子に立てますが、

即位する前に薨御。

その後、保明親王の子・慶頼王を皇太子に立てますが、5歳で亡くなり、

都中でも、天災や不幸が相次ぎ、道真の祟りだといわれます。

 

醍醐天皇は病に臥し、まだ幼い寛明親王に譲位し、崩御します。



次は・・・・・「承平・天慶の乱」



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