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ジョニー・ハートマンに出会った日

2013-02-24 | JAZZ
ジョニー・ハートマン(1923年7月3日 - 1983年9月15日)

モダン・ジャズを聴く人で、好き嫌いは別として、ジョン・コルトレーンを知らない人はいないと思います。
そしてコルトレーンは生涯でただ一度だけ、歌手とのセッション・アルバムを作っています。
それは1963年3月7日、当時のオリジナル・カルテットでインパルス・レーベルに録音した「ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン」です。
このレコードは私の愛聴盤の1枚でもありますので、こちらは別の機会に譲るとして、ジョニー・ハートマンが来日した時のことを思い出して見たいと思います。

本名、ジョン・モーリス・ハートマンはイリノイ州シカゴの出身で、8歳からピアノと歌を始めています。
プロ・デビューは1947年のアール・ハインズ楽団で、その後ディジー・ガレスピー楽団を経て、アーサー・ゴドフリーのタレント・スカウト・ショウにて広く注目されることとなりました。
そして1947年12月に、ダニー・メンデルソンのストリングスをバックに、サヴォイ・レーベルへ録音した2曲が、初録音のようです。

日本への初来日は1963年1月で、アート・ブレイキーのバンド(ジャズ・メッセンジャーズ)に同行し、その後、1972年、1977年と、全部で3回来日しています。
1972年の時は単身での来日で、各地の小さなクラブでのライブだったようで、私はこの時に「生ハートマン」にお目にかかりました。
それは11月26日(27日だったかもしれません)
場所は銀座7丁目(辺りだったと思います)の、今は無き「ジャズ喫茶・ジャンク」でのことです。
そこはビルの一角にあり、エレベータで4F(だったと思います)に上がると、細長い感じのスペースでした。
聴衆は20人ぐらいだったと記憶しています。

そして当日のライブですが、コルトレーンとのレコーディングから10年近く経っているせいなのか、PAのせいなのか分かりませんが、生声は少し線が細く、かん高くなったような気もしましたが、相変わらずのベルベット・ボイスでした。
ハートマンは思ったより背が低かったのですが、ライブが終わって帰り際に握手をしていただいた手は骨太で、暖かかったことが今でも強く残っています。

この日のライブの前後で、日本のレコード2社に別の形で録音していて、当時はLPでそれぞれ発売されました。
  

なお、この2枚のレコードは、後に輸入盤CDで1枚に纏められて出ましたが、これを聴くたびに、その当時の記憶を甦らせることができます。
 

当日歌われた曲目は、このアルバムの中のものや、コルトレーンとのセッションでも録音されているゼイ・セイ・イッツ・ワンダフルなどでしたが、マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブだけは歌いませんでした。
そしてバックバンドは菊池雅章カルテットで、峰厚介はまだアルト・サックスを吹いていました。(現在はテナー・サックスが中心です)
ライブは途中休憩を挟んで、前後2回行われましたが、当日の峰はマウスピースの調子が今一つのためか絶不調で、休憩中に演奏された「驟雨」という曲では、音が途切れ途切れとなり、リーダーの菊池が睨んでいたのも印象的でした。

この来日時のハートマンは、日野皓正クインテットとの共演アルバムの解説の中で「僕の最も満足すべき演奏は、11月25日夜の赤坂クラブVIVA roomにおける公演と、東芝における日野皓正クインテットとの録音であった」と語っています。
またこの中では、ハートマンが1932年生まれとなっていますが、正しくは1923年です。
なお、上記のアルバムに記載されている菊池雅洋トリオの録音日が25日となっているため、同じ日にライブとレコーディングをしていたことになります。
(菊池雅洋は雅章の弟で、兄弟共にジャズ・ピアニストです。弟は2008年3月に65歳で亡くなっています)
  

