
そんな何の価値もないようなことに
こだわるのは、もうやめなよ。
言葉なんて、誰でも使ってるだろう。
珍しくも、真新しくもない。
それは話し言葉だって、
書き言葉だって同じさ。
BLOGで書いてる言葉なんかもそう、
その場限りの線香花火。
できるだけ、着飾って
相手に幻想を与えるような言葉を作ればいい。
そう、幻想。
これは大切なんだよ。
みんなの見たい幻想を描き出せれば、
黙ってたって、人は集まって来る。
人間ってのは元来、そんなに楽しくはないもんなのさ。
だからそんな風にあからさまに自分を表しちゃ駄目だよ。
それでお金を稼げるんならいざ知らず、
場違いなところで気張ったって、
何の得にもならないだろう。
言葉は、魅せるように使わなきゃ、
自分にとって決して役には立たないよ。
自分の言葉に責任をとれるかって?
可笑しいことを言うんだなあ。
責任なんて、とる必要がどこにある。
言葉はディスポーザブル。ん? ディスポーザブル、わかる?
使い捨てってことさ。
人間が持ってる道具の中じゃあ一番平等で便利で、
水道料のかからない水のように気楽に使える。
そりゃあ、あんまり無闇に話してると安っぽく見られるけど、
言葉は世の中で一番安価な消耗品なのさ。
同じ人間を騙すにはとても便利で、
いざとなりゃあ、いくらでも言い繕える。
言葉の効果が絶大ってことは、
口先ひとつで有名人にも大金持ちにも、
偉人にもなれるってことを、
歴史がちゃんと証明してるだろう?
だから、それを大いに利用しない手はないよ。
いいかい、言葉を使うポイントはね、
人の望むことを言うこと。
相手の幻想を助長させること。
そうさ、あとは練習と場数。
そうしてコツを掴んだら、
君は今よりずっと上手に世渡りができる。
自分の言葉に責任をとろうとか、
ありのままの自分を正確に表そうとか
決してするんじゃないよ。
そう、
言葉は所詮、使い捨てなのさ。
【写真は、言葉のジレンマに苦しんでいるミーコ】
キャッチーなフレーズ、戦略的なコピー・・・
商業的に紡がれた言葉はそうかもしれません。
責任なんか問えない。
でも、日常において、誰しも心突き動かされた‘言葉’があると思うのです。
何気ない‘言葉’でも、それを心の糧にすることもあると思うのです。
その‘言葉’を大切にする人にとって、‘使い捨て’なんて‘言葉’は存在しない。
すいません、生意気なことを言ってしまって。
お気に障ったら削除してください。
これも使い捨ての言葉です。
だから、そう思ってくれると
私の意図するところが伝わって嬉しい気がします。
このところBLOGに対する自分の姿勢や、
コメントやレスで書き綴る言葉について
少し考えるところがあったのですよ。
自分としては、できるだけ使い捨て的には言葉を使いたくないな、とは思いますが、
でも発すれば消えてなくなる言葉というものの特性からは、
言葉は「消耗品」という見方も成り立つと思うのです。
だから、この記事で言っているように、
極めて合理主義的、実利主義的な言葉というものの捉え方もできるとは思います。
まあ、誰しも時と場合に応じて使い分けてはいるのだけれど、
日常自分の発する言葉に、改めて気をつけてみようかなと思ったりしました。
読んでくれてありがとう。
BLOGを始めて間もないのですね。
BLOGというものは面白いツールですね。
私の暮らしも、BLOGのお蔭で随分変わりましたよ。
本当はもっと誰かに解ってほしいとか、訴えたいとか聞いてほしいとか、いろいろな思いが無きにしもあらずだったのですが、そんな自分(人から見られる姿ばかり意識している自分)がほとほと嫌になり、そう言う「邪念」を捨てたいな、って思いました。
言葉はどんどん毎日絶え間なく後ろに流れていきます。
それをちょっとだけ書きとめて、誰かに受け止めてもらえたら、それだけでいいような・・・
「言葉は消耗品」そんな風に受け止めています。
太宰さんの言葉です。やっとこの気持ちがわかるようになってきたんですよ。
自分の思いは、表われるためにあるようなものですね。
その表われ方は千差万別なんでしょうが。
「王様の耳はロバの耳」の童話を思い出されます。
自分の抱く強烈な「思い」は、押し留めることができないのですね。
体や心から出よう出ようとするものを、留めることはできない。
それはどういう形にでも、出すべきものなのですね。
例えそうした結果直接に悪い影響が表われるにしても、
最終的には、同じことなのです。
一時的には押し留めようとしても、もっと違った形、わかりにくい形で表われるだけですから。
私もそれに気づいた時に、
抗うことのできない「自分」というものに突き当たりました。
それが、脚色や美化なしでの、自分だと。
sakeさんの言葉は生きて私にも届いてますよ。
だから、みんな集まってくるのですね。
生きた言葉ですね。
takeさんはsakeさんと一字違いなのですね。
これも何かの「縁」なんでしょうか。
文筆を職業にしている人には、また違った言葉の使い方があるのでしょう。
「職業」としてたつきを稼ぐために用いる道具としては、
その道の人たちが見事に「消耗品」的に使いこなしているような気がします。
また、私小説のように、自分自身や人間の内面や現実をあからさまに表すことで文筆家としての本分を果たそうとする人ならば、
それもまた芸術の大きな部分ではありますが、
自己表現=職業的言葉の使い方
にもなるのでしょう。
太宰さんは文筆の職業人としての姿勢を言ったのでしょうか。
たけさんも太宰さんに肉迫して来てますね。
もし自己表現をすることで暮らしも成り立つならば、
そういう生活も、魅力的ですね。
芸術家と言われる人たちの暮らしなんでしょうか。
「言葉」って。紡ぐのも、受取るのも。
私は芸術家ではないですが、
「広告」という媒体で他人様を表現することで、
暮らしております。
思えば、ちょっと不思議なことです。
自分を表現することもなかなかままならないのに。
でも、キャンバスを前にするのと人を目に前にするのとでは、
自ずと状況が違うでしょうから、
つい、表したいことも出せないということもありますよね。
BLOGで話すときと面と向かって話すときの違いもあるだろうし、
人と出会う価値はそこら辺にあるのかもしれません。
また表現力ということから言えば、
演劇をしている人とか、話術に長けている人のほうが格段に上なのでしょうが、
その人たちが実際どれだけ自己表現をしているか、
結果的にどのような人生を送っているかは、別問題ですね。
自己表現は表現力だけではないんですよね。
何を持っているかの方が、数倍大きい。
だから人はすべて基本的に、いつだって同じスタートラインに立ってるのだと思うのですよ。
なるほど、ひとつの愛情表現として
言葉と動作、つまり人の持つ表現手法を駆使する
ということですか。
でも厳密に言えば「愛」とは、
そのような表現を意図的にする必要のあるものではないだろうから、
愛は受け容れることであり、それはその度合いに応じて
自ずと滲み出るものだろうから、
わざわざ表現技術を駆使するものでもないような気がしますけどね。
でも、言葉の定義の仕方でそのような見方も充分できるのでしょうね。
太宰さんの言葉も、誰の言葉も、
理解するのは難しいですね。