ちょっと歴史入門<23>藤原氏の栄枯盛衰

2014-08-14 13:26:45 | ちょっと歴史入門

第66代 一条天皇。

円融天皇と藤原兼家の娘、詮子との間に生まれた皇子。

花山天皇を唆し、退位させた道兼は見事、天皇の外祖父という地位を手にします。

 

 

道兼の死後、長男・藤原道隆が摂政・関白の地位につきます。

990年、道隆は一条天皇の元に娘・定子を入内させ、同年、中宮を号します。

しかし5年後、道隆が病没すると、弟・藤原道兼が関白に就任しますが、

7日後に亡くなります、

その次の後継者争いに躍り出たのが、道隆の子・伊周と、道隆の弟・藤原道長でした。

国母として強い発言権を持っていた円融天皇の女御、

皇太后である東三条院詮子が弟・道長を推し、 

内覧、そして右大臣となり、藤原氏長者となります。

 

伊周の不運はこれに留まらず、翌年には勘違いから花山法皇に矢を射かける事件が勃発。

伊周は大宰府に、弟・隆家は出雲に左遷となります(長徳の変)

この際、懐妊中で里内裏にいた一条天皇の中宮定子の目の前で、

伊周・隆家兄弟が検非違使に捕まるのを見て、自ら髪を切り落飾します。


一条天皇の定子への愛情は落飾ごときでなくなるものではなく、

産まれた第1皇女・脩子内親王と共に、内裏に呼び寄せ再入内します。

道長への配慮か、落飾した中宮への配慮か、周囲の反対を押し切ったことからか、

定子の局は大内裏内に用意されました。

 


伊周の失脚で道長は全権力を掌握。

999(長徳3)年、道長は長女・彰子を入内。

時同じくして、定子に待望の第1皇子・敦康親王が誕生。

これに焦った道長は皇太后・詮子と共に働きかけ、彰子の立后を実現。

中宮・定子の称号を「皇后」とし、彰子は「中宮」となります。

 

翌年の年末、定子が難産で崩御。

彰子は懐妊の兆しが見えず、定子所生の敦康親王を手元に引き取って養育します。


1008(寛弘5)年、道長待望の皇子・敦成親王が誕生。

翌年には敦良親王が誕生。


1011(寛弘8)年、一条天皇崩御。

冷泉天皇の第2皇子・居貞親王が即位します。(第67代 三条天皇)


道長は天皇のもとに、次女・妍子を入内させ、中宮を号します。

そして三条天皇の皇太子に外孫・敦成親王が立ちますが、

即位わずか5年、眼病が悪化し、外孫の即位を望む道長の勧めに、

皇后・娍子の生んだ第1皇子・敦明親王の立太子を条件に譲位。

 

道長の孫・敦成親王第68代 後一条天皇)が即位します。

8歳の天皇を補佐するため、道長は摂政に就任

道長は四女・威子を入内させ、中宮を号します。

太皇太后・皇太后・皇后の地位に、道長の娘が付き、

「一家三后」と言われる偉業を成し遂げます。

その祝いの宴で詠まれたのが、

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

口語訳:この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない



長女・彰子は、一条天皇皇后(号中宮)

次女・妍子は、 三条天皇皇后(号中宮)

三女・寛子は、三条天皇皇子・後一条天皇皇太子(辞退)・敦明親王女御

四女・威子は、 後一条天皇皇后(号中宮)

五女・尊子は、 源師房室

六女・嬉子は、 後朱雀天皇東宮妃

 

まさに藤原摂関家の最盛期を迎えたわけです。



道長は嫡男・頼通に摂政の地位を譲り、後見役となりますが、

それに脅威を抱いたのが皇太子・敦明親王でした。

父・三条上皇が崩御すると、道長の圧力がかかって来たのです。

敦明親王は皇太子の地位を辞退。

その後に立太子したのは、彰子所生・天皇の弟・敦良親王です。


1025年、敦良親王のもとに入内した六女・嬉が、親仁親王を生むとすぐ薨去。

1028年、道長も亡くなると、時代は徐々に動き始めます。


1036(長元9)年、後一条天皇の譲位に伴い即位。(第69代 後朱雀天皇

関白・藤原頼通によって治世は維持されますが、

疱瘡に罹患した後朱雀天皇の譲位を受け即位したのは、

第1皇子・親仁親王第70代 後冷泉天皇)でした。

 

生母・嬉子が東宮時代に薨去し、後朱雀天皇のもとには従姉妹でもある三条天皇の皇女・禎子内親王が入内。

頼通も一条天皇の皇子・敦康親王の娘・女原子(女原は一字)を養女として入内させ、中宮となります。

皇子は道長の外孫でもある禎子内親王が生んだ尊仁親王のみで、

藤原氏の布石を築くためにも、頼通の弟・教道が娘・生子を入内させますが、皇子の誕生は見られませんでした。

そんな関係の中で、叔父・姪の関係にありながら、禎子内親王と頼通・教道との関係は疎遠となります


そんな中での後冷泉天皇の即位。

外祖父としての地位を築きたい頼通・教道兄弟は、

まだ娘が幼いことから、上東門院彰子の後見を受ける後一条天皇第1皇女・章子内親王を入内しますが、

皇子誕生は見えず、教道の娘・歓子が入内。

皇子が誕生するも、即日薨去。

1050年、頼通の唯一の娘・寛子が入内しますが、皇子が生まれないまま後冷泉天皇は重篤となります。

失意のまま頼通は、弟・教道に関白を譲り、天皇の崩御後、宇治殿(現在の平等院)閉居します。


藤原氏が外戚でない尊仁親王が即位(第71代 後三条天皇)し、

意欲的に国家財政の改革に着手します。



摂関政治の最盛期を築き上げた藤原道長、

それを共に担ってきた上東門院彰子、関白藤原頼通、関白藤原教道。



時代は院政時代に移り変わっていきます。

 

 

次は・・・・「院政」

 

 

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