ちょっと歴史入門<6>豪族の台頭

2013-03-19 22:41:32 | ちょっと歴史入門

ヤマト王朝は大王(天皇)を頂点とする、豪族の連合政権のようなものでした。

大王位に就くには、豪族の後押しが必要だったのです。

 

葛城氏は、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係をむすび、

大伴氏・物部氏は有力軍事氏族

忌部氏、中臣氏は神事・祭祀を担う氏族でした。

その中でもいち早く、仏教を取り入れたのは蘇我氏。

 

仏像が伝来したとき、日本には八百万の神を信仰する「神道」がありました。

しかし「大陸で信仰されているもの」を粗末にできません。

そこで、蘇我稲目に仏像を授けて、私的な礼拝や寺の建立を許可します。

しかしその直後、疫病が流行。

物部氏や中臣氏は「仏」のせいで神が怒っていると訴え、

欽明天皇もやむなく仏像の廃棄、寺の焼却を黙認します。

 

崇仏派と廃仏派の争いは、蘇我氏と物部氏の争いに発展します。

 

蘇我稲目は2人の娘を、欽明天皇の妃に差し出していました。

姉の堅塩媛(きたしひめ)は、七男六女をもうけ、

そのうち橘豊日大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位。

妹の小姉君(おあねぎみ)は、四男一女をもうけ、

そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位しました。

姉妹が天皇の妃になり、甥・姪が天皇となり、

権勢を極めたのが稲目の息子・蘇我馬子です。

 

欽明天皇が崩御すると、皇后との間に生まれた皇子が即位(第30代敏達天皇)

敏達天皇の皇后が亡くなると、異母妹の炊屋姫(推古天皇)が立后します。

敏達天皇は廃仏派寄りであったため、物部氏や中臣氏の勢力が勢いづき、

仏像禁止令を出させ、燃やされてしまいます。


敏達天皇の崩御後、異母弟・橘豊日大兄皇子が即位(第31代用明天皇)

用明天皇は崇物派

なので物部守屋は、用明天皇の同母弟・穴穂部皇子と通じます。


その用明天皇もわずか2年で崩御。

後継者争いは起こります。

これは蘇我氏と物部氏の戦いでした。

蘇我馬子は泊瀬部皇子を、物部守屋は穴穂部皇子を推します。

馬子は穴穂部皇子を暗殺、物部氏を滅ぼしてしまいます。

これを丁未の乱(ていびのらん)といいます。


丁未の乱では蘇我氏側には、用明天皇の皇子・厩戸皇子(聖徳太子)や

炊屋姫の子・竹田皇子など、多くの皇子がつきます。

崇仏派の勝利で、造寺事業が積極的に行われ、

四天王の像は彫り、勝利を祈った厩戸皇子により、四天王寺が、

馬子によって飛鳥寺(元興寺)が建立されます。

 

さて、勝利をおさめた蘇我氏によって泊瀬部皇子が即位(第32代崇峻天皇)

馬子の傀儡天皇でした。

それを不服に感じた崇峻天皇が、猪が献上された際、

「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」

と洩らしてしまいます。

これを聞いた馬子は592年、崇峻天皇を暗殺します。

 

「臣下による王殺し」は蘇我氏の全盛期の出来事でした。

 

 

 

 

次回・・・・・「乙巳の変」

 

 

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なぜ、にわとり?-石上神宮-

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<次回>ちょっと歴史入門<7>乙巳の変

 



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