プロジェクト○川

学生に本を読んでもらおうという,ただそれだけのはずでした

英雄

2022年11月23日 | つぶやき
イランは大敗し、サウジは大金星を上げた。

勝利を喜んだサウジの国王が、翌日を休日にしたことを「粋な計らい」と書いている記事も見かけた。でも、サウジという国についていくらかの知識があったら、いきなり翌日を休みにできるような強大な権力に感じるべきは、むしろ恐怖じゃないか…?

イランの選手たちは、サッカーなんかよりもはるかに大きな問題に、命懸けで向き合った。その直後に最高のパフォーマンスなんて、できるわけがない。

英雄たちに、心からのリスペクトを。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヌーボー

2022年11月17日 | ワインとか
ヌーボー中です。

今年はセイコーマートので(いただきものね)、なんとアルコール度数が13.5%で、とても普通のヌーボーとは思えない濃さ。でも、そう言うことが続いているので、「ヌーボーは薄い」という常識の方を変えるべきなんだろうな。

ラベルに造り手の情報があまりないけど(日本語では)、フランス語を検索したらボジョレーの協同組合のものらしい。

ワインの協同組合って、当たりだととてもお買い得なんだよね。南アのKWVとか、バルバレスコのあれ(名前は出てこない)とか。このワインもセイコーマートの人(社長?)が現地をまわって探したんじゃないのかな。

飲み過ぎているかも。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よい子

2022年11月12日 | つぶやき
ひとつ前の「いい子症候群」で思い出したのだけれど、8月に亡くなった中井久夫先生(疑いなく、日本で最高の知性の一人だった)が、こんなことを書いている。

実は学校内の暴力の量が最大だったのは戦時中の学校であると思う。(中略)私もかなり残虐な目にあったこともあるが耐えた。親にも教師にも言わなかった。親は無力であり、教師は必ずしも味方ではないと思った。私は天文学の本をくり返し読んで、宇宙から眺めたら戦争もわれわれの生死もとるに足らないことであるに違いない、という慰めで自分を支えた。日本降伏を知った時、まずひらめいたのは、あの暴力の場である「大日本少年団」がなくなることであった。私は学校へ行ってみて、昨日まで黒板に書かれていた神州不滅の板書がはやくも消されていることを確かめた。「やっぱり」と思ったが、教師への信頼がそこで崩れたわけではない。人間がそういう行動をとることを大戦時にすでにいくらでも知る機会があった。
何という可愛げのない少年だ、とお思いのことであろう(なぜか私は当時からファナテイックなことが嫌いだった。軍国少年ではなかった。 終戦時の価値転換の経験がない)。しかし、私のことはともかく、一般に可愛げのある子どもたちであることを求める傾向は全体主義への傾斜であると私は思う。児童のことを「よい子」と言うのはたしか戦時中にはじまる。〝可愛げのない“小学生の私には、このことばに歯の浮く思いがあった。現在の思春期問題の解決の落ち行く先が再びこうであってはなるまい。私はそれを言いたいのである。
(中井久夫『「思春期を考える」ことについて』、ちくま学芸文庫)

いい子(よい子)なんて、別にいいことじゃない。
そこまでは当たり前だとしても、子どもに可愛げを求めることに負の側面があるという指摘は、よく噛み締めないと。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皆の前で+

2022年11月06日 | 本の話
金間大介『先生、どうか皆の前でほめないで下さい: いい子症候群の若者たち』(東洋経済新報社)は、今どきの大学教員など、若者と付き合う機会のある人なら誰もが読むべきで、たくさんの謎が解けます。読みやすい本だし、audibleにもあるので、内容はそちらを。

でね、昨日のYahoo!ニュースに「「キャンパスにいても教室に来ない」大学生たちの本音は? コロナ禍で変わる大学の価値」(AERA dot.)という記事があって、大学の授業の意味を考えるという体になってるんだけど、そこに描かれている「現象」は、この『先生、どうか…』を踏まえて考える方がよさそうに思う。

記事には、「大教室でやるような講義形式の授業は、オンラインが選べるなら、大学にいても教室では受けません」(学生ラウンジから遠隔で受講)という、ある大学四年生の話が「その理由は後ろ向きなものではない」という文脈で紹介されている。でも、『先生、どうか…』を読んだ後だと、続くコメントのなかの「教授からいつ指名されるかという緊張もない」という部分に、どうしても注目してしまう。もちろん、彼女は実名取材を受けているのだから、この本でいう「いい子症候群」そのものではなさそうだけれど。

このあいだY太郎の学習発表会があって、平成ー令和式の「全員が平等にセリフ」という劇を見てきたばかり。親としても教員としても、考えることが多いです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史の転換点

2022年11月04日 | 本の話
余華『ほんとうの中国の話をしよう』(河出文庫)より。

歴史の転換点には、必ず象徴的な事件が起こる。一九八九年の天安門事件がそうだった。
(中略)
あの中国を席捲した激しい大衆運動は、六月四日早朝の銃声とともに終息した。その年の十月、私が北京大学を再訪したとき、そこにはまったく別の光景が見られた。日が暮れると、未名湖のほとりに何組ものカップルが姿を現し、学生宿舎からはマージャンの音と英単語を暗唱する声が聞こえてきた。たったひと夏で、すべてが変わり、春に何か事件が起こったとはまるで思えなかった。これだけ大きな落差は、一つの事実を物語っている。天安門事件は、中国人の政治的情熱が一気に爆発したこと、あるいは文革以来たまっていた政治的情熱が一時的にカタルシスを得たことを象徴するものだった。それからは金銭的情熱が政治的情熱に取って代わり、誰もがみな金儲けに走ったので、当然ながら一九九〇年代には経済的繁栄が訪れた。
(中略)
思うに、一九八九年の天安門事件は「人民」という言葉の内容を換骨奪胎する分水嶺だった。あるいは、「人民」という言葉の資産再編を行ったと言ってもいい。古い内容を破棄して、新しい内容に置き替えたのである。
文革開始から今日までの四十数年間、「人民」という言葉は中国の現実の中で、中身のない単語だった。いま流行している経済用語で言えば、「人民」はダミー会社にすぎない。その時代によって違った内容で、このダミーを使って株式上場を果たすのだ。

天安門は巨大な敗北ではなく(あるいは、敗北でもあったがそれ以上に)、カタルシスだった。その後の展開を見れば、なるほどと思わざるを得ないけれど、外からはわからないというか、わかっても口にしにくいことだ。カタルシスって言葉も、ずいぶん久しぶりに見た気がする。

なお著者名の「余華」に、解説では「ユイ・ホア」とルビが振られているのに、カバー裏や奥付には「よか」と書いてある。もう読み方は英語圏での音に合わせないと、外国の人と話すときに困るよね…。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする