世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●勝者ドイツ・メルケルに異変 VWと難民危機、米英帝国の罠

2015年10月04日 | 日記
日本とドイツ ふたつの「戦後」 (集英社新書)
クリエーター情報なし
集英社


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●勝者ドイツ・メルケルに異変 VWと難民危機、米英帝国の罠

ドイツに異変が起き始めたのは今さらだが、VW偽装問題と難民問題で大きく世界に報道されるようになった。そのことで、流石のドイツ人も幾分慌てているのだろうが、以下のコラムを執筆している川口マーン惠美女史の論理的なような語り口の情緒論者は、櫻井よしこ、曽野綾子女史に相通ずるものがあるのだろう。なにせ、あの「正論」の常連寄稿者なのだから。ことの起こりは、シリア問題であり、次にはウクライナ問題とNATOを隷米体制に引っ張り込む、或いは離縁させない手立てとして、アメリカが企てた「正義の鉄槌」の後遺症を、いま、メルケル首相が一身に負っている状況と解す。

つまり、元を糺せばアメリカの独善的覇権国家意思の貫徹が生み出した膿を、ドイツのメルケル首相が背負い込んだと云う図式だ。次に参考にしたコラム、“フォルクスワーゲン不正で露呈したドイツ企業「グローバル化」の限界 ”で、ドイツVW社は背伸びに背伸びをした結果、梯子から落っこちたことになるが、難民問題とVW問題が、同時期に起こったのは、単なる偶然ではないと見るべきだ。VWディーゼルエンジン排ガス規制不正プログラム問題は、かなりの範囲で知られていた事実であり、いつ、公式に叩くかと云う問題だった。

この二つの重複したドイツの不幸は、メルケルがあまりにもオバマに心酔した頃から、シンクタンクやCIAなどを中心に練られ、これ以上、ユーロ圏におけるドイツ独り勝ちを容認することは、戦勝国を中心につくられた、国連常任理事国のテーゼとして、容認しにくい面があったように思える。日本は、放置しても、間違いなく衰退の方向に向かうが、ドイツと中国の同盟関係が強力なものになると、米英帝国の息の根は止められる。

非常に大きな流れの中だから、論証するだけの証拠などはないが、歴史の流れと、帝国主義的傾向を持つドイツと云う国への、殊のほかの警戒の現れなのではないのだろうか。ユーロ自体をドルに替わる基軸通貨として、これ以上成長させたくない、ドルポンド同盟の戦略ではないかと云う疑念くらいは持っておいても良いだろう。ここにきて、切れてしまったプーチンの動きに反応したのが、ウクライナにおける西側諸国の態度だ。或いは、メルケル首相が、アメリカの大掛かりな仕掛けに気づき、ロシアと手打ちしておいた方が得策と読んだのかもしれない。まあ、ここ一年は、ドイツにおけるVW問題と難民問題から目が離せない。

以下の二つのコラムの執筆者をけなす必要はない。彼女、彼の守備範囲においての観察だから、それはそれだ。しかし、その現象を俯瞰的に眺めると、米英帝国主義的な、大掛かりな罠があるように思われる。韓国経済もドイツ経済も、意外に似通っていた点は初耳だったが、何かに“おんぶんに抱っこ経済”は国を危うくすると云うことだ。アメリカ経済が金融と著作権など目に見えないもの一点張りなのも、実は、相当に危ういと云うことだ。


 ≪ ドイツ大異変! 急落したメルケル人気〜「盤石」と思われていた経済大国で何が起こっているのか?

