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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、歌が恋しくなるであろうと、貫之は言った。
優れた歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあると、公任は言った。仮にも数百首解いてきた、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあることがわかった。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (285)
題しらず よみ人しらず
恋しくは見てもしのばむもみぢ葉を 吹きな散らしそ山おろしの風
題知らず 詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く
(恋しくなれば、見て、偲ぶつもり、枝の・もみぢ葉を、吹き散らさないで、山おろしの風よ……貴身恋しくなれば、見て、偲ぶの、も見じした身の端お、吹き散らさないでよ、山ばおろしの厭きの心風)
「見て…思って」「見…まぐあい」「もみぢ…も見じ…見ないつもり…見たくない」「も…強調」「じ…うち消しの意志」「葉…端…身の端」「を…対象を示す…お…おとこ」「山…山ば」「風…心に吹く風…ここは厭き風」。
木の枝に散りそうになっているもみじ葉、晩秋の情景――歌の清げな姿
も見じしても、散らさないで、なおも見て偲ぶの、女の情念、執念――心におかしきところ。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (286)
題しらず よみ人しらず
秋風にあへず散りぬるもみぢ葉の 行ゑさだめぬ我ぞかなしき
題知らず 詠み人知らず・匿名で詠まれた男の歌として聞く
(秋風に耐えられず、散ってしまったもみぢ葉の 行方知れずなのが、我は、哀しいことよ……厭き心地の心風に、耐えられず、散ってしまった、も見じの身の端の、逝く方知れず、我は、哀しいことよ)
秋風に吹かれて、枝より散ったもみぢ葉、行くへ知れず、晩秋は・哀しいことよ――歌の清げな姿
も見じした男の身の端など、ゆくえ知れぬほと、萎えてしまう、おとこの性(さが)、哀しいなあ――心におかしきところ。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)