ちょっと歴史入門<まとめ・3>

2013-09-01 08:37:36 | ちょっと歴史入門

歴史入門シリーズ<12>から<14>までを

もっと簡潔にまとめてみました。

詳しくは「歴史入門シリーズ」、またはその関連記事をみてください。

 

 

710年、藤原京から平城京に遷都。

時代は飛鳥時代から奈良時代に移り変わります。

 

時の天皇は女帝・第43代 元明天皇

異母姉にして、亡夫の母であった第41代 持統天皇の遺志は

「我が子に皇位を!」

しかしその我が子・草壁皇子は若くして亡くなり、遺児・珂瑠皇子が文武天皇として即位しました。

その文武天皇も若くして亡くなり、その後を継いだのが母・阿閇皇女・・・つまり元明天皇でした。


元明天皇は「文武天皇の遺児・首皇子に皇位を」と願いますが、

首皇子はまだ幼く、しかし元明天皇も50歳を超え高齢になり・・・

そこで皇位を継いだのが、元明天皇の皇女・氷高皇女でした。

第44代 元正天皇です。

未婚の皇女が即位した前例はなく、中継ぎの女帝です。

 

 

724年、ようやく首皇子が即位します。

第45代 聖武天皇です。

聖武天皇の母は、藤原不比等の娘・宮古。

不比等にとっても、外孫の即位を待ち望んでいた一人でした。

 

当時、天皇の位に就くには、血筋が大切でした。

例え、天皇の第1皇子であっても、母親の血筋で即位できなかったのです。

天智天皇の第1皇子・大友皇子は、母の身分が低いため後継者にはなれず、

それでも即位させたかった父天皇の遺志を貫こうとしましたが、

叔父・大海人皇子(天武天皇)に滅ばされました。

またその天武天皇の第1皇子高市皇子も同様で、異母弟・草壁皇子が皇太子になったのです。

 

聖武天皇の母も、新興貴族・藤原の出身。

しかし藤原家はそれを弾き飛ばせるほどの権力を手に入れつつあったのです。

母・宮古を「大夫人」と称するとした勅を発し(辛巳(しんし)事件)、

反対する皇族・長屋王と藤原家の対立が激化します。


727年、聖武天皇と藤原不比等の娘・安宿媛の間に、

第一皇子・基皇子が誕生しますが、翌年、夭折してしまいます。

基皇子は長屋王に呪い殺されたという噂が流れ、

 

729年、軍勢が長屋王の邸宅を包囲。

長屋王は妃・吉備内親王や子どもたちの首を絞め、その後、服毒自殺します。

長屋王の変です。

藤原四兄弟が邪魔な皇親勢力の重鎮・長屋王を排除し、

安宿媛(藤原光明子)を皇后にするために仕組んだことでした。

事件後、晴れて臣下の血筋から、初の皇后・光明皇后が誕生しました。

 

749年、聖武天皇は皇后との間に生まれた娘、阿倍内親王に譲位(第46代 孝謙天皇)。

聖武天皇は初の男性太上天皇となり、752年、東大寺大仏の開眼法要を行います。

 

756年聖武天皇崩御。

光明皇后の希望で、東大寺に遺品が納められました。

これが正倉院の宝物の一部です。

 

孝謙天皇は聖武上皇が崩御すると、父上皇の遺言通り、

天武天皇の孫・道祖王を皇太子としましたが、すぐに廃し、

同じ天武天皇の孫・大炊王を新皇太子とします。

 

藤原四兄弟が流行した疱瘡で、立て続けに亡くなった後、

権勢を手にしたのは不比等の長男・武智麻呂の次男・藤原仲麻呂

仲麻呂は政権と軍権を掌握し、左大臣・橘諸兄を圧倒していました。

 

仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子・奈良麻呂が天皇廃位を企てますが、

密告により発覚橘奈良麻呂の乱

仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功します。

 

758年、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位第47代 淳仁天皇

仲麻呂は皇族以外就くことがなかった大師(太政大臣)に就任しますが、

後ろ盾でもあった光明皇后が亡くなり、

退位した孝謙上皇が僧・道鏡を信任しはじめたことで、権勢に翳りが見え始めます。

 

762年、孝謙上皇は出家して尼になりますが、

「天皇は祭祀を。国家の大事と賞罰は自分が」と宣言。

孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂が対立が深まり、乱が起こります。

仲麻呂は斬首、淳仁天皇は廃位され、淡路に流罪となった

仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)です。

 

その後、孝謙上皇は重祚(再び即位)、第48代称徳天皇となり、

称徳天皇と道鏡を中心とした独裁政権が生まれることになりますが、

770年称徳天皇が崩御

独身の女帝に後継者はなく、

天武天皇の嫡流(男系)にあたる皇族がいなくなってしまいました。

そこで天皇に即位したのは、天智天皇の孫にあたる白壁王

 

白壁王は称徳天皇の異母妹・井上内親王を妃にむかえ、他戸王をもうけていました。

天武天皇系の血を引く男性皇族であるでした他戸王に皇位をつなげるべく、

白壁王は即位します(第49代 光仁天皇)。

 

即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てますが、

772年光仁天皇を呪詛したとして井上内親王は皇后を廃され、

息子・他戸親王も皇太子を廃され、大和国宇智郡(奈良県五條市)の邸に幽閉されます。

775年4月27日二人とも同じ日に亡くなります

これにより天武天皇の皇統は完全に絶えてしまいます

 

他戸親王の廃太子後、皇太子についたのが山部親王でした。

 

 

 

 駆け足ですが、以上が<まとめ・3>です。

 

 


 

<歴史入門シリーズ>

こちらからどうぞ→目次 -歴史入門-

 

 



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