プロジェクト○川

学生に本を読んでもらおうという,ただそれだけのはずでした

パスカルにならいて(はめられた?)

2018年02月08日 | つぶやき
植草一秀、高橋洋一から、前川喜平、さらには山口孝之や三橋貴明まで、左右を問わず「はめられた」のではないかという類の噂は多い。

もちろんこのなかには、そんな与太話を信じる人がいるということを信じられないものも混ざっているわけだが、それはさておき、その最新版の対象が大竹なのだから、黙っているわけにはいかないさ(この呼び捨ては、20年以上シティボーイズのファンである僕の、深い愛情からくるものだと理解してほしい。20数年なんて、ファンの中ではひよっこの部類なのだが)。

もちろん僕に、事の真偽はわからない。でも論理的には、それがわからなくても、言い切れることはある。

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「パスカルの賭け」と呼ばれる判断がある。

神の存在を信じるべきかどうか。パスカルはこんな風に考えた。

神が存在するかどうかを判断することはできない。だが、もし神が存在するなら、そう考えて生きることで、天国が約束される。反対の生き方をすれば(たぶん)地獄行きだ。

もし神が存在しないとしても、「神は存在する」と考えて生きることの不利益は小さい。

したがって、「神は存在する」と考える方が「賢明である」。これがパスカルの結論だ。

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大竹(の娘)ははめられたのか?

はめられた、つまり、何らかの「力」が働いたのだとする。この場合、それで萎縮してしまっては、その「力」の持ち主の思うつぼだ。萎縮せず、それでさらなる「力」の行使があったら、ことは次第に明らかになっていくのではないか。僕らが生きている国が、旧ソ連や北朝鮮でないと信じられるのであれば、おのずと限界はあるはず。

そんな「力」は働いておらず、これは単なる偶然(大竹が政権批判をしていることとは無関係)なのだとすれば、萎縮に意味はないし、信じるところがあるのなら、萎縮は大きな損失につながることになる。

僕らはどうすべきか。パスカルの「証明」よりも利得表は曖昧だが、もし「力」が働いたのだとすれば、そんな薄汚い「力」の源泉を支持することは、民衆としての自殺行為だろう。

一方で、もし「力」など働いていないとするなら、これまでの考え方を変える必要はない。

たぶん、こんなことを考えなくてはいけない状況自体に、僕らの社会が直面している危うさが露出しているのだと思う。

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ついでに、蛇足なのはわかっているけれど…。

記者会見の大竹の姿を、僕は心から「かっこいい」と思ったし、ちょっと泣きました。
コメント
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