■このままでは総選挙を戦えない
今、突然、あちこちのアンケートで、メルケル首相(CDU・キリスト教民主同盟)の人気が落っこちている。 メルケル人気は、ここ数年、破竹の勢いだった。SPD(ドイツ社民党)の政治家、あるいは支持者の間でも、彼女が首相である事には異議なしという人は多かった。
 その証拠に、今年7月、シュレスヴィヒ−ホルシュタイン州の州知事(SPD)が、「2017年の総選挙にSPDがメルケル氏に対抗馬を立てても無駄なのでやめてはどうか」と言いだし、党内の顰蹙を買うという一幕もあった。「戦わずして白旗とは何事か」と。 ともかく、施政11年目に入った首相の座は、それほどまでに安泰。メルケル氏は8月初め、非公式にではあるが、4選目の出馬も匂わせていた。
  ところが、このたびの人気の急落だ。アンケートでは、ひとっ飛びに3位、もしくは4位にまで下がっている。かなり衝撃的だ。このままではCDUは総選挙を戦えない。党の幹部は大慌てだろう。 思いがけない人気急降下の原因は難民問題だ。
 メルケル首相が、ハンガリーにいる難民をダブリン協定を無視して大量にドイツへ移送させていること、さらに、「政治難民の受け入れに上限はない」と 豪語し、無制限の受け入れを促したことに対して、とくにメルケル氏自身が所属するCDUと、その姉妹党CSU(キリスト教社会同盟)の中で批判が膨れてき ている。さらに、このたびのアンケートの結果では、国民の間でも批判が増していることが明らかになった。
  ドイツでは、すでに今年になって、極右グループによる難民収容施設への放火事件が相次いでおり(300件以上)、国民は、現在の難民政策が、このような極右勢力の台頭を促してしまったことも含めて、異議を申し立てているのだろう。 また、メルケル氏の変則的な難民政策のおかげで大変な迷惑を被っているEUの他の国々でも、批判が増していることは言うまでもない。EU、およびドイツの難民問題の混乱に関しては、『正論』11月号で詳しく書いたので、お読みいただければ幸いだ。
*筆者注:「正論」など読んだら目が潰れますW

 ■Wir schaffen es!(我々はできる!)
ドイツにおける難民論争の最大の争点は、「人口8000万の国が、1年で100万人の難民を受け入れ、穏便に消化することができるのか?」ということに尽きる。
 「できる」と主張する人々は、本当にできると思っている。なぜか? 「苦しんでいる人を見殺しにすることはできない」から、そして、「我々は善意の国民である」からだ。
 でも、どうやってそれを可能にするのか、ということは言わない。メルケル首相のアピールもまさにこれで、「Wir schaffen es!(我々はできる!)」。オバマ大統領の「Yes, we can」とおなじで、初めて聞くと、心は高揚する。
 もちろん、そんなにたくさんの難民を一度に受け入れるのは無理だと思っている人もいる。「上限を決めた、秩序だった受け入れが必要だ」、「EUの外壁になっている国を支援し、まず EUへの難民の流入を防がなければ収拾がつかなくなる」と。
  いくらドイツが経済大国であっても、すべてがお金で解決するわけではない。無制限に難民が入って来れば、社会も、労働市場も、学校も、混乱してしまうだろうという警告だ。 しかし、ドイツ人の奇妙なところは、ときどき、ある日突然、皆がこぞって理性をかなぐり捨ててしまうことだ。そして、倫理観だけを前面にかざし、自己礼賛とともに、非合理の極みに向かって猪突猛進していく。
  これが始まると、それに反対する意見には、すべて非人道的というレッテルが貼られる。また、難民の多くがイスラム教徒であることによる社会生活上の摩擦など口にすれば、あたかも「自由、平等、博愛」精神が欠けているように叩かれるのである。
 しかもメディアがこぞって、"welcome to Germany"とか、"I love Refugees"といったプラカードを掲げた人々を、これぞドイツ人の良心とでも言わんばかりに感動的に報道する。
 それを見たドイツ人は心が洗われた気分になり、さらに自己礼賛を強め、「Wir schaffen es!」の思いを新たにする。 こういう状態になった時のドイツ人は、自分たちを倫理の高みに置いているので、絶対に他の意見を受け付けない。だから、増え続ける難民に対して危機 感を持っている人たちは、問題提起すらできなかった。
 下手に声をあげても、「非人道的」あるいは「極右」というレッテルを貼られるのがオチだ。 しかし、今回のアンケートでは、ようやくその人たちの意見が反映され始めたと、私は見ている。

