帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(125)かはづなく井手の山ぶきちりにけり

2017-01-16 19:08:02 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下125

 

題しらず               よみ人しらず

かはづなく井手の山ぶきちりにけり 花のさかりにあはましものを

       この歌は、或る人の曰く、橘清友が歌也

題知らず                  詠み人知らず(男の歌として聞く)

(かわず鳴く井手の山吹、散ったと聞いた、花の盛りに逢いたかったのになあ……川津泣く、井辺の、山ばのおとこ花散ってしまった、華の盛りに合いたかったのになあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「かはづ…河鹿…かじか蛙…清い声で鳴くと言う…鳴く虫などの言の心は女…川・津…おんな」「なく…鳴く…泣く」「井手…地名…名は戯れる…井の端…井の辺り」「井…言の心は女…おんな」「手…て…接尾語…場所などを示す」「山吹…木の花…男花…おとこはな」「に…ぬ…完了したことを表す」「けり…伝聞を表す…詠嘆を表す」「花…華…盛んに栄えていること」「あふ…逢う…合う…合体…和合…山ばの合致」「ましものを…実現不可能な事をあえて希望し詠嘆する意を表す…何々したかったのになあ」。

 

晩春・かじか鳴く、井手の山吹の花は散ってしまった、花盛りに出逢いたかったのに・去る花の春を惜しむ人の心。――歌の清げな姿。

春情の果て・川津泣く、井辺のおとこ花、散ってしまった、はなの盛りに・山ばの絶頂で、合いたかったのになあ。――心におかしきところ。

梓弓はるの、おとこの果てに、男が心に思う事を言い出した歌。

 

人の心におかしいエロス(生の本能・性愛)が歌の真髄である。時には、そこに深い心も顕れる。清げな姿だけでは歌ではない。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による