アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

豊かな食事 貧しい食事

2004-12-13 20:09:22 | 暮らし
たまに我が家の食事を垣間見て、
豊かな食事だ、と言う人がいる。
これが真の自然な食生活なんだととても感心される。
でも私は今までたくさんの人たちとこの食事を分かち合って来た経験から知っているのだけれど、
不思議とそのような人に限って、
実際にこのような食事が続くと、どうにも我慢できないようだ。


山里で自給に近い暮らしをしているのはもちろん私だけではなく、
この狭い日本の中にも、至る所にさまざまな人がそれなりの食糧自給に挑戦している。
私も同じようなことをしている幾人かとも面識があるし、
時にはそれをしたいという都会人などと話をしたり相談を受けたりもする。
だけど見ていると少し残念なことに、
「自給自足」に憧れる人は多いけれども、
実際に踏み出しても、ほとんどは長く続かないで止めてしまうようだ。
どうして止めるのかは、人それぞれの状況の違いがあるので一概には言えないけれど、
家族で移住した人ならば、まずは現金収入の問題、
それと「子供がこのような食生活に我慢できなかった」という「家庭」の理由が多いようだ。

まあ、最初の理由はわかる。
自給自足が現代日本の貨幣経済の中で成り立ちにくいのは、私も日頃切に実感しているところだ。
でも二番目の理由は、果たしてそうだろうか。

私自身が子供の野外活動をして来た経験から言うと、
基本的に子供は、お腹が空けばほとんどのものは食べると思う。
もし食べないとすれば、それは空腹ではないか、
或いははもっと美味しいものが手を伸ばせば届くところにあるからだろう。
つまり、子どもが好き嫌いを言える環境がそこに作られているということ。
お菓子をいつも目の前にして長い間暮らして来た子供は、
干し柿や干し芋を美味しいとは感じない。
そんな子に親が俄かに質素な食事をさせようとしても、
素直な子供たちは、当然ついていけないのだと思う。

ところで、我が家の食生活は本当に豊かなんだろうか。
そもそも「豊かな」「貧しい」とは、いったいどういうことなんだろう。

まず、経済的な尺度からすれば、
我が家はそれこそ「極貧」に近いかもしれない。
1日の食費は、平均すれば100円前後というところか。
他に酒代がやはり同じくらいかかってると思う。
というのは、どぶろくだけでは消費量に追いつかないのが現状だから、安い焼酎やウイスキーを時々買っているのだ。
でもいずれにせよ、一日の食費と飲み代でコンビニのカップ麺やサンドイッチをひとつ買うことができるだろうか、という水準だと思う。

では、食事内容から見たらどうだろう。
食材の品質は、我ながら一級だと思う。
畜産農家で排出する厩肥(化学物質にまみれている)を入れず、100%自家製堆肥で育て、工業製品である農業資材も一切使わない。つまり我が家では鶏も含めて化学物質を一切排除して育てている。巷で言う「有機栽培」などより遥か上を行く栽培方法だ。
加えて、いわゆる旬のものしか食べない。
我ながら徹底している。アレルギー症状の人でも食べれるものを留意して作っている結果なのだけれど。
これだけ聞くと都会に暮らす人にとっては素晴らしく贅沢のように思えるかもしれない。
しかし実際は残念ながら、そうでもないんじゃないかな。
例えば今時分、野山が雪の被った12月ならば、毎日ほとんど大根とキャベツ、白菜だけ食べて暮らしている。
それに夏の間作り溜めたニンニク、ミョウガなどの保存食を添える程度。
それを玄米とともに毎食、毎日食べ続ける。
これのどこが、贅沢と言えるのだろうか。


「豊かな」「貧しい」というのは、何かと比較することによって生まれた言葉だと思う。
ではいったい、何と比較しているのだろう。
もし他の人の食事を自分のよりも豊かだと見えるならば、
それはほとんどの場合、いや、この日本の中でだけ言えることなのだけれど、
率直に言って身の程をわきまえない人の発言だと思う。
更に言えばそれは自分の貪欲さを正当化しようとする行為に近いかもしれない。
なんとなれば今の日本の食生活は、世界的に見てもだんとつに贅沢と言えるのだから。