 ■ドイツ人を戸惑わせる収容施設の治安問題
ドイツの難民政策の危うさは、すでにいろいろな形で現れ始めている。いくらドイツ人が"welcome精神"を持つ善良な人々であるとしても、現実は不都合な方向に進んでいく。 ぎゅうぎゅう詰めになっている収容施設では、難民たちの暴力沙汰が増えており、27日には、ヘッセン州の施設で、コソボのアルバニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人もの難民が暴れ、警官、難民ともに負傷者が出た。
  多くの施設では、狭いところに、やることのない若い男性が詰め込まれ、さらに、言葉も宗教も違うため、一触即発の事態が続いているという。数少ない女性が暴行されるケースも多発しているとかで、警察のパトロールはもう限界にきている。
 そのため、収容施設の治安維持には民間の警備会社も投入されているのだが、警備する側と、される側の間でも、やはり宗教の違いなどから瞬く間に諍いが起き、火に油を注ぐ結果になっている場所も多いという(警備員には外国系が多い)。
 そこで28日、警察はついに、難民を宗教別に収容すると発表した。 この事態は、ドイツ人を戸惑わせた。これらの難民がドイツに留まるようになれば、彼らは、ドイツ文化はもちろん、その他のさまざまな文化や習慣を受 け入れて暮らしていかなければならないのだ。
 難民収容施設ですでにそれが破綻しているのだとしたら、この先、いったいどうなるのかと、ニュースを見た人々が不安に思っても無理はない。
  先日、ポーランドをはじめ幾つかの東欧の国の政府が、難民を受け入れるならキリスト教徒を優先的に受け入れたいと言って顰蹙を買ったが、彼らの言い 分にも単なる差別とは言い切れないところがある。
 ポーランドは敬虔なカトリックの国だ。難民庇護も大切だが、まず、国の治安と平和な国民生活を第一に考えるのは施政者の務めでもある。 また、施設から脱走している難民もいる。
 現在、ドイツで難民の庇護申請をしている人々の40%は、アルバニア、コソボ、セルビアなどから来ている人たちだが、これらの国では内戦が起こっているわけではないため、審査後には母国に戻される運命だ。だから、その前に潜伏してしまうつもりのようだ。

 ■メルケル首相に対峙するガウク大統領
ドイツで多大な影響力を発揮するガウク大統領は、8月26日、わざわざベルリンの収容施設に出向き、ネオナチを糾弾し、同時に、"難民 welcomeカルチャー"を自画自賛したのだが、1ヵ月後の9月27日、先の発言を大幅に修正して、皆を驚かせた。
 「我々の心は広いが、受け入れ能力には限りがある」と。 難民の受け入れにリミットがないとしたメルケル氏に対する明確な対峙である。 それどころか同氏は、1ヵ月前のように国民を難民受け入れの方向に鼓舞することをやめ、国民の間に不満や不安が巻き起こっていることに理解まで示した。
 人道的な難民受け入れはこれからも続けるとしながらも、実際の対応としては、かなり急ブレーキを踏んだ感じだ。
  また、連立与党CSUの党首ゼーホーファー氏は、最初から難民の無制限な受け入れに反対していたが、23日、ハンガリーのオルバン首相を招待し、会談を持った。日頃からドイツ政府とメディアは、オルバン首相を反民主主義者と位置づけ、難民を虐待する反人権主義者のように糾弾している。 しかし、ゼーホーファー氏のオルバン評は全く違う。オルバン氏はEUにとめどなく流れ込んでくる難民を防ぐため、セルビアとの国境を防衛しているのだ。だから、「バイエルン州はそれを支援する」と。
  Die Zeit紙は、「難民welcome共和国でのこのような歓迎ぶりをヴィクトール・オルバンはまさか期待もしていなかっただろう」と揶揄した。メルケル首相としては腹立たしい限りだろう。
 ミュンヘンでは、19日よりオクトーバーフェストが始まった。世界一のビール祭りに惹きつけられて、世界中からのお客が続々と集まってくる。その同 じ場所に、難民たちは今日も到着する。9月だけでバイエルン州が受け入れた難民は17万人。今年のオクトーバーフェストは、おそらく長い間、ドイツの人々の記憶に残ることになるだろう。  ≫(現代ビジネス:ニッポンと世界――川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」)