ジャンクでのライブは、赤坂クラブの直ぐ後でしたが、ハートマンの歌はバック・バンドの不調に引きずられたのかもしれません。

なお峰厚介は、1970年8月4日にスリー・ブラインド・マイスに「MINE」というタイトルで、初録音をしています。
また菊池雅章は、この後、レギュラー・バンドで「エンド・フォー・・ビギニング」という最後のアルバムを録音し、エルビン・ジョーンズのグループに参加するため、翌年4月5日に渡米しています。
このアルバムのメンバーは、菊池雅章(p) 峰厚介(ss)、宮田英夫(ts,fl) 鈴木良雄(b) 村上寛(ds) となっていました。

余談ですが、1969年12月26日~27日に、このジャンクでライブ録音された、当時の渡辺貞夫カルテットのLPがありました。
メンバーは渡辺貞夫(as&sn) 増尾好秋(g) 鈴木良雄(b) 渡辺文雄(ds) となっています。
    

ハートマンに戻って…
3回目の来日は77年10月で、この時は女性歌手のキャロル・スローンと、新編成のニュー・ヨーク・ジャズ・カルテット(MJQではなくNJQ)と共に来日し、それぞれレコーディングもしています。
ハートマンは10月13日に吉祥寺のジャズ・クラブ「サムタイム」で、またキャロルは、10月16日に東京のメディア・スタジオで、デューク・エリントンにちなんだナンバーを集めてのものです。
その2枚をここで一緒に紹介します。
左側がハートマンのCDで、当日歌った曲も記載されています。
そして中央がキャロルの、今となっては懐かしい日本のトリオ・レコードから発売されたオリジナルLP、右側が同じ内容のジャケ違いで、米国のアリスタ・レーベルから出たものですが、こちらは中古で入手したため、どなたか宛ての直筆のサインが入っていました。
  

この時のライブ公演は、キャロルに軍配が上がったようですが、このような小さなクラブではキャリア十分なハートマンも、自らのペースを発揮し見事な歌いぶりだったようです。
また2人は肌の色の関係で、キャロルのほうがハートマンを嫌っていたとの噂も聞こえてきていました。


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3 コメント

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ジョニー・ハートマン1972年の日比谷公会堂での公演 (大黒 明)
2020-05-17 23:03:38
ジョニー・ハートマンは、1972年の来日時に、日比谷公会堂でも公演しました。
こちらは、ご覧になりませんでしたか?

私は、前から3番目の席で観ました。
第一部は、外国人トリオ、第二部は、原信夫をシャープス&フラッツをバックにそれぞれ約10曲づづ歌いました。
最初に「Help me make it through the night」を歌った時のきびきびした動き、「Misty」を歌った時の息づかいが忘れられません。

この時の音源を探しているのですが、どこにあるのか、ご存じないでしょうか?
教えていただければ、大変幸いに思います。

大黒 明

1972年の来日公演 (ashita45th)
2020-05-18 22:15:17
大黒 様
こんばんは
72年のジョニー・ハートマンの来日公演ですが、私は掲載した銀座ジャンクでのライブだけしか知りませんでした。
当夜の状況は書いた通りですが、今でもはっきり覚えているのは、バック・バンドの調子がイマイチでハートマンも余り乗った気分になれなかったと思います。
私が知る限り、公式録音としてはここに掲載した2種類のみ(共にLPとCDで出ています)で、ライブ録音については聞いたことがありませんが、今回の貴兄の情報を元に改めて探してみます。
ジョニー・ハートマンのライブ (大黒 明)
2020-05-31 00:57:17
下記の様に公演がありました。
72/11/24 
ジョニー・ハートマン(vo)共演。(日比谷公会堂)
<恋はフエニックス><アン・フオゲッタブル><フールス・ラッシュ・イン><オール・オブ・ミー><サムシング>
<ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル><ミステイ><バイ・バイ・ブラックバード>等 
(FM-東京で放送 '73 1/28)

音源はFM-東京にある可能性があります。
入手できれば、大変、うれしく思います。

尚、上記は

大黒

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