田舎暮らしをテーマにした雑誌などでは、
田舎の食事または自給自足の暮らしの例として、
どう見ても超グルメの贅沢な食膳が掲げられたりしている。
まるで都会の料亭で大枚をはたいている人の感覚で、田舎料理を記事にしている。
けれどもちろん、自給をしている人にとって決してそれが一般的な生活ではない。
そういった誤った情報も、日本人の食事観を歪める一因になっているのかもしれない。


現実にたくさんの家族持ちや独身者が、
自給の暮らしをしているのを知っている。
途中で止める人もいる反面、長く続ける人も確かにいる。
だってそれは50年前には誰もがしていたことだもの、できないはずはない。
これは裏返して言えば、それをしようとする意思のある人には続けられるということでもある。
忘れてはならないのは、今のその人の食生活は基本的に各人が自分の意思で選んでいるものだということだ。

自分の食生活の更なる充足のために
私たちひとりひとりが今すぐにでもできる最も効果的なことは、
今目の前にある自分の食事を、満足していただくことではないだろうか。
世界最高水準にある現在の日本にあるからこそ、
実際にそれだけの価値が、どう見てもその食事には
あるのだと思う。





【写真は、私はいつも満足よ!のミーコ。
魚と鳥肉とキャットフードがあれば、他に言うこと無いんだって・・・
おまえなァ・・・】



コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山芋の季節 | トップ | 12月の雨 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ウチも今は大根が多いです。 (あん♪)
2004-12-13 20:30:15
白菜も庭にあるんですが、

半分以上、虫に食われてます。

その残りをわけていただいてるようなカンジ...。

大根の葉っぱは、かるくゆがいて卵と一緒に炒めるとおいしいです。

でも、やっぱ、誰かに作ってもらった食事が

一番おいしい...。

顔の見える誰かにね。

誰だかわかんないヒトに作ってもらったのは

おいしくないです。
食べ物に対して (agrico)
2004-12-14 09:25:29
これはいい、悪いと言っていると、

精一杯生きている大根が怒りそうな気がしますね。

同じように、食べるものに対してやたら「不味い」という人がいるけれど、

これは飽食の極みが産んだ味覚の麻痺症状が原因かもしれない。

人は味覚が麻痺したり正常な感性を無くした時にそう思ってしまうのかもしれません。

ひと頃流行ったグルメという観念も、徒に商業ベースに踊らされたようなところがあります。

だからそう言う人は、たくさんのものに対してそう言いますね。

でも、本当の美味しさ、美味しくなさは全然別のところにある。

現代の日本でも、その意味で物の本当の味を知る人は少ないのかもしれません。

昔の貧しい百姓の方が、ずっと味を知っていたでしょうよ。



うちも毎日大根おろしです。

他に、味噌やヒマワリの種をつまみにしてますよ。
結局のところ (koko)
2004-12-14 09:37:21
ないものねだりのような気もしますね、



目の前にある食事をおいしく食べて、満足する。

これが出来る人は幸せですね。



心がけ次第でどんなご馳走にだってなれそうですね。
今回ちょっと (agrico)
2004-12-14 14:36:51
辛口の記事になりました。

前回の記事のたけさんのコメントから思いを膨らませて、

食べ物について纏めようとしたんです。

食べ物は、体を作っていくし、

同時に心にも大きな影響を及ぼすと思うので、

私にとっては大きな問題なんですよ。

それというのも、こんな暮らしをしていくうちに

いろいろ気づくところがあったからなんです。



確かに、目の前のものに満足しない人は、

例え何を手に入れても満足できないでしょうね。

それは食べ物の美味い不味いと同じように、

そのものとはまったく別のところに問題があるからですね。



現状に満足すまいとする自分の心には、

それなりに確たる理由があります。

それを心の深みに分け入って見つけることができれば、

同じように、たくさんの自分の心の習性の源を、

突き止めることができると思うんです。

私も自分なりに、まだまだ試行錯誤の繰り返しですよ。

コメントを投稿

暮らし」カテゴリの最新記事