≪ ドイツ経済は過大評価されてきた! フォルクスワーゲン不正で露呈したドイツ企業「グローバル化」の限界
■ドイツのアイデンティティは崩壊の危機に
世界のマーケットにまたまた新たな懸念材料が台頭した。フォルクスワーゲンの排ガス不正スキャンダルである。
 ことの発端は、米国の環境保護局が、フォルクスワーゲンとその傘下であるアウディが販売するディーゼルエンジン搭載車の一部が、米国の排ガス規制に関する試験をパスするために違法なソフトウェアを使用していたと発表したことであった。
 さらに、そのソフトウェアを開発したのが、同じくドイツの代表的な大企業であるボッシュであり、ボッシュは、フォルクスワーゲン社からソフトウェア 開発を請け負った段階でその不正を知っていた可能性も指摘されている(もっといえば、EUの規制当局も、フォルクスワーゲン社の不正を事前に知りながら放置していた疑いも取り沙汰されている)。
 また、同様の不正は、フォルクスワーゲン社だけではなく、同じドイツの自動車メーカーであるBMWも行っていたとの指摘もなされており、問題は、ドイツの製造業全体の信頼性を大きく揺るがす事態にまで広がりつつある。
 この問題がドイツ経済全体に与える影響については、悲観論、楽観論が入り乱れている。楽観論者の中には、「これは、米国の厳しすぎる排ガス規制に問 題がある」として、自動車事故のような直接的被害が生じていないことから、それほど問題視すべきではない、という見方の人も少なくない。
  だた、9月28日のニューヨークタイムズ紙は、「フォルクスワーゲンの偽証問題で、いったい何人の死者が出たのか?」と題した記事の中で、違法な排ガスによる大気汚染による健康被害が原因で死期を早めるであろう人の数は、世界中で年間300万人近くになり、2050年までにはその数は倍近くになるのではないかと論じている。
  この記事の科学的根拠は明らかではないが、今後、世界の政策担当者らの関心が環境問題に向けられれば、ドイツは、これまでの「環境大国」というブラ ンドイメージも失いかねない。製造業のおける「職人気質」、そして、「環境大国」というブランドイメージの毀損は、ドイツという国のアイデンティティさえを損なわれかねない深刻なリスクである。

 ■ヨーロッパ全体の社会不安へと波及する可能性も
経済面でいえば、このスキャンダルは、ドイツの自動車輸出を激減させ、ひいてはドイツの経済成長率を大きく低下させるリスクをはらんでいる。
 ドイツは先進国の中でも突出して輸出比率が高い。GDPベースでみると、輸出の対GDP比率は直近(2015年第二四半期)で48.8%である(ちなみに日本は17.1%)。うち、自動車、及び自動車部品は全輸出金額の2割弱程度となるので、自動車、及び自動車部品輸出はGDP比で10%程度を占める。
 最近のドイツの実質GDP成長率は年率で約1.5%程度だから、自動車輸出の減少額次第では、マイナス成長の可能性も否定できない。
 また、雇用面では、ドイツの就業者の約25%が自動車関連業種に従事しているといわれている。今後、輸出の減少に伴って、ドイツの自動車関連企業でリストラの流れが出てくると、雇用環境が急激に悪化していく可能性も否定できない。
  さらにいえば、ドイツ、いや、ヨーロッパ全体にとって、このタイミングでの雇用環境の悪化は痛い。 EUはいま、シリアをはじめとするイスラム圏からの難民の受け入れを始めている。難民の受け入れは当然、財政支出拡大による難民支援を伴うが、雇用 環境の悪化が自国民の生活を圧迫し始めれば、多くの国民は、自国の財政負担による難民保護に不満を持つ事態になりかねない。これはヨーロッパ全体の社会不安へと波及するかもしれない。

 ■実は、ユーロ発足後の名目成長率は低下している
一連のフォルクスワーゲン問題の流れをみて筆者が感じるのは、「いよいよ、ドイツバブルがはじけつつあるのではないか」という懸念だ。 現在のドイツが「バブル」状態にあるという話は全く聞いたことがないが、筆者は、ドイツ経済はこれまで過大評価されてきたのではないかと考えている。
 ドイツは、統一通貨ユーロのメリットを一身に享受してきたとの見方が強いが、ユーロ発足後に経済成長率が高まった訳ではないのだ。
 例えば、ユーロ圏が発足した1999年から2014年までの名目GDPの平均成長率は2.4%であり、EU加盟国の中で最も低い。 また、東西ドイツ統合から1998年までの平均名目GDP成長率は3.6%だったので、ユーロ発足後、名目成長率は低下していることになる(リーマンショック時を控除した場合、2.7%となり、イタリアの平均成長率2.3%は上回るものの、EU加盟国の中では下から2番目である)。
 このような国内経済の不振にもかかわらず、ドイツ企業の株価は極めて堅調に推移してきた。 ドイツの代表的な企業から構成されるDAX指数は、米国の代表的な株価指数であるS&P500とほぼ同様の動きをしてきた。
 リーマンショック時の安値を100として指数化すると、今年に入ってからは、今回のスキャンダルが発生するまでは、むしろ、米国市場のパフォーマンスを上回ってきた。
  「バフェット指数(株式の時価総額の対GDP比率)」に代表されるように、1国の株価指数は、その国の名目成長率に連動して動くことが「適正」であるとすれば、ドイツの株価指数が米国の株価指数に連動して動くというのはおかしい(ちなみに、1999年から2014年までの米国の名目GDPの平均成長率は+4.1%、リーマンショック時を控除すると+4.6%となり、ドイツを大きく上回る)【図表1参照】。


