ちょっと歴史入門<22>安和・寛和の変

2014-02-17 12:51:43 | ちょっと歴史入門

944年、第61代 朱雀天皇は、治世中に起こった承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)や、

天災なども相次ぎ、同母弟・成明親王に譲位し、仁和寺に入ります。


そして即位したのが、第62代 村上天皇です。

村上天皇の治世はほぼ、承平天慶の乱の戦後処理に費やされました。

949年、関白・藤原忠平が亡くなると、摂関は置かず天皇親政の形式をとりました。

この治世を天暦の治といい、醍醐天皇の治世と合わせ、延喜・天暦の治と呼ばれています。

 

967年、村上天皇が崩御すると、第二皇子・憲平親王が即位します。

第63代冷泉天皇です。

まだ年若い冷泉天皇には子がなく、病弱であったため、早急に東宮(皇太子)を定める事になりました。

その候補が同母弟の為平親王と守平親王。

 

当初は兄である為平親王が東宮になると思われていましたが、

即位したのは弟・守平親王でした。

 

兄・為平親王の妃は、左大臣源高明の娘でした。

源高明の父は、第60代醍醐天皇。7歳で臣籍降下し、源姓を与えられます。

その後、朝廷の実力者・藤原師輔の娘を妻に迎え、

妻の姉・中宮安子(村上天皇中宮)の後押しも受けていました。

そのため、為平親王が東宮・・・そして天皇に即位する。

高明が外戚になることを恐れた一族がいました。


藤原氏です。


高明の後ろ盾になっていた藤原師輔、中宮安子はすでに亡くなっており、

宮中で孤立状態でした。

 

969年、源満仲と藤原善時が、橘繁延らが守平親王の皇太弟の地位を奪い、為平親王を皇太弟にしようとしていると、

謀反を密告します。

左大臣・源高明も謀反に加担していたとされ、太宰員外権帥に左遷することが決定します。

高明は長男・忠賢とともに出家。京に留まれるよう願いますが許されず、

邸を検非違使に包囲・捕らえられ、九州へ流されます。

 

密告の功績により源満仲や藤原善時はそれぞれ位を進められ、

空いた左大臣には、藤原師尹がつき、右大臣には大納言藤原在衡が昇任します。

清和源氏が京武士として、摂関家と強く結ぶようになるわけです。

 

藤原氏のよる他氏排斥の事件・・・これが「安和の変」です。

 

 

源高明が失脚、その5ヶ月後には冷泉天皇の譲位を受けて、

為平親王は即位します。

第64代 円融天皇です。


即位した時、まだ11歳だった円融天皇ですが、

次第に藤原氏の勢力争いに巻き込まれます。

984年、甥の師貞親王(冷泉天皇の第一皇子)に譲位。

第65代 花山天皇が誕生します。

 

しかしこの花山天皇もわずか2年後の寛和2年(986年)、19歳で退位します。

ここにも藤原氏の陰謀が隠されていました。

藤原師輔の死後、摂政に就いた長男・伊尹が亡くなると、次男・兼通三男・兼家で争いが始まり、

関白についたのは次男・兼通でした。

兼通は弟・兼家の出世の邪魔をし、死に際には降格させることまでしましたが、

兼通の死後、兼家は次第に権勢を握ります。

花山天皇を退位させて、娘が生んだ懐仁親王を即位させ、摂政となるために、

寵愛していた女御・藤原忯子が妊娠中に亡くなって、悲しみにくれていた天皇を

退位に追い込んだといわれています。

兼家の三男・道兼が、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、

元慶寺(花山寺)に連れ出しますが、天皇落飾すると、道兼は寺を抜け出し逃げたそうです。

 

 

これが「寛和の変」です。

 

これにより、藤原兼家の外孫が即位。

第66代 一条天皇が即位し、兼家は摂政に就任します。

 

 

 

 

 

次は・・・・「藤原氏の栄枯盛衰」

 

 

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