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【木下昌明著、『スクリーンの日本人 ~日本映画の社会学~』】
「日本の「侵略性」をとらえるものの見かた」(p.101) が日本映画に欠落。大島渚監督 (p.111、119) も例外でない。「・・・反戦的な映画で、主人公がアジアの人々に残虐行為を働いたとしても、それが上からの強制であり、主体的ではなかったとする内面のアリバイづくり (被害者意識) を描くことに費やされていた (橋本忍の『私は貝になりたい』(一九五九年) がその典型例)」(p.187)。井筒監督が同様なことを指摘していた。
「・・・小林よしのりが・・・強制連行はなかったとか、あれは商行為だったとかいう立場から毎号のように「ごーまんかまして」いる。・・・わたしはふきだしてしまった。これはむかし・・・江藤淳が転向を表明した手口の二番煎じだったからだ」(p.144)。
伊丹十三批判 (p.227)。「・・・そのあざとい商売根性が、わたしの頭のどこかに引っかかっていたせいもある。・・・企業への忠誠心・自己犠牲の精神が肯定的にえがきだされる。そこにわたしは嫌悪をおぼえる。・・・これこそ体制の論理にほかならない。また、この意識は、戦争中の滅私奉公の精神と根っこのところでつながっている、うさんくさいしろものである」。
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