藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

地下鉄サリン事件に思う

2021年03月20日 | 雑感

 今日、3月20日は、母の誕生日です。
 生きていれば95歳ですね。

そして、地下鉄の車両内に、猛毒のサリンが撒かれた日です。

あれから、26年。

 昨年、長く闘病されていた方が亡くなり、14人の方が犠牲になりました。
さらに6000人以上の方が被害に合い、未だ後遺症に苦しんでおられる方もおいでになる。

 あの事件以来、車内アナウンスは「不審物がありましたら、お知らせ下さい」でした。
今、新型コロナの感染予防のアナウンスに替わっていますが。

 私には、未だに理解できません。

 何故「頭が良い」「優秀な」と言われた人間が、一人の命令によって不特定多数の人間を殺害したのか。
 マインドコントロール、と言われるけれど、そうなる前に何故冷静な判断を保持できなかったのだろうと。

 とにかく、サリン事件以来、電車の網棚にある紙袋や改札口付近に置いてあるバッグなどに、神経質になりました。

 あと、ホームにいる時、後ろから突き飛ばされてホームに落ちないように奥の方に立つ、とか。階段を下りる時なども端っこを使うなど。

 そんなことを気にしている人は少ないかな?

 もしかしてよく人が気にするのは、「大声を出して歩いている人」とか「薄汚れた格好で座っている人」とかでしょうか。

私、そのような人たちは特に気になりません。むしろ大声出している人に誰か文句つけたら間に入ろうかと思うくらいです。

 色々な職業を経験し、現在縁あって福祉施設で働いていて、多くの障がいをもった方たちに接しているわけですが、その一人ひとりの生き方に多くのことを学びます。

 中には、一流の大学、大学院を卒業され、一流の企業に入ったけれど疲れてしまった人たちも複数おられます。明るい気持ちになったり塞いでしまったりと、本人も苦しんでいる様子がよくわかります。
 そのような人たちと一緒に仕事をしていて、嬉しい日もあれば、何とかならないかなあ・・と思う日もある私です。

 人は、どこかほんのちょっとしたことで、人生が変わることがあると思います。良い方へ悪い方へ。
 自分一人では抜け出せない苦しい世界につかまってしまうかもしれない。

 「空中浮遊が出来る教祖」をあがめ奉って、自己の判断力を失い「教祖」の指示に従ってしまった人たちも、もしかしたら「どこか」に抜け出せる、進める、と思ったのでしょうか。

 でも、そう想像してみても、起こしてしまった罪が軽くはならない。
 
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10年前がよみがえる

2021年03月11日 | 雑感
 3月11日、東北大震災の日。

 あれから10年経ったのですね。

 母が生きている時は、3月10日。 東京大空襲の日です。

 東京のど真ん中に住んでいたので、すぐ近所にB29が落ちた話や、10日には家を捨てて避難する際に、池の中にお釜に入れたお米を沈めたことや、新宿で土管の中から猛火に包まれる電車を見た話しなど、毎年まるで昨日のことのように語っていました。

 そして私は1月17日の阪神淡路大震災。3月11日の東日本大震災。

 阪神淡路の震災の年に、初めて市議に立候補。
 東北の震災の年には、市長に立候補。  そんな巡りあわせもありました。

 3月11日は市役所庁舎にいて、道路の改良の話を担当職員としていました。

 経験したことのない揺れに、来庁している市民の方たちの情況を各階走って見た記憶があります。
 選挙事務所に行ってから、テレビが映し出す、現実とは思えない光景に立ちすくんでいました。
 その後、暫く何をしていたか、今思い出せません。

 家に帰って、母の無事を確認後、リュックにパン、ペットの水、生理用品、10円玉をあるだけ詰め込んで近くの避難所に行きました。 
 避難所の中学校には消防団と職員がいましたが、皆も落ち着きがありません。
避難してきた方に、クラッカーをくばったけれど、水が来ないと、入り口で固まっています。
 私は体育館の床に座り込んでいる女性の方たちに生理用品が必要か尋ねてまわり、お渡ししていきました。
 
 次に駅に行くと、帰れなくなった方が改札前に大勢いらっしゃる。駅前の床は、隣のスポーツクラブのプールが破損したのか、揺れたせいか、水浸し。
職員が避難所までの地図を掲げていても、通勤している人は道が良くわからないのでキョロキョロしています。 私、持ち前の大声で、避難所案内係ですと、行かれる方こちらに集まってくださーいと、観光バスのガイドさんみたいに手を振り上げて、10人単位くらいでご案内しました。
 体育館は随分の人です。

 中に落ち着かないご高齢のご婦人がおられます。
わけを聴くと、娘さんの家にいく途中できっと心配している!とのこと。
電話番号がわかるとのことなので、持参していた10円玉を使い、公衆電話で連絡代理。
無事につながって、一安心でした。

 家に帰ろうと歩いていると、迷ってしまって居る人たちに会います。帰宅しようと遠くから歩いている方や、避難所が解らなくなった方などです。持参のパン、水を御渡しします。

 こうしてみると、11日当日の様子が母と同じく昨日のように思い出されます。

 原発の爆発を見た時は、もうこの世の終わりかと思いましたが、まだまだこの世は続いています。

 廃炉となるにはまだまだ、まだまだかかります。
私は廃炉を見届けられないと思う。年月からして。

 悲惨なことも、小さな喜びも、後悔も、希望も、みんなひっくるめてとにかく生きている限り、マイナスの方向に足を引っ張るような生き方だけはしたくない、と改めて思います。
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