 

■ドイツ企業のグローバル化は限界点に達した
このように、ドイツが国内の経済成長率と株価上昇率との間に乖離をみせた理由は、DAX指数を構成するドイツの大企業の多くが、90年代終盤以降、グローバル企業としての色合いを高めたためだと推測する。
  ちょうどITブーム期前後に、ドイツの大企業はドイツ国内の指導的な立場に飽き足らず、米国の大企業に対抗すべく、グローバル企業への脱皮をはかり、経営も米国流に変えていった。
  それまでのドイツの企業統治は、どちらかというと、従来の日本流に近いものであり、日本でいうところの「メインバンクシステム」を中心としたスタイルであったことが知られているが、そのスタイルを変えたのである。
 ところが、残念なことに、ドイツ企業は世界最大の市場である米国では思うような成功を収めることができなかった。そのため、米国での商業的な成功を獲得するために無理を重ねてきたことが想像できる。
  そして、その無理がいよいよ限界点を迎え、ここへきて様々な問題が表面化してきたと考えられる(筆者が以前勤務していたドイツの銀行の問題とほぼ同じ構図である)。これは、バブル崩壊直後、「ジャパンアズNo.1」から劣勢に立たされた日本企業ともよく似ている。
 つまり、今回のフォルクスワーゲン問題は、ドイツの大企業のグローバル化の限界を示すものであり、輸出の減少を通じてドイツの実体経済へ負の影響を もたらすと同時に、これまで米国以上のパフォーマンスを示してきたドイツ株の大幅調整をもたらすリスクとして考えなければならない。
  また、最近のドイツ経済を牽引している要因としては、住宅・建設投資の拡大がある。ドイツの住宅価格も過去と比較すれば大きく上昇しており、これがドイツ経済を牽引している。 輸出不振と株価の調整がドイツの建設需要の減少へと波及すれば、ドイツの成長はさらに減速することになる。 ドイツの「独り勝ち」という幻想は、崩壊しつつあるのかもしれない。  ≫(現代ビジネス:企業・経済――安達誠司「講座:ビジネスに役立つ世界経済」)

「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告 (文春新書)
エマニュエル・トッド
文藝春秋


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「香具師さんへ」 (山形明郷)
2015-10-04 15:08:55
養老孟司教授の『バカの壁』よりその一部を引用し
た次第であるが、実はこの「壁」そのものは、個人個人誰もが意識・無意識の
中に持っているものでもある。だからこそ「十人十色」であり、また「千差万
別」と言うことにもなるわけである。

古武術の「剣」の教えに、
「放心」と言うものあり。また「無念無想」とも言う。我構うる故に、
  彼対するなり。故に、人我の得失を氷消し去れば、あらゆる構えは無用の
こととなる。
と言う言葉があるが、
これは、「剣」に限らず何の道にても言い得る「達人」の境地であり、「凡人」
の能くなし得ぬことである。我々凡人は、何事によらず、既に「構え=壁」を
造ってしまっている。


今、ここで言う「バカの壁」とは、集約された「閥」或いは団体的・組織的
な存在に内在するものを言う。この典型的なものが「学閥」であり「門閥」で
ある。特に我が国の「文献史学」学界と称される集団にあっては、「バカの壁」
的存在は幾層にもなって重ねられ、姑息なくらいに外側に対しては頑として開
こうとしない。

かつて、ヨーロッパ中世時代1050年~1222年頃、大学は皇帝権力や教皇権力
と同じように超国家的存在でなければならぬとされ、しばしば「権力からの権
威の分離」が論じられてきた。

この権力と権威の分離闘争の過程に於いて、教師と学生はそれぞれに「ウニ
ヴェルシタス」(UNIVERSITAS ユニヴァーシティの原語・同業組合)を形成し、
やがて、彼らは国家・市などから独立を勝ち取ることができた。その先鞭をつ
けたのが「ボローニヤ大学」であり「パリ大学」であった。

しかし、このような権力と権威の分離現象は、我が国の大学には余り見られ
ぬことであり、大学そのものが「権威と権力を合体させた殿堂」として形成さ
れてきた。明治以降、大学のこの姿勢は一貫して温存され、一方では、国家権
力が常に権威をも兼ね合わせて存在していた。つまり、そういう意味で権威と
権力によって二重にコウティングされている極めて分厚い「壁」が構築され続
けてきた訳である。

