ちょっと歴史入門<18>承和の変

2013-07-29 20:49:10 | ちょっと歴史入門

810年、平城上皇が復位を試みた「薬子の変」が発生。

上皇は剃髮・出家し、藤原薬子は自害しました。

 

その余波で、皇太子についていた上皇の皇子・高岳親王は皇太子を廃され、

代わって天皇の異母弟・大伴親王が立てられました。

 

第50代桓武天皇の第7皇子で、 母親は藤原百川の娘・旅子。

「后腹」の親王による皇位継承を目指した桓武天皇の考えからすれば、

大伴親王は「論外」でしたが、平城・嵯峨の同母妹である高志内親王を妃にし、

その生まれた皇子・恒世王は、血統的に平城天皇の皇子・高岳親王(母・伊勢氏)、

嵯峨天皇の皇子・正良親王(後の仁明天皇、母・橘氏)よりも、桓武天皇の血に近いため、

恒世王への皇位継承を狙って、大伴親王の立太子に繋がったわけです。

 

823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は譲位。

大伴親王が即位します。

第53代 淳和天皇です。

 

この即位に伴い、古代から続く豪族・大伴氏が、伴氏と氏を改めます。

 

833年、淳和天皇は正良親王に譲位。

在位中に、期待の皇子・恒世親王が亡くなり、嵯峨上皇の皇子の皇位を譲ったわけです。

第54代 仁明天皇です。

 

仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女・仁明天皇の同母妹)の間に生まれた、

恒貞親王を皇太子に擁立します。

 

嵯峨上皇による大家父長的支配のもと、30年近く政治は安定。

皇位継承に関する問題は起きていませんでした。

その間に台頭してきたのが、嵯峨上皇とその皇后(皇太后)・橘嘉智子の信頼を得た、

藤原北家・藤原良房

 

良房は妹・順子を仁明天皇に嫁がせ、道康親王をもうけます。

そうなると、良房は道康親王に皇位をつなげたい。


それを察した恒貞親王と淳和上皇は、皇太子辞退を願い出ますが、

嵯峨上皇に却下されます。


840年、淳和上皇が崩御。

そして842年、嵯峨上皇も重篤となり、皇太子派は危機感を覚え、恒貞親王を東国に移すことを計画。

その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談しますが、

阿保親王は皇太后・橘嘉智子に密告します。

それがそのまま、良房に伝わり、仁明天皇に伝わります。


まもなく嵯峨上皇が崩御すると、仁明天皇は皇太子派の伴健岑と橘逸勢、その一味を逮捕。

恒貞親王も天皇に皇太子辞意を願い出ますが、慰留されます。

しかし左近衛少将藤原良相(良房の弟)は兵を率いて、皇太子の座所を包囲。

仁明天皇は伴健岑、橘逸勢らを謀反人とし、伴健岑は隠岐、橘逸勢は伊豆に流罪となり、

恒貞親王は事件とは無関係としながらも、責任を取らせるために皇太子を廃されます。

その他にも恒貞親王に仕える多くの役人が処分を受けました。

 

事件後、良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられます。


これが承和の変です。


この事件により、藤原北家は権威を確立し、

後の藤原道長に繋がる藤原氏繁栄の基礎を築いたわけです。

 

 

 

次は・・・・・「摂関政治」 

 

 

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