言語分析未来予測

上石高生
言葉の分析からの予測です。分析の正しさは未来に答えが出ます。分析予測は検証可能でなければなりません。

ジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルース氏の分析

2007年12月22日 14時34分18秒 | 反占
 夢とは自己主張とは違うものである。主体から見ると、予知夢に譲歩しているとさえ言うことができる。そんな夢とは、いくら主体がそのイメージに譲歩しているとはいえ、非常にぼんやりとしたものにすぎないはずだ。この点ではテレビでの本人の主張、はっきりとその場にいるように見える、などとは一致しない。

 それが予知や予言と変化すると、まず周囲に大らかさを求めるものでなければならなくなる。始めから受け入れてもらわなければ、それが予知や予言だと発表さえしてもらえないからだ。大らかに受け入れてもらえなければ、予知も予言も無いのだ。
 そのような依存性が、周囲を不安にすることで注目を受けようとしている。

 これは占い師などとも同じである。つまりこのようなものは元々能力とは言えないものなのである。
 能力とは、自分1人でも確認できるものなのだ。楽器を弾けば、どの程度の腕前か、自分1人だけでも分るものだ。しかし超能力者や、占い師は、第三者の大らかな肯定がないと、それを能力と言うことさえできないのである。
 周囲の寛容さがなければ、彼らは存在できないのだ。

 特に予知夢での予言とは主体的でないものだ。主観でもない、主張でもない。そのイメージに、まるで超能力者の主体性そのものが、予言者にもかかわらず、譲歩的であるのだ。本人もテレビ番組では、自分の予言がむしろ外れてほしい、とさえ言っている。
 自分が超能力者だと主張している人が、夢のイメージに逆らうことなく、従っているのだ。それが自分が超能力者だ、と主張する理由である。
 超能力者は、予知夢に譲歩的で単に夢を書き写しているに過ぎないのである。しかしながら、さらにこの超能力者は、予知夢よりも、もっと現実に譲歩しなければならないのだ。自分の主観や主体よりも、予知夢よりも、現実には逆らえないでいる。
 つまりこの超能力者の能力とは、主体的なものでもなく、主観的な主張でもなく、創作でもなく、創造物ですらなく、夢と現実という2重に譲歩的であらねばならないもの、しかも絶対的に現実には逆らえないものである。

 マスコミには妥協的かつ迎合的なのは、前で書いた、第三者の大らかな肯定がないとそれを能力と言うことさえできないのであるのも1つの理由なのだが、元々メディアから発せられる膨大な情報に影響されているからである。そのような現実には絶対的に逆らえないのだ。それでマスコミに予言を提供することで高評を得ようとしている。思わせぶりな口ぶりだが、安直でかつ通俗的である。

 予知夢での予言には、偽装や誤魔化し、結果的に騙す目的があるのではないか。
 マスコミやメディアを頼りにしていながら、予言は的中していると放送させることで大衆に対しては操作的である。自分自身を救世主のような存在として多くの視聴者に認識させるように誘導しているように見える。

 予知夢は深層的な能力が現出したものであるという議論があるとすれば面白いことである。
 だが超能力者本人にそのような見解がないのも興味深いところだ。
 そこで、予言が彼の超能力の産物であり、それにも著作権が発生しているのであれば、それと共通性のあるニュース記事は著作権侵害になるか? という疑問が起こる。
 予言が90%ほどの確立で的中しているのであれば、多くのニュース記事は世界的なレベルで著作権侵害となるのではないか? という疑問だ。これはとても興味深いパラドックスではないか。

 しかし超能力者は登記所の登録をしているのを証拠として、自分の予言の著作権を主張し、世界のマスコミと訴訟で争うことはできないのではないか。なぜなら彼こそ世界のマスメディアやニュース記事の影響を強く受けていて、かつ世界のマスコミに依存的・依頼的であるからである。それでこそ彼の救世主願望は満たされるのだ。

 ジュセリーノ氏が自身の超能力を世界に証明するには、世界のニュース記事こそ私の予言警告文を真似た著作権侵害だと主張し、訴訟を起こせばいい。オランダ・ハーグの国際法廷がその超能力を証明してくれるかもしれない。国連から勲章を授与されたという名誉のためにもやってみてはいかがか? 
 登記所の登録がどれほどの証拠として認定されるかがポイントとなりそうだが、的中率90%が真実であるならば、世界で初めて国際法廷で認められた超能力者となれるだろう。

 私は無理だと思うが……。


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