また、大学と名のつく側も、当然の成り行きとして、何等かの権力者と結び
ついてゆくことにより、とりもなおさず自らを権威者に仕立て上げることが可
能であるという体質的嗅覚が働いていた。

ところが、この様な型で出来上がった旧・帝大系列の学者達は、子弟との間
に、ヨーロッツパに見られる様なウニヴェルシタス的な関係を培うことができ
ず、むしろ「ギルド的・監獄部屋的」要素の強い雰囲気を造りあげた。しかも、
国家的には偏狭なナショナリズムを後ろ盾とし、自らを「アカデミスト」と位
置づけることに成功した。

ギルド的、或いは監獄部屋的ムードと言えば、それは師に対しての絶対服従
である。師の教えの理非曲直に拘わらず、師の教えをそのまま受け継がざるを
得ず、反論や批判は許されなかった。もしも異を唱えた場合は、即座に異端者
とされ、野に下らざるを得なかった。即ち、「壁」の外側への放逐である。こ
れが具体的な「バカの壁」の成り立ちであった。


今日現在、あらゆる分野の学問は、進化が極めて目まぐるしいのに反し、こ
と「文献史学」界に関しては、気が遠くなる様な千年一日が如きであり、特筆
し得る進歩は何一つ全く認めがたいと断言できる。

文献史学界は、依然として古い体質の「壁」の内側の人々によって構築され
た史説・史観を引きずり、それが歴史解釈上の常識であり定見であると定説化
され、学者もマニアも雁首そろえ、その「バカの壁」の中においてのみ考察す
るしか能がないのが現状である。

仮に、一つの史実上のハテナ?クエスチョン・マークについて問題を提起し
てみても、その問題を精査検証しようと切磋琢磨するなどということは夢のま
た夢で、むしろ跳ね返ってくる反応は、異常なほどの「拒否・拒絶反応」があ
るのみで、それも直ぐに沙汰止みということになる。文献史学界は、この繰り
返しに終始しているに過ぎない。

しかも、彼らアカデミストやその影響を受けたマニアの人達は、自分達が学
び身に着けたことが、今日でも絶対的な存在であり、又、価値に充ちているも
のと自らを自ら自身でマインドコントロールしている。


今、ここに古代東アジア史について言うならば、そもそもの出発点の「古代
朝鮮」の所在地からして、その定説は全くの誤謬であり、価値あるどころか無
価値に等しく、更には有害でもある。今日的意義に於いては、「資本論」の資
本主義批判の理論よりも低く、せいぜい博物館行きの価値しかないと断言せざ
るを得ない。

だが、井の中の蛙大海を知らず、天の高さを知らず…である。姑息な偏見が
充満する過去の国家体制をバックボーンとして構築された「壁」の内側に鎮座
まします人々は、所詮、かつて自分達の師から学んだ定説に依拠することに捉
われ戦々兢々とし、史実を俯瞰的に眺める気力などは全くない。故に、外壁を
貫いて響いてくる意見をも、何か一種の雑音ぐらいにしか受けとめていない。
即ち、真実を知ろうとする能力が、既に去勢されているのであろう。

そこへゆくと、吾は師も弟子もなき一介の貧生、全く以て気が楽チンチンで
ある。何を見ようと何を言おうと憚るもの何物もない。かくあるが故に又、是
は是とし非は非として警鐘を鳴らすことができるのであろう。もともと失うポ
ストさらさら無し…である。

「壁」云々を引用したことで少しく逸れたが、今日まで、語り継がれている
古代東アジア史のあるページ、即ち「バカの壁」の内側の人々によって構築さ
れた史説・定説は、そのほとんどが虚構だらけ、間違いだらけのボロクソ史観
でしかない。これらは、古い体質がコネクリ出した一元的史観に他ならないと
言えよう。


  
フクシマ後に脱原発を決めたメルケル首相 (若大将)
2015-10-15 01:13:46
「ドイツには地震も津波もない、でも国民の安全が第一」と、フクシマ事故を受けて脱原発を決めたのがメルケル首相。そんな優れた彼女が、難民急増とVW問題でピンチに陥っている。メルケルさんは何も悪くないの、一寸先は闇?しかし今後も素晴らしいメルケル首相を応援している。

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