帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(121) いまもかもさきにほふらむたちばなの

2017-01-11 19:04:00 | 古典

             

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下121

 

題しらず              よみ人しらず

いまもかもさきにほふらむたちばなの 小島の崎の山吹の花

題知らず                 詠み人知らず(女の詠んだ歌として聞く)

(今も色美しく咲き匂っているでしょうか、あの・橘の小島の崎の、山吹の花よ……いまも・またもかしら、咲き匂っているようね、絶ち端が、来じ間の前の山ばで吹くおとこ花よ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「いま…今…時を示す…井間…場所を示す」「も…意味を強める…(昨夜も・今も・いつも)並列を表す」「かも…疑いを表す…詠嘆を表す」「さきにほふ…色美しく咲く…咲いて匂っている」「たちばな…橘(地名か)…木の花の名ならば言の心は男…立ち花…絶ち端…絶えたおとこ端」「こじまのさき…小島の崎(地名)…名は戯れる…来じ間の先…山ば来ない前」「じ…打消し」「山吹の花…春に花咲く落葉低木の木の花…言の心は男…山ばで咲くおとこ花…体言止めは余情がある」。

 

今頃も、色美しく咲いているかしら、あそこのあの山吹の花は・回想。――歌の清げな姿。

今もまたも、井間に咲き匂うらしい、立ち花の・絶ち端の、来ない間の前の、山ばに咲くおとこ花よ。――心におかしきところ。

 

山ば前に疾く咲き散る男の性(さが)は、女性から見れば疾患であろう。このような歌を詠める女性は、すでに肝に銘じて知っている。歌はこのような性愛に関わることを、知識や知恵として教えてくれる。 

真名序の「化人倫、和夫婦、莫宣於和歌」を意訳すると「人間関係の倫理を教化し、男と女の仲をも和らげるのに、和歌より適当なものは他にない」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)