悲劇の皇子-大津皇子墓-

2013-02-06 12:07:27 | 歴史あるトコ-奈良

ももづたふ

磐余の池に鳴く鴨を

今日のみ見てや

雲隠りなむ

訳:磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか


686年、謀反の罪で死を賜った大津皇子の辞世の句です。


大津皇子は第40代天武天皇の第3皇子。

母は第38代天智天皇の皇女・大田皇女。

持統天皇の同母姉です。

 

大津皇子が4歳の頃、母・大田皇女が亡くなり、

姉・大伯皇女と共に祖父である天智天皇に引き取られます。

 

壬申の乱では挙兵した父・天武天皇の元に駆けつけ、

天武天皇の治世では皇太子に次ぐ地位で、政治にも関与。

このことが、異母兄で、皇太子である草壁皇子の地位を脅かすことになりました。

 

草壁皇子は大津皇子と1歳上の兄。

母は皇后である鵜野讃良皇女(後の持統天皇)です。

母が皇后であること、第2皇子であることで皇太子の地位につきましたが、

(第1皇子・高市皇子は母の身分が低いため、皇位にはつけなかった)

もし皇后の姉、大津皇子の母・大田皇女が生きていれば、

皇后であった可能性があり、

皇太子は大津皇子だったかもしれません。

 

血統で問題はなく、人望もあったという大津皇子は、

天武天皇の崩御後、謀反を企てていると川島皇子の密告で捕らわれ、

翌日、自邸で死を賜ります。

妃・山辺皇女は後を追い、殉死。

父の崩御からたった1ヶ月後の出来事でした。

 

実際、大津皇子が謀反を企て、天皇位を狙ったのかわかりません。

草壁皇子派(皇后派)の罠にかけられたともいわれています。

 

奈良と大阪の境にある二上山の北方・雄岳(517m)の頂上に、

宮内庁が比定した大津皇子の墓があります。

 

二上山は二こぶラクダの山。

古代から聖なる山とされています。

そんな山に罪人を葬るのか・・・・という疑問点はあります。

奈良側の麓にある鳥谷口古墳が本当の墓ではないかとか、

鳥谷口古墳に葬ったあと、二上山に改葬したとか、説があります。

 

 

大津皇子の姉・大伯皇女は伊勢の斎宮でしたが、

弟の謀反・死で、斎宮を退下します。

万葉集に大伯皇女の歌があります。

 

うつせみの

人なる我や明日より

二上山を弟背とわが見む

訳:この世に生きている私は明日からは二上山を弟と思って見よう

 

 

 

この二上山にはいくつかの登山道があります。

楽々コースから超しんどいコースまで・・・・。

行く時は前もって確認しましょう!

確認せずに挑んだ結果、超しんどいコースで登ったのは、

私です(o´д`)=эハァーイツモノコトダケド・・・

 

 

 

一度、行ってみて

大津皇子 二上山墓

 



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